城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

青春プレイバック・甲斐駒ヶ岳と仙丈ヶ岳 20.7.24  

2020-07-24 20:05:38 | 過去の山登り記録
 いつもの夏であれば、昔の山ともM氏と薬師岳へ出かけるはずだった。ところが、新型コロナはこのささやかな計画を打ちくだいてしまった。そこで、おじさんが20代、30代のころの印象に残る山登りをシリーズで紹介したい。今日は、昭和49年(1974年)9月14日~16日の黒戸尾根から甲斐駒ヶ岳・仙丈ヶ岳を昔の記録と写真により紹介したい。2回目は昭和54年(1979年)8月11日~13日の北鎌尾根、3回目は昭和55年(1980年)9月12日~15日早月尾根、そして最終回が昭和56年(1981年)7月31日~8月2日黒部赤木沢をそれぞれ紹介したい。今から46年~39年前の記録、昔主流?だった衣類、靴、テントなどに注目して欲しい。山登りは大学生時代に少しづつ登り始め、職場のさほど活発でない(もちろん入ってみてわかったことだが)クラブに加入し、30代半ば頃まで登った。夏を中心にアルプスに年に2回程度出かけていた記録のうちの一部である。

第1回目は、黑戸尾根から甲斐駒ヶ岳(2967m)に登り、北沢峠から仙丈ヶ岳(3032m)そして峠まで戻り、丹渓山荘からは戸台まで長い河原歩きのコース。今なら戸台から北沢峠まではバスが乗り入れている(今年は新型コロナのため運休中)。特徴は黒戸尾根の長い登りで始点となる駒ヶ岳神社の標高が780mほどだから山頂まで標高差約2200mの登りとなる。第3回に書く予定の早月尾根は、始点の馬場島から剱岳山頂まで2234mの標高差だからほぼ同じくらいの長時間コースである。以下は、当時残した記録を忠実に再現したい。


 概念図

日時  昭和49年9月14日~16日
同行者 H氏、M氏
記事 
 岐阜駅発0時26分→塩尻(乗り換え)→韮崎
◯一日目 駒ヶ岳神社8:45→7合目サイト地16:20 天気曇り
 駅近くの山交タクシー乗り場から同乗者1名を加えて、竹字駒ヶ岳神社へ向かう。神社の手前で降り、登山者名簿に記入後、荷物を整え、8時45分出発。神社に参拝後、すぐに吊橋を渡り、通称十二曲り、15分ほどで尾白渓谷道との分岐、ひたすら尾根道を登る。花崗岩の白ザレが露出したところを過ぎるとすぐに水場があるかゆ餅石に到着。さらに15分で笹平に11時30分到着し、ういろを食べる。広い道を1時間ほど登ると難所の刃渡りに着くが、短いので問題はない。この後ハシゴとなり、ペースが作れなくなり疲れる。かなりバテてきている。

 刀利天狗を過ぎると、緩やかに右手の山腹を巻くようになれば少し下ると5合目小屋に14時50分到着。途中で聞いた話によるとここの名物小屋番が倒れたとのこと。今日のサイト地をここにするか、7合目にするか迷うが、明日のことを考え7合目まで行くことにする。少し下った後、屏風岩をハシゴで登る、四つ足での登りがこの後も続く。5合目から1時間で7合目着。サイト代(150円×3人)を払い、小屋のかなり上の方でテントを張る。寝不足もあり非常に疲れた。M氏に水を小屋までとりに行ってもらい、H氏と夕食の準備。釜飯、コンソメ、漬け物、酒、つまみ。夕食後すぐに寝た。

◯二日目 7合目サイト地6:10→甲斐駒ヶ岳8:15→北沢峠11:15→仙丈ヶ岳サイト地16:00 天気朝のうち曇りのち時々雨
 4時起床、昨日炊いておいた飯でかに玉雑炊を作る。サイト地からご来光を見るが、一面雲ノ中。

 6時10分出発、きつい登りだがぐんぐん高度を稼いでいく。30分でご来光場到着、そこから一旦下り、再び急な登りが始まる。次第に登りが緩やかになると稜線に達する。摩利支天、駒津峰への分岐にザックを置き、山頂へ。山頂はガスのため何も見えない。


 中央がおじさん 左がH氏、右がM氏 当時の標準的なスタイル ニッカーポッカーを3人ともはいている

 8時45分山頂出発、花崗岩のザラ場をぐんぐん下る。右手に切り落ちた痩せ尾根で遭難碑のある場所で休憩、その時ガスの中から最初で最後の駒ヶ岳の全容が見えた。少し登り平坦な尾根の道となり、双児山10時10分着、1時間ばかりで北沢峠着。お昼は餅入ラーメン。12時45分峠出発、ガイドブックに寄れば藪沢新道を登るのが一番楽なようなので、このコースに決める。峠から少し下り、大平小屋の側を通り、緩やかな登り、20分ほどでこのコース唯一の急な登りとなるが、再び緩やかとなる。沢を右に渡り、ここから馬の背ヒュッテ近くまで沢を左に見ながら登っていく。ヒュッテ14時55分着、30分休憩して、馬の背を経て、仙丈カールの中のサイト地に着く。水場はすぐそばだが、にわか雨が時々やってくる。M氏のポンチョを借りて、仮のフライとする。テントの中で夕食の用意、カレー、キュウリ、シーチキン、漬け物、酒。その後、恋や仕事、山の話を語り合った。

◯三日目 サイト地6:35→仙丈ヶ岳7:20→サイト地7:45→大平小屋9:00→丹渓山荘10:05→戸台12:00 雨が降ったりやんだり
 4時起床、昨日と同じように餅入雑炊を作る。テントを撤収していたら雨が降り出す。6時35分空身でサイト地を出発し、仙丈小屋の前を通り、しばらく急な道を登っていく。7時20分山頂に着いたが、何も見えない。サイト地に戻り、大平小屋までかなりのスピードで下っていく。丹渓山荘から河原の道をH氏がコースレコードを作るとか言って、猛烈に飛ばすが、途中でそれもあきらめたようだ。戸台からのバスは乗客ぎゅーぎゅー詰め状態で伊那まで立ったままだった。

 丹渓山荘前で休憩 今はこの山荘はない

※H氏の思い出
 彼とはこの後2,3回一緒に登った。信州出身で高校時代サッカーをやっていて、体力抜群だった。退職後ほどなくして亡くなったことは残念だった。

 翌年6月初めH氏登った槍ヶ岳 山頂から穂高方面

※※M氏との思い出
 彼とは何回も二人で出かけた。そして、退職後何年かたって、白馬岳を皮切りに夏、秋に登り始めた(今年はコロナで中止)

 翌年11月初旬 大天井岳から見る朝の槍ヶ岳 当時のカメラはペンタックス

※※※夜行列車
 当時、長野方面に登山、スキーで行く場合、夜行列車を利用することが多かった。大糸線にも栂池という急行列車が乗り入れていた。5時間くらいで目的の駅に着くので、特に登山の場合は列車中で少しでも眠ることが一大関心事だった。合い向き合いの直立の座席のためここでぐっすりと眠ることは難しいので、座席の下に新聞をしいて寝たことも何回かあった。そのうちに長野方面への夜行列車はなくなり、こうした登山をすることはできなくなった。

 以上が46年前の記録だが、今から見ると高山植物のことが全く出てこない。季節が9月中旬なので、仕方がない面もあるが、他の夏山の記録を見ても同じである。当時、花などには全く興味がなかったことがうかがわれる。そして、北沢峠を通る南アルプススーパー林道はこの頃環境問題で大いに揺れていた。1976年11月に鳳凰三山と早川尾根に登り、再び戸台まで河原を歩いた。1980年に北沢峠の山梨県側が開通し、その後バスで峠まで来れるようになった。昨年、7月に仙丈ヶ岳と甲斐駒にこのバスを利用し登った(もしバスがないのなら計画しなかったであろう。昨年のブログをご覧いただけると嬉しい)。文才が当時からなかったせいか、あとの3回も同じような調子の文章となっているが、良ければ読んで欲しい。
コメント
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