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映画【ソウ3(SAW III)】

2008-09-04 21:23:43 | 映画


ソウ3(SAW III)
2006
ダーレン・リン・バウズマン(Darren Lynn Bousman)


もう謎解きとかどっかにいっちゃったスラッシャー(スプラッタ)映画と成りはててしまった本シリーズ。
スラッシャーもそんなに嫌いじゃないんですが、本作を観るモチベーションはそこじゃないでしょうに。
ラストでなんとなく辻褄合わせみたいな謎解きがあったりしますが、もう、どうでもいい。

70年代から語り継がれるスラッシャー映画(「ゾンビ」とか「死霊のはらわた」とか)の良き部分が最近のスラッシャーモノではあまりに緻密に描かれることでかえってつまらなくしている原因になっているのでは。
ちょっと違うかもしれませんが、

結局、映像を見てそのままのものを受け入れるために映画を観るのではないのだと思うのです。描かれていない部分(殆どが意図的に)を想像する。
たいたいが痛々しいカットだったりします。そのわけをイチイチ説明するのもバカバカしいのですが、結局倫理に因るところだと思うのです。斧で頭をかち割られようとも、その瞬間はいつもカットが割られ、血が噴き出すだけ。その瞬間は見られない。観られないけれども「痛い!」ように撮られている。それが演出。

現在の技術のおかげでその部分もカットを割らずにCGIで処理できるようになってしまった。胴体が真っ二つになったり頸動脈から血が吹き出たりすることも、もはやコミカル。
むしろCGIで鮮明に描画することで興ざめてしまう。
私は人を殺したことがないので想像上ですが、実際に同じ方法で人を殺したら結構あっさり過ぎて手応え無いのかもしれません。小説なんかだと、そういう心情吐露がよくありますよね。
以前の映画にはそこの痛みを想像する隙間が要所要所にありました。しかし、現在の映画はどうでしょう。見た目の派手さばかりを追いかけて飛び散る訳のない血を描き、ありえない悲鳴を乱発。
人の生き死にはそういうことじゃ無い気がするんですが、どうでしょう。
必然性を突き詰めて行き過ぎちゃったのがスラッシャーでは。

とは言っても、最近の凶悪犯罪もしくは猟奇事件の責任が映画にあるとは全く思いません。責任を押しつけるに簡単なものとして槍玉に挙げられているだけ。
そんなこと言ったら、フランシス・ベイコンの絵を観てなにか感じる人は全てキチガイです。


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