神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

高草山権現

2011-03-15 23:34:29 | 神社
高草山権現(たかくさやまごんげん)。祭神:不明。
場所:静岡県藤枝市岡部町岡部と焼津市策牛(むちうし)の境にある高草山(標高501m)山頂。高草山はハイキングコースとして人気があり、静岡市側・藤枝市側・焼津市側から夫々いくつかの登山口がある。登りやすいルートとしては、焼津市坂本にある曹洞宗寺院「高草山 林叟院」から登るのがよいらしい。
式内社「神神社」(藤枝市)が神体山とし、式内社「飽波神社」の元宮があったという説もある、高草山の山頂に今も小さな祠がある。「高草山権現」と呼ばれているが、祭神は江戸時代から既に不明となっていた。以下は、「焼津市史 民俗編」(平成19年7月)を要約して記す。
「高草山権現」は、山のオモテ(南側)にある焼津市坂本地区によって祀られている。祭日は5月の八十八夜で、高草山には茶畑も多いが、茶の栽培開始はさほど古いことではないらしく、茶に関係ある神ではないようだ。高草山という名は、薪(たきぎ)としての芝の採れる山というところからきている。また、高草山の各地で雨乞い祈願が行われていたほか、「高草山権現」は伊豆の天城山から飛来したという伝承もあり、「天城」=「雨城」として、雨をもたらす神と認識されていたという説もある。こうしたことから、水神として山麓の農民の信仰を集めていたようである。


写真1:「高草山権現」


写真2:山上から静岡市側。日本坂峠の向こうに安倍川河口の風車(風力発電用)や有度丘陵が見える。


写真3:焼津市側。焼津港と志太平野。

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山の神(藤枝市岡部町三輪)

2011-03-11 22:10:31 | 磐座
山の神(やまのかみ)。
場所:藤枝市岡部町三輪。県道213号線(焼津岡部線、通称:高草街道)から、三輪川を渡る交差点のところ(三輪公民館がある。)を、三輪川を遡るように高草山に向かって東に進む。高草山の中腹、農道脇に注連縄と案内板がある(写真1)。駐車場なし。
高草山には、藤枝市岡部町三輪だけでなく、焼津市関方、方ノ上、策牛などにも「山の神」は祀られているようだが、三輪の「山の神」は、明らかに式内社「神神社」(藤枝市岡部町三輪)の磐座といえるもの。ここは「神神社」の飛地社有地であり、どうやら「神神社」の三輪鳥居が向いている方向にあるらしい。
毎年2月8日に「山の神祭り」が行われるが、まず紅白の御幣を立て、供え物を捧げ、神主が豊作を祈る祝詞をあげる。その後、竹に藤の弦を張った大弓に矢をつがえ、その年の山の安全や豊作を祈って射る。山の神は、この時に放たれた矢に乗って里に降り、田の神となるという。
小生が以前住んでいた吉備国では磐座だらけだったが、駿河国に来たら、「いかにも」というような磐座には出会っていない(遠江国には「天白磐座遺跡」(浜松市)や「粟ヶ岳山上の磐座」(掛川市)などがあるのに。)。三輪の「山の神」も、岩には形などに格別特徴はないように思えるし、巨岩を祀っているというよりは、ガレ場を三輪川の水源地として祀っているようにも思われる。関方の「山の神」には「ジャタイ」(藁で作った大蛇=竜神)を供えるというので、これも「山の神」は水神であることの証左となる。「神神社」の祭神である大物主命は蛇神=雷神であり、水神であるが、「神神社」を勧請したから「山の神」(磐座)を祀るようになったのか、水神を求めて「神神社」を勧請することになったのか、そこは興味のあるところである。


MURYさんの「岩石祭祀学提唱地」HPから(高草山)


写真1:「山の神」(藤枝市岡部町三輪)の入口。農道沿いに注連縄と説明板がある。


写真2:注連縄の下辺りが祭祀場所、奥に大きな岩が露出しているのが磐座と思われる。


写真3:せり出した岩。高草山の岩は、大崩海岸の岩と同じ玄武岩で、崩れやすい。
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神神社(駿河国式内社・その21)

2011-03-08 22:05:38 | 神社
神神社(みわじんじゃ)。祭神:大物主神。
場所:藤枝市岡部町三輪1290。国道1号線と県道213号線(焼津岡部線、通称:高草街道)の交点(直接には降りられないので、少し南の「内谷新田」交差点などから戻る。)から、南東へ約1km。「神神社入口」バス停のところ(こんもりとした、当神社の小さな森が見える。)から右折(南西へ)、すぐに鳥居前に出る。駐車場あり。
社伝によれば、当神社の創建は皇極天皇3年(644年)で、東国に疫病が流行ったため、意富太多根児命(オオタタネコ)の26代の孫である三輪四位に大和国「大神神社」の分霊を勧請したという。
社殿・境内とも、大きくはないが、掃除が行き届いて、いかにも由緒と威厳のある佇まいである。すぐに目に付くのは、本殿の向かって右手にある三輪鳥居である(写真3)。社殿とは少し方向がずれているが、これは、背後の「高草山」を神体山として祀るためだという。そして、三輪鳥居の奥に「磐境」が設けられているというが、拝殿の後ろは禁足地となっており、見ることができない。
谷川健一編「日本の神々(第10巻)」(1987年1月)によれば、「四坪ほどの平地があり、そこに・・・磐境がある。縦二尺・横三尺・高さ一尺ほどの大きさで切り石積みである。石積みのなかは砂利で、そこに長さ四尺ほどの女竹二本ずつでできた御幣五本が立ててある。」とあって、写真が添えられているが、「石積み」は何だか公園のプランター花壇のようである。ここに神が降りてくるというよりは、里の遥拝所のようでもある。花壇のようだ、と書いたが、これは「垣根」のようにもみえるので、あるいは「磐境」というより「神籬」といったほうがよいのではないだろうか。
また、社殿の向かって左側には「かみなり井戸」がある(写真4)。昔、当神社の森に雷が落ちた。神様は怒って、雷をこの井戸に閉じ込め、蓋をしてしまった。雷が「もう二度とこの森には落ちない」と誓ったので、神様は許してやった。それ以来、この森には雷が落ちないという。元々、大物主神は蛇の化身で、大蛇=竜神=雷神=水神という連想があるので、こんな伝説も生まれたのだろう。
さて、当神社の鎮座地は、現在では藤枝市になっているが、合併前は岡部町だった。一説には、廬原国造の祖である意加部彦(オカベヒコ。日本武尊東征の副将であった吉備建彦の子)の名によるもので、廬原国造の勢力がここまで及んでいたものという。駿河国の式内社は神社名と祭神がしっくり来ない例が多いが、当神社は神社名・祭神・鎮座地の地名から、どうみても大和国大神氏の一族がここに居た、ということだろう。さて、吉備氏と大神氏の関係は?


玄松子さんのHPから(神神社(藤枝市))


写真1:「神神社」正面。社号標は「延喜式内 神神社」


写真2:社殿


写真3:本殿の向かって右側に三輪鳥居がある。禁足地のため、奥はよく見えない。


写真4:本殿の向かって左手前にある「かみなり井戸」

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玉取明神(静岡県藤枝市岡部町玉取)

2011-03-04 23:16:43 | 神社
玉取明神(たまとりみょうじん)。藤枝市岡部町玉取の「神明神社(しんめいじんじゃ)」の通称。祭神:天照大神。
場所:静岡県藤枝市岡部町玉取1520。県道209号線(静岡朝比奈藤枝線)を朝比奈川に沿って北上し、「小園橋」を渡ったところで県道210号線(相俣岡部線)に左折(西へ)、そこから約2km。県道沿いに「朝比奈活性化施設たまゆら」があり、その駐車場の端に「丸石」が祀られている(写真1)。その施設の北側の小高いところに「神明神社」の真新しい社殿が見える(写真3)。
伝説によれば、日本武尊が焼津で宝玉の水石と火石を御神体として市杵島姫命を祀った(これが現在の式内社「焼津神社」である。)。その後、数百年経って焼津に津波があり、水石と火石が朝比奈川を遡って流され、村人に拾われた。このことによって村の名を「玉取村」(旧・志太郡玉取村、現・藤枝市岡部町玉取)と名づけ、「玉伝寺」という寺を建てた(この寺は現存しない。)。後に小祠を建てて鎮守とし、宝玉を納めた。これが現在の「神明神社」であるという(「駿国雑志」などによる。)。水石は水晶、火石は橙を干し固めたようなもの(材質不明)であるというが、後に「焼津神社」に戻されたとされ、少なくとも現在は「神明神社」には現存しないようである。
それにしても、「焼津神社」から「神明神社」までは直線距離で約15kmもあって、いくら何でも、そんなに流されてくることはないだろう。「たまゆら」に祀られている丸石については、実は山梨県には「丸石神」という民間信仰があり、一説には「道祖神」として祀られているともいう。自然にできた丸石は不思議なものだし、丸という形は円満な相をしているから、祀られる意義はあるだろう。あるいは、玉取村を経由して甲斐国と駿河国との結びつきを示すものかもしれない。


藤枝市のHPから(朝比奈活性化施設たまゆら)

三好祐司さんのブログ「風と土の記録」から(路傍の丸石)


写真1:「たまゆら」駐車場の端に祀られた「丸石」


写真2:隣接の広場の隅には、こんな模様の石も。


写真3:「神明神社」社殿


写真4:社殿内部。古い小祠が置かれている。
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御沓脱跡

2011-03-01 22:15:58 | 史跡・文化財
御沓脱跡(おくつぬぎあと)。
場所:静岡県焼津市焼津6-8-21付近。式内社「焼津神社」の北東約400m。時宗「高草山 普門寺」冠木門の少し先(東)にある。この付近は住宅密集地で、道も狭く、一方通行が多いので注意。駐車場なし。
ここが、日本武尊が沓(履、くつ)を脱ぎ、休息した場所であるという。英雄・偉人が履物を脱いだ場所というのは各地にあるが、多くは腰を掛けた岩(石)や履物を掛けた木(「履掛松」など)、という遺物があるのが普通だ。ここは、日本武尊が休息した折、老婆から小麦飯の饗応を受けた場所とされ、その老婆の子孫である下村家の住居跡であるという(下村家は移転したが、今も焼津市にお住まいだそうである。2千年前からの旧家?)。昭和26年、日本武尊の石像が焼津市制施行を記念して建てられた(写真2)。
焼津神社の大祭は「焼津荒祭り」といわれるが、8月13日に神輿渡御が行われる。南御旅所→北御旅所→魚市場御旅所→御沓脱跡→焼津御旅所と、海岸沿いから次第に「焼津神社」に近づいていく。このことが、神を海から迎える神事とされる所以かもしれない。ただし、元々は全国各地にある「祇園祭」(京都が最も有名。)と同様に、夏の疫病除け祈願が発祥だったらしいことが指摘されている。


写真1:「御沓脱跡」正面。石碑には「日本武尊御沓脱之旧跡」とある。


写真2:「御沓脱跡」にある、少年のような「日本武尊」像。焼津神社の祭礼のときのみ、左手に剣を持たせる。


写真3:南御旅所


写真4:北御旅所。ここでは、他の御旅所とは異なる神事が行われる。


写真5:焼津御旅所

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