神が宿るところ

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軍神社

2011-06-14 22:39:15 | 神社
軍神社(ぐんじんじゃ)。
場所:静岡市駿河区曲金2-7-15。西豊田小学校の西側。駐車場なし。
社伝によれば、延暦20年(801年)、桓武天皇の命を受け坂上田村麻呂が蝦夷を平定したことを記念して創建されたという。一説には、日本武尊が東国平定を祈願して創建されたともいう。祭神は武甕槌命(タケミカヅチ)。かつては、隣接する曹洞宗の寺院「仏国山 法蔵寺」と一体で、祭神は摩利支天とされており、今川氏以来、武家の信仰を受けた。なお、祭神については、武甕槌命と経津主命(フツヌシ)の2神とするともいわれるが、一方でこの2神は同一とする説がある(これは当神社に限ったことではなく、フツヌシはタケミカヅチの別名であるとする説があることによる。)。タケミカヅチは「鹿島神宮」(常陸国一宮)、フツヌシは「香取神宮」(下総国一宮)の祭神で、どちらも武神とされて、武家の信仰を集めた。
ところで、当神社は、かつては「軍人坊」と称されていた。「坊」という言葉には、僧侶の住む場所(僧坊)という意味もあるが、奈良・平安時代には4町(約436m)四方に区切られた方形の行政区画を意味した。元は、ここに有度軍団が置かれ、軍人が集まる場所ということで「軍人坊」と称したのではないかとされている。当神社の北側を古代東海道が通過しており、「横田駅」想定地は当神社の南西、約1kmのところにある。また、この付近では、古代東海道は近世東海道とほぼ重なっており、近世東海道は当神社の少し西側からカーヴして横田見附~府中宿に向かった。こうしたことから、駿河国府の東側入口の警備を固めていた場所ではないかと考えられる。なお、「グン」の音から、ここを「有度郡家」所在地とする説もある。因みに、当神社の東南に「蔵屋敷」という小字があり(現・曲金四丁目付近。現在も「蔵屋敷公民館」などにその名が残っている。)、昭和初期頃まで「この地に古代正倉が40数戸建てられていた。」という案内板が立っていた、という。
さて、当神社には次のような昔話が伝えられている。即ち、村の悪童らが軍神社の神像を持ち出し、首に縄をかけて道に引き回して遊んでいたのを、村の老人が見咎め、神像を洗い清めて社に戻した。ところが、その夜、その老人が病気になって神懸り、「子供らと楽しく遊んでいたのに、なぜ邪魔をしたのか。」とうわ言をいうようになった。驚いた家族が神に謝罪すると、老人は回復したという。実は、似たような話は他所にもあるが、子供に悪戯されるのは地蔵菩薩であることが多い(地蔵菩薩は子供の守り神と考えられたため。)。そして、当神社のこの昔話では、「神像」と言っているので、神仏混淆後に作られた話ということになる(神像が作られるようになるのは、仏教の影響であり、本地垂迹説の影響で僧形の神像等も多数作られた。)。昔話と言っても案外新しく、せいぜい江戸時代頃に僧侶が作った話ではないか、とも思われる。


写真1:「軍神社」正面鳥居。それにしても、境内には立派なクスノキがたくさんある。


写真2:社殿


写真3:境内にある砲弾型の慰霊塔

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