神が宿るところ

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度志観音

2020-02-08 23:07:06 | 史跡・文化財
度志観音(どじかんのん)。茨城県指定史跡「佛ヶ浜」。
場所:茨城県日立市田尻町4-39。国道6号線(小木津バイパス)「田尻町南」交差点から北西へ約300m。コンビニ「ミニストップ 東滑川町4丁目店」の向かい側(北側)。田尻小学校の南側の崖下。駐車場なし。
「度志観音」は凝灰岩の石壁に彫られた観音像(磨崖仏)で、かつては常陸(水戸)三十三観音霊場の第15番札所・真言宗「清滝山 源勝院 観泉寺」の本尊であった。弘仁年中(810~824年)に空海(弘法大師)が建立したとの伝承もあるほか、「坐禅石」(2019年10月19日記事)で知られる曹洞宗「天童山 大雄院」(茨城県日立市宮田町)の開祖・南極寿星禅師が文明2年(1470)年に100日間の参籠修行をした場所としても有名である。その後「観泉寺」は廃寺となったが、大正時代には「大雄院」が境外仏堂として観音堂を再興し、昭和16年頃まで僧侶が住んでいたというが、今は仏堂はない。磨崖仏は明治の頃には既にかなり崩れており、現在では殆どわからない状態となっている。
ところで、ここは昭和30年に「佛ヶ浜」という名で茨城県指定史跡となっている。というのは、「常陸国風土記」多珂郡の条に、「国守が川原宿禰黒麿であった時に、大海(太平洋)の海辺の岩壁に観世音菩薩の像を彫って造った。(この像は)今も残っている。それで、(この海辺を)仏浜と名付けた。」(現代語訳)という記述があり、「度志観音」がその岩壁の仏像に比定されたことによるらしい。ただし、これについては、現在では否定する説が一般的となっている。理由としては、①当地は(太平洋)海岸から約1kmも離れていて、前面の道路でも標高約10mあるうえ、この付近まで海辺だった痕跡がないこと、②「常陸国風土記」多珂郡の記事は南から北に向かって書かれているとみられ、「飽田村」~「仏浜」~「藻島駅家」の順となっているところ、「飽田村」は現・日立市相田町(遺称地)、「藻島駅家」は現・日立市十王町伊師の「長者山遺跡」とされているため、当地が「仏浜」とすると順序が合わない、などということがあげられている。因みに、茨城県教育委員会のHPでは、田尻小学校南側の崖縁の岩壁に「度志観音」像があるが、この史跡を「佛ヶ浜」というとしている一方、「佛ヶ浜」(という地域は)大田尻(海岸)辺りとし、田尻町も含めて「飽田村」に当たるとしている。何だか、分かりにくい説明のような気がするが、どうだろうか。(蛇足だが、茨城県教育委員会のHPの記載に従って「度志」を「どじ」と訓んだが、現地説明板では「どし」としている(近隣にある公園の名も「どし児童公園」などとなっている。)。
では、現在の通説の「仏浜」(「常陸国風土記」ではいずれも旧字で「佛濱」)は、どの辺りだったのだろうか。その候補地については、次項で。


茨城県教育委員会のHPから(佛ヶ浜)


写真1:「度志観音」(「佛ヶ浜史跡」)入口。


写真2:説明板、「史跡 佛ヶ浜」石碑


写真3:「度志観音」。この写真ではわかりにくいが、崖の石壁に格子状の扉がついている。


写真4:同上


写真5:扉の中。観音像自体は崩落してしまっているらしい。


写真6:周りにも、石壁を刳りぬいた中に多くの仏像や石碑が並んでいる。

コメント (2)
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