神が宿るところ

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小木津浜の岩地蔵

2020-02-15 23:13:36 | 名石・奇岩・怪岩
小木津浜の岩地蔵(おぎつはまのいわじぞう)。
場所:茨城県日立市小木津町。国道6号線(小木津バイパス)「小木津駅入口」交差点から東に(通称「ゆりの木通り」)約300mで、突き当り左折(北へ)、約550m進むと再び突き当り、右折(北東へ)、通称「(陸前)浜街道」(旧・国道6号線)を約350m進んで、東連津川に架かる「東連津橋」を越えたところ、直ぐ。「浜街道」が右(東)方向にカーヴするところの手前で、小さな墓地があるが、その西隣。駐車場なし。
「小木津浜の岩地蔵」は、東連津川の河口に近い凝灰岩の岩壁に彫られた磨崖仏で、元は12体の観世音菩薩像が彫られていたとされるものだが、現在は4体ほどが確認できるものの、かなり風化が進んでいて、表情や装束などがわからなくなっている。「岩地蔵」と呼ばれているが、これが「常陸国風土記」多珂郡条に記事がある「仏浜」の観音像ではないか、ともいわれている。それは、「国守が川原宿禰黒麿であった時に、大海(太平洋)の海辺の岩壁に観世音菩薩の像を彫って造った。(この像は)今も残っている。それで、(この海辺を)仏浜と名付けた。」(現代語訳)という記述であり、「度志観音」がその岩壁の観音像に比定されて茨城県指定史跡「佛ヶ浜」として指定されているが、現在では否定説が殆ど通説化していることは前項で書いた。
「度志観音」に代わって注目されたのが「小木津浜の岩地蔵」(史跡等として何の指定もなく、この名称も通称らしい。)である。ちょうど東連津川の河口にあって、すぐ目の前が太平洋という位置にあることから、「大海の辺」という記述に合致する。もし、この磨崖仏が「仏浜」の観音像であるとすると、彫られたのは第41代・持統天皇(在位:690~697年)の時代とされる。というのは、常陸国守の任命記事が文武朝(697~707年)以降に「続日本紀」などに現れてくるが、そこに川原宿禰黒麿の名はみえないので、任命されたのは文武朝以前となる。宿禰という姓(かばね)は天武天皇13年(684年)に定められ、この年に50氏に宿禰の姓が与えられたが、その中に川原氏は入っていない。よって、それ以後の685~696年の間に、川原宿禰黒麿は常陸国守に任命されたのだろうということになる(「新修日立市史」による。)(因みに、「国守」は、原文では「国宰(くにのみこともち)」で、国司の長官を指す。)。
ところで、現存する「常陸国風土記」の中で仏教に関する記事は、この「仏浜」だけであるとされる。では何故、「仏浜」に観音像が彫られたのか。それは、この場所の位置と時期に関連があるという。「常陸国風土記」の「仏浜」の記事の前のところに、「(第13代・成務天皇の時代に)建御狭日命(タケミサヒ)が多珂国造として派遣されたとき、久慈との境となっている助河(現・宮田川?)をもって「道前(みちのくち)」とし、陸奥国石城郡苦麻村(現・福島県双葉郡大熊村大字熊)をもって「道後(みちのしり)」としたという記述がある。そもそも、「常陸」というのは元は「常道」と書いて、その奥が「道奥、陸奥(みちのおく、みちのく)」と呼ばれた。そして、そこは蝦夷の領域と接して、特に7世紀後半頃には大和政権と激しい抗争が行われた地域の入口に当たる。そこで、「観音経」(妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五)に説かれた「戦争に行っても、観世音菩薩を念じれば、無事に帰ってくることができる。」という功徳を求め、観音像を彫ったのだろうとされている。


写真1:「小木津浜の岩地蔵」


写真2:同上、岩壁を刳りぬいたところに4体ほどの仏像らしきものがみえる。


写真3:下に「最上神社」という石祠があり、まだ新しい社号標が立てられているが、詳細不明。


写真4:東連津川の河口。左側は「(陸前)浜街道」。
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