神が宿るところ

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新治神社(茨城県かすみがうら市)(常陸国式内社・その13の6)

2019-01-12 23:54:59 | 神社
新治神社(にいはりじんじゃ)。
場所:茨城県かすみがうら市新治584。「胎安神社」(前項)入口前から南西へ約700mのところの交差点を左折(南東へ)、約500mで右折(「JA土浦農産物集荷所」倉庫の先)、道なりに約250m。駐車場なし。
創建時期は不明。境内の石碑の由緒によれば、「常陸国風土記」記載の「日本武尊が巡狩の折、国造毘奈良珠命に新たに井を掘らせたところ流泉浄澄、尊大いに喜ばれ、手を洗い給い御衣の袖を潰されたところ」(原文ママ。「潰」は「漬」であろう。)という。元亀年間(1570~1573年)、三村城主・三村七郎平常春が当神社を崇敬し、上田1石を寄進して永代祭祀の料としたとされる。なお、当神社の北、約300m(直線距離)のところに「新治の井」とされるものがあり、当神社の「御手洗」として例祭のとき氏子の禊場としていたという。現在の祭神は毘奈良珠命(ヒナラス)で、豊城入彦命(トヨキイリヒコ)を配祀する。
さて、上記の「常陸国風土記」の記述は総記の中にあるものだが、同様の内容は新治郡についての記述中にもある。これが問題で、古代の「新治郡」は現在の茨城県西部で、下野国(現・栃木県)と下総国(現・千葉県北部)と接していた。つまり、現在の茨城県筑西市、桜川市、笠間市辺りである(「常陸国風土記」の「新治の井」は現・筑西市門井にあったとするのが通説らしい。)。したがって、当地の「新治の井」とは全く無関係ということになる。何故こんなことになったかというと、律令制の崩壊により、郡の細分化が進み郡境が錯綜してしまった後、天下統一した豊臣秀吉が検地(「太閤検地」)を行って、郡を再編した。その際に、古代の郡名を復活をさせたのだが、古代の郡とは全く別の場所に古代の郡名を付けてしまったということになる。特に複雑なのが、「新治」という地名で、「新たに(田を)治(ひら)く」、開墾する、という意味を持つため、多くの場所に名付けられた。常陸国についていえば、上記の通り、古代の「新治郡」は現・茨城県西部だったが、太閤検地以降近世~近代までの「新治郡」は古代の「茨城郡」・「筑波郡」・「信太郡」の一部を合わせたもので、現在の石岡市、かすみがうら市、土浦市(大部分)、つくば市(一部)、小美玉市(一部)に当たる。さらに複雑なのは、近代以降でも「新治村」が2つあったことである。明治22年に東野寺村などが合併してできた「新治村」(後に「千代田村」を経て現・かすみがうら市)、昭和30年に藤沢村などが合併してできた「新治村」(後に現・土浦市に編入)がある。当神社は前者の「新治村」で、大字としても「新治」があった。これは、当神社の北側を流れる「天の川」がかつては「荒張河(あらはりがわ)」と称した、ということの遺称地であるという。ということで、式内社「夷針神社」の「夷針」を「アラハリ」と読み、同義の「新治」という地名の場所にある古社として、「子安神社」(前々項)、「胎安神社」(前項)、当神社が式内社「夷針神社」の後身ではないか、ということになったのだと思う。説としてわからなくはないのだが、じゃあ、3つのうちのどれなの、という感じで、説得力はイマイチな気はする。


写真1:「新治神社」境内入口。近世には「二荒神社」と称していたという。


写真2:社殿。


写真3:本殿は覆屋に囲われている。


写真4:「新治の井」。この先(北側)に「恋瀬川」が流れている。(場所:当神社へ向かう途中に「農業集落排水事業新治地区処理場」という施設があるが、その北側の田圃の中。大きな木の下にある。)


写真5:同上。石碑がある。今、泉は見えないが、湧き水はあって、暗渠化されているらしい。
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