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神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

国神神社(茨城県行方市)(常陸国式外社・その13の1)

2022-11-12 23:34:33 | 神社
国神神社(くにがみじんじゃ)。
場所:茨城県行方市行方1820。国道355号線「行方」交差点から南東へ1つ先(約150m)の交差点を左折(北東へ)、約1.1kmのところ(横断歩道の標識がある交差点)で左折(北~北東へ)、約220m。駐車スペース有り。
社伝によれば、白雉4年(653年)、行方郡家の設置と同時に郡社として創建されたという。白雉4年という年号は、「常陸国風土記」行方郡の条に記された、行方郡の創設の年(第36代・孝謙天皇の御世、癸丑の年)から採られたと思われる。そして、「(行方)郡家の東に国社(くにつかみのやしろ)がある。これを県祇(あがたのかみ)という。」(現代語訳)という記述もあって、これが当神社を指すとされる。また、「日本三代実録」貞観16年(874年)条に「正六位上の常陸国の国都神に従五位下を授ける。」(現代語訳・一部省略)という記事があり、この「国都神」が当神社であるとする。つまり、二重の意味で、式外社ということになる。しかし、郡家が衰退し、長い間に周囲の人家も稀になったため、当神社も寂れた。「茨城縣神社誌」によれば、近くにある「八王子神社」の氏子の一部により維持されているとなっているが、平成19年、神田地区氏子一同により本殿・玉垣・鳥居が再建されている。現在の祭神は大己貴命(別名:大国主命)で、天津神・国津神(天神地祇)という区分の中では、大己貴命は国津神(地祇)ということになる。ただし、「常陸国風土記」の「国社」・「県祇」については、当地の土着の神、または国造など地方豪族が信仰した神という意味合いが強いように思われる。
ところで、行方郡家の所在地については、まだ確定されていない。諸説あるが、大別して①行方市(旧・麻生町)行方、②行方市(旧・玉造町)井上の2説が有力。このうち、①行方説は、「行方」という大字名が郡名と同じであることと、当神社を「常陸国風土記」の「国社」とみて、その西に郡家があるとすることの2点が大きな根拠となっている。これについては、当神社の西側には郡家を置けるような広い敷地がないこと、奈良・平安時代の遺跡・出土物が少ないことが難点で、また、古代では「行方」の範囲は現在よりも広かったのではないか、当神社は「国社」ではないのではないかという反論もあって、現在では②井上説の方が優勢のように思われる。しかし、その場合、「国社」はどうなるのだろうか。当神社と「国社」は別の神社とする説(この場合、他に該当しそうな国津神を祀る神社がないので、「国社」は廃絶したということになろう。)、当地には他から移転して来たとする説もあるが、「北浦町史」(2004年)では行方郡家について次のような説を立てている。即ち、「常陸国風土記」が編纂された時代(和銅6年(713年))には、現・行方市行方の内宿地区(当神社の西にあり、古代の平瓦片など出土している。)に旧・行方郡家があった。しかし、地形的な制約から郡庁・正倉・館・御厨などを備えた本格的なものではなかったため、古代官道に沿った、広い台地上の現・行方市井上の通称「井上長者館跡」に移転して本格的な郡家が建設された、というものである。この場合、当神社が「国社」だとすると、郡家の移転の時に取り残されたということになるのだろうか。理屈としては無理はないが、考古学的な見地から、もう少し証拠が欲しいところだろうと思われる。
蛇足:現・行方市行方を「行方郡家」の所在地に比定する説の論拠を補足しておく。当神社の南西、約200mのところに「古屋(こや)」という地名がある。ここは、「常陸国風土記」に茨城国造で行方郡の建郡者とされる壬生連麿の子孫が代々住んだところで、北にまっすぐ伸びた古道があり、これが郡家の南門に通じていたという伝承がある。また、行方から霞ヶ浦に流れる「根堀川」は、元は「子ほり川」と書いた。これは本来、「郡川」だったのではないか。おって、当神社の西側に「蔵屋敷」という地名がある。軍記物語「将門記」では、平将門の側近の1人・藤原玄明が常陸国司に逮捕されそうになったとき、将門の下に逃げ込む途中で河内・行方両郡の不動倉を襲撃・略奪したという記述がある。伝承では、この行方郡の不動倉のあったところが「蔵屋敷」であるという。伝承も軽視はできないが、今後、古代の官衙建物跡などが発見されることがあるだろうか。


写真1:「国神神社」鳥居と社号標


写真2:社殿正面


写真3:社殿(本殿のみ)


写真4:本殿造営記念碑
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鹿島神宮 北の一之鳥居

2022-11-05 23:30:56 | 神社
鹿島神宮 北の一之鳥居(かしまじんぐう きたのいちのとりい)。
場所:茨城県鹿嶋市浜津賀734(「戸隠神社」の住所)。茨城県道186号線(荒井行方線)と同242号線(鉾田鹿嶋線)の「荒井」交差点から東に約120mで左折(北へ)、約130m。駐車スペース有り。
常陸国一宮「鹿島神宮」の東西南北の「一之鳥居」については、現・鹿嶋市明石の「東の一之鳥居」について書いた(2022年10月22日記事)。「北の一之鳥居」は、現・鹿嶋市浜津賀の狭い市道を跨いで建てられているが、この道路は、江戸時代には現・茨城県水戸市方面から「鹿島神宮」を経由して、「息栖神社」・下総国一宮「香取神宮」(2012年3月3日記事)・「飯沼観音」(「飯沼山 圓福寺」(2014年5月31日記事))に参拝するための道として「飯沼街道」と呼ばれ、参拝者の通行は4方向の参道のうち最も多く、鳥居も最大であったという。しかし、周囲に人家が少なくなって補修の寄進が集まらなくなり、明治10年に廃されたままになっていたが、2017年に硬質塩化ビニール製(腐らず、軽くて地震に強い素材)で再建された。
この鳥居の横にある「戸隠神社」は、社伝によれば、長禄元年(1457年)に信濃国(現・長野県)「戸隠神社」の分霊を勧請して創建され、浜津賀郷の鎮守となったという。祭神は手力雄男命で、「鹿島神宮」の北の入口を守るということだろう。この神社の杜は「神戸森(ごうどもり)」といって、古くはクロマツの巨樹が多く、海上からの目印にもなっていたらしい。なお、現地説明板では、「神戸」は神宮への玄関口という意味としているが、古代では神社に奉仕するための民を「神戸(かんべ)」といい、「常陸国風土記」香島郡条によれば、その当時、「「鹿島神宮」の神戸は65戸。元は8戸だったのが、第36代・孝徳天皇のときに50戸増やされ、第40代・天武天皇のときに更に9戸増やされ、合計67戸になった。持統天皇4年(690年)に、公民に2戸編入したため、65戸になった。」(現代語訳)という記述がある。あるいは、こうした神戸が多く住んでいた地区なのかもしれない。


鹿嶋市のHPから(鹿嶋の意外を巡ろう!)


写真1:「鹿島神宮」の「北の一之鳥居」。高さ6m、幅最大7.8m。


写真2:「戸隠神社」鳥居


写真3:同上、社殿。鳥居は西向き、社殿は南向き。


写真4:同上、「戸隠神社」石碑。由緒碑と思われるが、本文は読み難くなっている。


写真5:同上、社殿背後の石祠
コメント (4)
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船玉神社(茨城県筑西市)

2022-11-03 15:00:00 | 神社
船玉神社(ふなだまじんじゃ)。
場所:城県筑西市船玉248。茨城県道15号線(結城下妻線)「関本中」交差点から北へ約1.6km、押ボタン式信号のあるところ(「あらやま歯科医院」がある。)を左折(北西へ)、約750mで境内入口。駐車場有り。
当ブログで「船玉古墳」(2021年2月6日記事)を採り上げたときに、古墳上にあった「船玉神社」が2011年の東日本大震災によって倒壊してしまったが、古墳が県有地であったが故に再建できないのは残念だと書いた。その船玉神社が2022年4月に再建されたと聞き、ようやく最近、参拝することができた。これがまた、神社のイメージを覆す、実にモダンで素晴らしい社殿となっていた。
創建は不明。「関城町史」(1987年)では、船玉地区の鎮守は「八幡神社」となっていて、「船玉神社」の名は出てこない。とはいえ、地名(大字)が「船玉」というのだから、古くから鬼怒川の水上交通の守り神としての「船玉(船魂)大明神」があったことは間違いないだろうと思われる。それが、いつか「八幡神社」(山城国八幡宮(現・京都府「岩清水八幡宮」)から勧請)と「船玉神社」が合祀され、祭神は誉田別命と住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)となっている。
当神社社殿の再建については、地元自治会員が10年かけて再建費用を積み立てられたということで、途中、2015年には関東・東北豪雨により船玉地区も床上・床下浸水の被害を受けたこともあり、避難場所やコミュニティとしての機能も備えた場所として構想されたものらしい。既に、地方の社寺の境内に地区の公民館・集会所などが建てられているケースが多々あるが(当所にも「船玉田園都市センター」がある。)、社寺そのものの維持・再建について当神社のようなあり方が他でも参考になり得るものと思われる。それも、地元住民の方々の熱意なくしてはできないことで、大変感心させられた。


写真1:「船玉神社」鳥居。以前には参道に杉の並木などがあったが、取り払われ、広く明るくなった。


写真2:社殿。「船玉古墳」の南側に建てられた。


写真3:普通、神額があるところにガマ? の絵。


写真4:社殿内部


写真5:社殿全景


写真6:トイレ。三猿の絵と石像。


写真7:手水舎。手洗石には宝永6年(1709年)銘があるとのこと。


写真8:境内社の「七鬼神社」


写真9:同上、社殿。公式にも祭神は不詳だそうだが、艮(北東)側に建てられているので、鬼門封じと思われる。


写真10:社殿背後の「船玉古墳」
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鹿島神宮 東の一之鳥居

2022-10-22 23:33:23 | 神社
鹿島神宮 東の一之鳥居(かしまじんぐう ひがしのいちのとりい)。通称:明石浜鳥居。
場所:茨城県鹿嶋市明石676。国道51号線と茨城県道255号線(鹿島港線)の「スタジアム北」交差点から県道を東~南東に約850m進んで左折(東へ)、約140mで左の道路に入って、約300m。駐車場なし。海岸の堤防の傍に建てられているが、サーファーが大勢来ていて駐車スペースが占領されていることが多い。
常陸国一宮「鹿島神宮」の「一之鳥居」は東西南北にあるが、現・鹿嶋市大船津の「西の一之鳥居」(「鹿島神宮」2017年10月7日記事の写真1)以外はあまり知られていない。東は現・鹿嶋市明石の海岸、北は現・鹿嶋市浜津賀の神戸森、南は現・茨城県神栖市の「息栖神社」(2017年12月2日記事)の大鳥居が兼ねているとされる(元は「息栖神社」の旧地である現・神栖市日川にあったという。)。
「鹿島神宮」の「東の一之鳥居」は、社殿の北東約3.7kmの明石浜にあり、祭神の武甕槌大神が出雲国で大国主命と国譲りの話し合いをした後、上陸した場所とされている(なお、武甕槌神に限らず、神が海からやってくるという伝承は多い。)。「鹿島神宮」は現在、西側から境内に入るようになっているが、御手洗池が境内北東側にあることからして、本来の入口は北東側だった可能性がある。また、東は朝日が昇る方向であり、ここも初日の出を見に来る人が多いという。このようなことから、4つの「一之鳥居」のなかでも、特にパワー・スポットとされることが多いようである。
蛇足:「東の一之鳥居」の西、約740m(直線距離)の高台に「鹿嶋灯台」があって、現在も海上交通の安全を見守っている。鳥居前から西(海の反対側)を向くと、木々の上に灯台の先端部分が見える。


鹿嶋市のHPから(鹿嶋の意外を巡ろう!)


写真1:「鹿島神宮」東の一之鳥居


写真2:「敬神」石碑


写真3:道しるべ。中央に「鹿嶋大神宮」、右に「北 いそはま(現・茨城県大洗町)」、左に「南 てうし(現・千葉県銚子市)」と刻されている。


写真4:堤防上から見る鹿島灘。写真ではわからないが、この日も大量のサーファー。自動車のナンバーを見ると、湘南や横浜ナンバーが多い。
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蠶靈神社(茨城県神栖市)

2022-08-27 23:35:06 | 神社
蠶靈神社(さんれいじんじゃ)。常用漢字により、蚕霊神社と書かれることが多い。
場所:茨城県神栖市日川720。茨城県道260号線(谷原息栖東庄線)「日川一番」交差点から北西へ約1.8km、設備工事会社「有限会社新河工業 茨木営業所」の角で右折(北へ)、約220m進んで美容室「髪芝居」の角を左折(西へ)、直ぐ。駐車場なし。
茨城県には、日本で最初に養蚕を始めたと称する神社が3社あり、その1つとして現・つくば市の「蚕影神社」(2020年11月28日記事)について以前に書いた。今回は、その2つ目になる。その起源については、「蚕影神社」と共通するところが多いが、凡そ次の通りである。孝霊天皇5年(紀元前286年?)、現・神栖市日川の「豊浦浜」の漁夫・青塚権太夫が沖に漂う丸木舟を引き上げて見ると、世にも稀な美少女が倒れていた。少女は天竺(インド)の霖夷国・霖光(りんいこく・りんこう)の娘・金色姫だった。継母に妬まれ、獅子山、鷹の巣山、絶海の孤島に押し込められるが、無事に戻って来た。そこで、城の片隅に穴を掘って金色姫を埋めたが、そこから金色の光が射して来たのに驚き、ついに、桑の木で作った丸木舟に乗せて、海に流された。常陸国豊浦に流れ着いた姫は権太夫に救われたのだが、看護の甲斐なく、病死してしまった。死後、姫は小虫と変わり、桑の葉を食べて育つと、美しい糸を吐いて繭を作った。その繭から繰りとった絹糸で織り上げられたものが常陸絹織として、各地に広がっていった。こうして、絹織物により巨富を得た権太夫は、一宇を建立して蚕霊尊を祀ったのを創祀とする...。というのだが、「蚕影神社」でもそうだったが、この伝説は別当寺によって広められたものらしく、本来は、当神社の東、約200mに現存する「蚕霊山 千手院 星福寺」の奥之院本尊とされた「衣襲明神(きぬがさみょうじん)」(=馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)。古い記事だが当ブログの「建穂神社」2011年1月18日記事)参照。)の縁起だったようである。なお、現在の祭神は大気津比売命(オオゲツヒメ)。
さて、当地(旧・神栖町)では、農家の副業として明治中頃より養蚕が急速に広まり、気候が温暖なため蚕の卵を取る蚕種製造に適していたこともあり、明治時代末には繭の生産額が水産物を追い越すほどになった。ところが、太平洋戦争が始まると、食糧増産のため桑園は芋畑に代わり、戦後も澱粉製造のためのさつま芋生産が盛んとなって、養蚕業は衰退していった。昭和30年代後半、再び養蚕が見直された時期もあったが、鹿島地区の工業開発に加え、繭の価格下落などのため昭和58年に当地の養蚕事業は終了した、という。


写真1:「蠶靈神社」鳥居と社号標


写真2:拝殿


写真3:本殿。彩色が鮮やか。


写真4:境内の石碑
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