シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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中国の妖婦 西太后 (3) 〜 俗説が生まれた理由

2021年06月18日 | 歴史をひも解いて
左から 珍妃 (1876~1900)、義和団の兵士、珍妃が投げ込まれた紫禁城内にある井戸。
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1887年 16歳になった光緒帝は西太后から政権を委譲され、彼女の指導で政治を行う訓政という形で親政を開始しました。 側近が光緒帝に接近して派閥が結成されると 西太后と対立し、派閥の一部は西太后の幽閉・暗殺を計画します。

1898年 西太后は先手を打ってクーデターを起こし、光緒帝を監禁し その派閥を弾圧しました (戊戌の変法 ぼじゅつのへんぽう)。

1900年 義和団の乱が勃発し8ヶ国連合軍が北京に迫ると、光緒帝は西太后に連れられて西安まで落ち延びました。 その際に光緒帝の側室 珍妃 (ちんぴ) が西太后の命により井戸に投げ込まれて殺害されます。
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西太后は、北京を脱出して逃亡することを決意した。 同時に 後顧の憂いを消しておくことを忘れなかった。 光諸帝の寵愛を一身に受けた珍妃を井戸に投げ込ませたのである。

珍妃に西太后はいった。「私と皇帝はこれより北京を離れる。 道中には敵味方が数知れず満ちている。 そなたは連れてはいけぬ。 万が一 皇室の体面を汚すことがあってはならない。 そなたはここで自尽するのだ」

これを聞いた珍妃は、青ざめて西太后にいった。「皇帝は北京から離れてはなりません。 逃亡することは、満州族の祖先を汚すことになります」 これを聞いた西太后は、ますます激怒してこういい放った。「黙れ! 死にゆく者が何を申すか!」 そして冷笑しながら、こう続けた。「そなたは、ここで死ねばいいのじゃ!」

珍妃は、西太后の前にひざまずき涙ながらに命ごいをした。「皇后様、皇后様、私めをお許し下さい。 決して過ちはいたしませぬ」

しかし西太后は、これを断固許さなかった。 光諸帝を始め、その場にいた人々も目に涙をためて呆然と佇むばかりであった。 時が虚しく過ぎていくばかりで、一向に動かぬ彼らを西太后は、早くやれとばかり睨みつけた。 やがて 宦官のリーダーは、決意したかのように珍妃の元に歩み寄っていった。 彼はひざまずいている彼女を抱きかかえると、足取り重く ゆっくりと井戸に向かって歩き出した。 それは、口が非常に小さく深い不気味な枯れ井戸だった。 珍妃は、その井戸に頭から投げ込まれたという (『不思議館』__ 女王にまつわる奇談・西太后 http://fusigi.jp/fusigi_4/works/works_13_k.html から)。
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義和団の乱の鎮圧に八カ国連合軍とオランダが 72,000人弱 (大日本帝国が最大の 2万人以上) を超える兵を送り、死傷者 700人を超えました。 義和団側は 20万人以上が参加、死傷者 数万人といわれています。 清国は総額 4億5000万両、利息を含めると 9億8000万両もの賠償金を課されます。 当時の清朝の歳入が 8800万両強ですから、国家予算の10年分以上もの巨額です。
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1908年 光緒帝が37歳で亡くなった翌日、西太后も72歳で亡くなります。 光緒帝の死因については毒殺説と自然死説の両方が存在し、当時から砒素で毒殺されたという噂がありました。 2007年に 頭髪に集中して通常の1000~2000倍の砒素が検出され、致死量をはるかに上回る猛毒の三酸化二砒素が検出され、死因は急性胃腸性砒素中毒であり毒殺されたものとされています (2008年)。

諸説ある犯人について、西太后犯人説では「死去直前の西太后が毒殺を命じたという。 西太后と光緒帝の死亡時間が近いのは、自分の死期を悟った西太后が、自分よりも光緒帝を長生きさせないために毒殺した」と記しています (ウィキから)。

光緒帝の後を継いだ清朝最後の皇帝、宣統帝 (溥儀 ふぎ) は1912年 辛亥革命が起こって退位しました。 溥儀は後に満州国皇帝となり、1967年に61歳で亡くなりました。
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西太后の俗説が生まれたのは以下の理由かららしいですね __
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西太后については、民間に多くの逸話が伝えられている。 これらは、エドマンド・トリローニー・バックハウスが (ジョン・ブランドとの共著で) 出した『西太后治下の中国』によって、広く知られることとなった。 例を以下に挙げる。

・西太后は、下級官吏の貧しい家に生まれ育った。
・最初 円明園の宮女となったが、たまたま通りかかった咸豊帝に声と容姿が美しいことからみそめられ妃に昇格した。
・いわゆる『葉赫那拉の呪い』の伝説のせいで皇后になれなかった。
・ライバルの麗妃の手足を切断して甕の中で飼った。

上に挙げた例は根拠のない流説であること、バックハウスはイギリスの特殊工作員であったことが判明している。 そして これらの流説や俗説を事実として伝え、イギリスが辛亥革命を後押しするきっかけを作ったと考えられている (ウィキから)。
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イギリスは歴史を作るのがお上手? 大航海時代以降 世界の7つの海を支配し、ナポレオンを降した後の戦争で負け知らず、世界を支配するルールや議会制民主主義を作りました。 その手法は息子ともいえる合衆国に受け継がれています。

英語が世界語となり、寒いロンドン発祥の “背広” が世界中に普及し、暑いアフリカでも正装として使われているのは、イギリスの実力が背景にあったからでしょう。 私も 現役時代 夏に背広なんか着たくなかったですね。



1963年の米映画『北京の55日』は、清朝末期 首都北京に義和団が押し寄せ、外国人居留区が包囲されて11か国の居留民が籠城した55日間を戦った物語です。 登場する西太后を演じるのはイギリスの俳優 (フローラ・ロブソン) です。 伊丹十三が柴五郎中佐役でした。 予告編 (https://www.youtube.com/watch?v=mja-v2VSUo0) からの映像です。

今日はここまでです。

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