両端の写真は原田禎夫さん (日経記事から)、中央は東京クヮルテット。
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日本の弦楽四重奏団としては、国内の知名度は巖村真理弦楽四重奏団 (解散) に次いで東京クヮルテット、国際的には東京クヮルテットが最も高い知名度だっただろう。 そこで創設時から31年チェロを務めた原田禎夫氏の夕刊連載記事を読んだ。
そこでは、恩師の指導について 懐疑的なことが再三書かれており、この人の人生にはそれが大きな影を落としているものだなぁと感じさせられた。 別の世界だが指導がうまかった人には、日本女子バレーボールチーム監督の大松博文 (別名 “鬼の大松” 東京オリンピック優勝)、女子マラソン監督の小出義雄 (シドニー五輪で優勝した高橋尚子を指導) などがいますが、大松氏は個々の選手の適正を見て指導、小出氏は徹底して褒める指導だったと記憶しています。
私は、生徒の性格に合わせて指導するのがいいのではないかと思います。 生徒の性格は個々に異なりますから、画一的な指導では 合う生徒と合わない生徒ができるのはやむを得ないでしょう。 ビシバシ怒って指導すると伸びる生徒には厳しく (もちろん 暴力はナシで)、おだてに乗る生徒にはくすぐってやるなど、指導する側にも 一工夫も二工夫必要でしょう。 工夫しない指導者には、付いていく生徒も減っていくものです。
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「人間発見 チェリスト 原田禎夫さん カルテットとともに」(9月17~20日 日経夕刊)
ウィキペディアから __ 東京クヮルテット (Tokyo String Quartet) は解散した弦楽四重奏団。メンバーの幾度の交替を経て、米国ニューヨークを拠点に活動を続けていたが、2013年6月をもって活動を終了した。_ ※追加1へ
原田禎夫は、11歳から齋藤秀雄に師事。 1966年 桐朋学園大学卒業。 第33回日本音楽コンクール・チェロ部門優勝、毎日芸術賞を室内楽部門で受賞。 東京交響楽団の最年少首席チェリストを務めた後、渡米しジュリアード音楽院に入学し、室内楽の研鑽を積んだ。 1969年に東京クヮルテットを結成。 1970年にミュンヘン国際音楽コンクールで優勝を飾り世界に名を馳せた。
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原田禎夫氏の恩師の齋藤秀雄は、桐朋学園の開設に関与し、同学園にて弦楽部門を担当、教え子が主体となってサイトウ・キネン・オーケストラが創設され、教え子の1人 小沢征爾が指揮して 世界一流の楽団として認められている。
夕刊記事では、師の齋藤秀雄から厳しい指導を受けたらしく、その例が幾つか載っている__
1) 弓で手をぴしっと叩かれ「ばかやろう」と怒鳴られるのもしょっちゅうです。 先生は他の生徒にも厳しかったが、僕に対しては尋常ではなかった。
2) 20歳のとき 日本音楽コンクール・チェロ部門で優勝したが、ヴァイオリン部門で優勝した人も齋藤先生から習っていたので、一緒にお礼に行ったら、彼女にニコニコしていた先生が、僕に対しては強い口調で「お前は1位になるはずじゃなかった」。 随分傷つきました。
3) めったに1位を出さないミュンヘン国際音楽コンクールで東京クヮルテットとして優勝したが、齋藤先生は「お前は幸一郎 (東京クヮルテットのメンバー) に感謝しなきゃいけないよ」と。 なぜそういわれるのか。 完全に自信を失いました。
__とあるのを読むと、このチェリストは斎藤秀雄とウマが合わなかったのかと想像しました。 並み以上の活躍をし、コンクールで度々優勝している教え子には “よくやった” と褒めるのが普通でしょう。 褒めなかった理由は、A) ウマが合わなかった、B) 父親が “厳しく指導してくれ” と頼んだ のどちらかでしょう。
B) だとしても、コンクールで優勝するくらいなら 最終的には褒めるのが普通の指導者です。 すると、やはり A) だったのかも知れません。 でも例えば 楽器を練習すると分かりますが、練習しているのを聴いた知り合いがたまにでも褒めてくれるとヘタでも嬉しいものです。
私の場合、時々家の前を通りかかる知り合いから「あら 時々 “キィキィ” と音がしてるのが聴こえますね」といわれて、少しガッカリしたことがありますから。 もう少し “別のいい方” もあるだろうにと思いましたね。
米国のヴァイオリン教室の指導ぶりをネットでちらっとみると、生徒がちょっとでも練習成果を披露すると、すぐ “ベリーグッド” を繰り返します。 「まだまだ だな」よりは、何倍か嬉しいだろうと想像しますね。
……………………………………………………
私事になりますが、昔 私の所属していた部署に配属された新人男性が、5月頃 私に仕事の初成果を報告してきたことがあります。 かなり幼稚な内容で、私は褒めませんでした。 本人は少しがっかりした様子で、夏期休暇を取ったら そのまま会社に出てこなくなりました。 いわゆる “五月病” というものに罹ったらしく、そのまま退社しました。 本人は褒めてもらいたかったことが後で想像できました。
このチェリストは厳しい指導にもめげずに、数々のコンクールで優勝したのは立派です。 書かれているような内容なら、大概の生徒は逃げ出していたでしょう。 あるいはグレてしまったかも知れません。 ただ後年も 指導者の厳しさがトラウマになって、いまだに夢に出てくるそうですから、一生消えることがないのかも … それがなくなるのは、指導者に「厳しくして悪かった。 お前はよくやったよ」といってもらえるしかないでしょうね。
以上
※追加1_ 1969年にジュリアード音楽学校において結成。 創設メンバーは桐朋学園大学の卒業生であり、斎藤秀雄の門下生であった。 結成後まもなく コールマン・コンクールやミュンヘン国際音楽コンクールなどで優勝し、ドイツ・グラモフォン・レーベルとの契約に至った。 BMG クラシックス (RCA ビクター) と専属契約を結んでいた時期もあった。
録音数はアルバム40点にのぼり、数々の賞を獲得してきた。 これまでに、モントルー・ディスク大賞グランプリや、ステレオ・レヴュー誌ならびにグラモフォン誌における「室内楽部門年間最優秀賞」に輝き、グラミー賞にも7回ノミネートされている。
1994年の世界ツアー中 設立25周年を記念して、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏に挑んだ。「セサミ・ストリート」などアメリカ合衆国のテレビ番組にもたびたび出演している。2003年から 92nd Street Y をニューヨークの演奏拠点とし、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全16曲とピアノ曲を組み合わせた演奏会シリーズを2008年より3年間の計画で行う。
現在のメンバーは、1995年より日本音楽財団より無償貸与された、名匠アントニオ・ストラディヴァリによって製造された楽器のコレクション (通称「パガニーニ・カルテット」) を演奏に用いている。 メンバーは、クヮルテット・イン・レジデンスとして1976年よりイェール大学音楽学部に出講している他、桐朋学園大学をはじめとする世界各地でマスタークラスを開催している。
2013年6月をもって、44年に渡る活動を終え、解散した。
……………………………………………………
2011年11月 創設以来のヴィオラ奏者である磯村和英と二代目第2ヴァイオリン奏者の池田菊衛が、2013年6月をもって引退することが発表された。 池田と磯村は各々で音楽活動を続ける予定で、
磯村は「情熱と刺激に満ちた日々でした。 数々の素晴らしい室内楽の名曲を永遠に演奏し続けられると思ってきましたが、つい最近になってそれはちょっと無理なんだと気がつきました。 世界中を飛び回って演奏することがだんだん辛くなってきたのです」と、
また池田は、「37年に亘って支え続けて下さった仲間やお客様に心から感謝致します。 室内楽は私の喜びであり、これからは演奏活動と後進の指導に残りの人生を捧げられたらと思っています」と語っている。
新メンバーは2012年に発表される予定だったが、第1ヴァイオリン奏者のビーヴァー、チェロ奏者のグリーンスミスの熟考の結果、東京クヮルテットは2013年6月をもってその歴史を終えることになった。
以上
※追加1_ 1969年にジュリアード音楽学校において結成。 創設メンバーは桐朋学園大学の卒業生であり、斎藤秀雄の門下生であった。 結成後まもなく コールマン・コンクールやミュンヘン国際音楽コンクールなどで優勝し、ドイツ・グラモフォン・レーベルとの契約に至った。 BMG クラシックス (RCA ビクター) と専属契約を結んでいた時期もあった。
録音数はアルバム40点にのぼり、数々の賞を獲得してきた。 これまでに、モントルー・ディスク大賞グランプリや、ステレオ・レヴュー誌ならびにグラモフォン誌における「室内楽部門年間最優秀賞」に輝き、グラミー賞にも7回ノミネートされている。
1994年の世界ツアー中 設立25周年を記念して、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏に挑んだ。「セサミ・ストリート」などアメリカ合衆国のテレビ番組にもたびたび出演している。2003年から 92nd Street Y をニューヨークの演奏拠点とし、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全16曲とピアノ曲を組み合わせた演奏会シリーズを2008年より3年間の計画で行う。
現在のメンバーは、1995年より日本音楽財団より無償貸与された、名匠アントニオ・ストラディヴァリによって製造された楽器のコレクション (通称「パガニーニ・カルテット」) を演奏に用いている。 メンバーは、クヮルテット・イン・レジデンスとして1976年よりイェール大学音楽学部に出講している他、桐朋学園大学をはじめとする世界各地でマスタークラスを開催している。
2013年6月をもって、44年に渡る活動を終え、解散した。
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2011年11月 創設以来のヴィオラ奏者である磯村和英と二代目第2ヴァイオリン奏者の池田菊衛が、2013年6月をもって引退することが発表された。 池田と磯村は各々で音楽活動を続ける予定で、
磯村は「情熱と刺激に満ちた日々でした。 数々の素晴らしい室内楽の名曲を永遠に演奏し続けられると思ってきましたが、つい最近になってそれはちょっと無理なんだと気がつきました。 世界中を飛び回って演奏することがだんだん辛くなってきたのです」と、
また池田は、「37年に亘って支え続けて下さった仲間やお客様に心から感謝致します。 室内楽は私の喜びであり、これからは演奏活動と後進の指導に残りの人生を捧げられたらと思っています」と語っている。
新メンバーは2012年に発表される予定だったが、第1ヴァイオリン奏者のビーヴァー、チェロ奏者のグリーンスミスの熟考の結果、東京クヮルテットは2013年6月をもってその歴史を終えることになった。
以上
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日本の弦楽四重奏団としては、国内の知名度は巖村真理弦楽四重奏団 (解散) に次いで東京クヮルテット、国際的には東京クヮルテットが最も高い知名度だっただろう。 そこで創設時から31年チェロを務めた原田禎夫氏の夕刊連載記事を読んだ。
そこでは、恩師の指導について 懐疑的なことが再三書かれており、この人の人生にはそれが大きな影を落としているものだなぁと感じさせられた。 別の世界だが指導がうまかった人には、日本女子バレーボールチーム監督の大松博文 (別名 “鬼の大松” 東京オリンピック優勝)、女子マラソン監督の小出義雄 (シドニー五輪で優勝した高橋尚子を指導) などがいますが、大松氏は個々の選手の適正を見て指導、小出氏は徹底して褒める指導だったと記憶しています。
私は、生徒の性格に合わせて指導するのがいいのではないかと思います。 生徒の性格は個々に異なりますから、画一的な指導では 合う生徒と合わない生徒ができるのはやむを得ないでしょう。 ビシバシ怒って指導すると伸びる生徒には厳しく (もちろん 暴力はナシで)、おだてに乗る生徒にはくすぐってやるなど、指導する側にも 一工夫も二工夫必要でしょう。 工夫しない指導者には、付いていく生徒も減っていくものです。
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「人間発見 チェリスト 原田禎夫さん カルテットとともに」(9月17~20日 日経夕刊)
ウィキペディアから __ 東京クヮルテット (Tokyo String Quartet) は解散した弦楽四重奏団。メンバーの幾度の交替を経て、米国ニューヨークを拠点に活動を続けていたが、2013年6月をもって活動を終了した。_ ※追加1へ
原田禎夫は、11歳から齋藤秀雄に師事。 1966年 桐朋学園大学卒業。 第33回日本音楽コンクール・チェロ部門優勝、毎日芸術賞を室内楽部門で受賞。 東京交響楽団の最年少首席チェリストを務めた後、渡米しジュリアード音楽院に入学し、室内楽の研鑽を積んだ。 1969年に東京クヮルテットを結成。 1970年にミュンヘン国際音楽コンクールで優勝を飾り世界に名を馳せた。
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原田禎夫氏の恩師の齋藤秀雄は、桐朋学園の開設に関与し、同学園にて弦楽部門を担当、教え子が主体となってサイトウ・キネン・オーケストラが創設され、教え子の1人 小沢征爾が指揮して 世界一流の楽団として認められている。
夕刊記事では、師の齋藤秀雄から厳しい指導を受けたらしく、その例が幾つか載っている__
1) 弓で手をぴしっと叩かれ「ばかやろう」と怒鳴られるのもしょっちゅうです。 先生は他の生徒にも厳しかったが、僕に対しては尋常ではなかった。
2) 20歳のとき 日本音楽コンクール・チェロ部門で優勝したが、ヴァイオリン部門で優勝した人も齋藤先生から習っていたので、一緒にお礼に行ったら、彼女にニコニコしていた先生が、僕に対しては強い口調で「お前は1位になるはずじゃなかった」。 随分傷つきました。
3) めったに1位を出さないミュンヘン国際音楽コンクールで東京クヮルテットとして優勝したが、齋藤先生は「お前は幸一郎 (東京クヮルテットのメンバー) に感謝しなきゃいけないよ」と。 なぜそういわれるのか。 完全に自信を失いました。
__とあるのを読むと、このチェリストは斎藤秀雄とウマが合わなかったのかと想像しました。 並み以上の活躍をし、コンクールで度々優勝している教え子には “よくやった” と褒めるのが普通でしょう。 褒めなかった理由は、A) ウマが合わなかった、B) 父親が “厳しく指導してくれ” と頼んだ のどちらかでしょう。
B) だとしても、コンクールで優勝するくらいなら 最終的には褒めるのが普通の指導者です。 すると、やはり A) だったのかも知れません。 でも例えば 楽器を練習すると分かりますが、練習しているのを聴いた知り合いがたまにでも褒めてくれるとヘタでも嬉しいものです。
私の場合、時々家の前を通りかかる知り合いから「あら 時々 “キィキィ” と音がしてるのが聴こえますね」といわれて、少しガッカリしたことがありますから。 もう少し “別のいい方” もあるだろうにと思いましたね。
米国のヴァイオリン教室の指導ぶりをネットでちらっとみると、生徒がちょっとでも練習成果を披露すると、すぐ “ベリーグッド” を繰り返します。 「まだまだ だな」よりは、何倍か嬉しいだろうと想像しますね。
……………………………………………………
私事になりますが、昔 私の所属していた部署に配属された新人男性が、5月頃 私に仕事の初成果を報告してきたことがあります。 かなり幼稚な内容で、私は褒めませんでした。 本人は少しがっかりした様子で、夏期休暇を取ったら そのまま会社に出てこなくなりました。 いわゆる “五月病” というものに罹ったらしく、そのまま退社しました。 本人は褒めてもらいたかったことが後で想像できました。
このチェリストは厳しい指導にもめげずに、数々のコンクールで優勝したのは立派です。 書かれているような内容なら、大概の生徒は逃げ出していたでしょう。 あるいはグレてしまったかも知れません。 ただ後年も 指導者の厳しさがトラウマになって、いまだに夢に出てくるそうですから、一生消えることがないのかも … それがなくなるのは、指導者に「厳しくして悪かった。 お前はよくやったよ」といってもらえるしかないでしょうね。
以上
※追加1_ 1969年にジュリアード音楽学校において結成。 創設メンバーは桐朋学園大学の卒業生であり、斎藤秀雄の門下生であった。 結成後まもなく コールマン・コンクールやミュンヘン国際音楽コンクールなどで優勝し、ドイツ・グラモフォン・レーベルとの契約に至った。 BMG クラシックス (RCA ビクター) と専属契約を結んでいた時期もあった。
録音数はアルバム40点にのぼり、数々の賞を獲得してきた。 これまでに、モントルー・ディスク大賞グランプリや、ステレオ・レヴュー誌ならびにグラモフォン誌における「室内楽部門年間最優秀賞」に輝き、グラミー賞にも7回ノミネートされている。
1994年の世界ツアー中 設立25周年を記念して、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏に挑んだ。「セサミ・ストリート」などアメリカ合衆国のテレビ番組にもたびたび出演している。2003年から 92nd Street Y をニューヨークの演奏拠点とし、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全16曲とピアノ曲を組み合わせた演奏会シリーズを2008年より3年間の計画で行う。
現在のメンバーは、1995年より日本音楽財団より無償貸与された、名匠アントニオ・ストラディヴァリによって製造された楽器のコレクション (通称「パガニーニ・カルテット」) を演奏に用いている。 メンバーは、クヮルテット・イン・レジデンスとして1976年よりイェール大学音楽学部に出講している他、桐朋学園大学をはじめとする世界各地でマスタークラスを開催している。
2013年6月をもって、44年に渡る活動を終え、解散した。
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2011年11月 創設以来のヴィオラ奏者である磯村和英と二代目第2ヴァイオリン奏者の池田菊衛が、2013年6月をもって引退することが発表された。 池田と磯村は各々で音楽活動を続ける予定で、
磯村は「情熱と刺激に満ちた日々でした。 数々の素晴らしい室内楽の名曲を永遠に演奏し続けられると思ってきましたが、つい最近になってそれはちょっと無理なんだと気がつきました。 世界中を飛び回って演奏することがだんだん辛くなってきたのです」と、
また池田は、「37年に亘って支え続けて下さった仲間やお客様に心から感謝致します。 室内楽は私の喜びであり、これからは演奏活動と後進の指導に残りの人生を捧げられたらと思っています」と語っている。
新メンバーは2012年に発表される予定だったが、第1ヴァイオリン奏者のビーヴァー、チェロ奏者のグリーンスミスの熟考の結果、東京クヮルテットは2013年6月をもってその歴史を終えることになった。
以上
※追加1_ 1969年にジュリアード音楽学校において結成。 創設メンバーは桐朋学園大学の卒業生であり、斎藤秀雄の門下生であった。 結成後まもなく コールマン・コンクールやミュンヘン国際音楽コンクールなどで優勝し、ドイツ・グラモフォン・レーベルとの契約に至った。 BMG クラシックス (RCA ビクター) と専属契約を結んでいた時期もあった。
録音数はアルバム40点にのぼり、数々の賞を獲得してきた。 これまでに、モントルー・ディスク大賞グランプリや、ステレオ・レヴュー誌ならびにグラモフォン誌における「室内楽部門年間最優秀賞」に輝き、グラミー賞にも7回ノミネートされている。
1994年の世界ツアー中 設立25周年を記念して、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏に挑んだ。「セサミ・ストリート」などアメリカ合衆国のテレビ番組にもたびたび出演している。2003年から 92nd Street Y をニューヨークの演奏拠点とし、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全16曲とピアノ曲を組み合わせた演奏会シリーズを2008年より3年間の計画で行う。
現在のメンバーは、1995年より日本音楽財団より無償貸与された、名匠アントニオ・ストラディヴァリによって製造された楽器のコレクション (通称「パガニーニ・カルテット」) を演奏に用いている。 メンバーは、クヮルテット・イン・レジデンスとして1976年よりイェール大学音楽学部に出講している他、桐朋学園大学をはじめとする世界各地でマスタークラスを開催している。
2013年6月をもって、44年に渡る活動を終え、解散した。
……………………………………………………
2011年11月 創設以来のヴィオラ奏者である磯村和英と二代目第2ヴァイオリン奏者の池田菊衛が、2013年6月をもって引退することが発表された。 池田と磯村は各々で音楽活動を続ける予定で、
磯村は「情熱と刺激に満ちた日々でした。 数々の素晴らしい室内楽の名曲を永遠に演奏し続けられると思ってきましたが、つい最近になってそれはちょっと無理なんだと気がつきました。 世界中を飛び回って演奏することがだんだん辛くなってきたのです」と、
また池田は、「37年に亘って支え続けて下さった仲間やお客様に心から感謝致します。 室内楽は私の喜びであり、これからは演奏活動と後進の指導に残りの人生を捧げられたらと思っています」と語っている。
新メンバーは2012年に発表される予定だったが、第1ヴァイオリン奏者のビーヴァー、チェロ奏者のグリーンスミスの熟考の結果、東京クヮルテットは2013年6月をもってその歴史を終えることになった。
以上