
左上写真は、ベルリン・フィルの次期首席指揮者・芸術監督に内定したキリル・ペトレンコ。 右上はチョン・ミョンフン。 左下はリニューアルしたロームシアター京都 (京都会館) のメインホールで指揮を執る小澤。 右下はアンドリス・ネルソンス。
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20世紀末に大物指揮者 (ベーム/カラヤン/バーンスタイン/ショルティ など) が相次いで亡くなり、かつてのようなカリスマ指揮者やマエストロといわれる大指揮者は、払い底状態になってきています。 オペラの世界もかつては、歌手の時代から、指揮者の時代、そして今は演出家の時代といわれるように、オペラの世界では指揮者よりは演出家が注目されるようになってきました。
それだけ 相対的に、指揮者の影響力が減ってきたともいえます。 (19世紀以前の) 歌手の時代は、歌手が強く 受けがいいと指揮を無視して同じアリアを歌っていたらしい。 20世紀の指揮者の時代は、例えば カラヤンがウィーン歌劇場の監督をしている頃は カラヤン指揮のオペラで歌っただけで歌手がスター扱いされることもあったといいます。 今は指揮するだけで客が集まるというケースは少ないでしょう。
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「独名門楽団に36歳指揮者 過去150年で最年少」(9月10日 ベルリン共同 ※追加1へ)
「ソウル市響・鄭明勲芸術監督が辞意表明」(8月28日 朝鮮日報 ※追加2へ)
ウィキペディアから __ チョン・ミョンフンは、2005年 ソウル市長李明博 (当時) からの「ソウル・フィルをアジア一のオーケストラに」との要請を受けてソウル市立交響楽団の音楽監督に就任 (※追加3へ)。
「ベルリン・フィルが選んだ “無名” の指揮者、キリル・ペトレンコ 」(8月2日 池田卓夫/日経 ※追加4へ)
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今 カリスマ指揮者やマエストロといわれる指揮者の中に、小澤は間違いなく入っているでしょう。 けれど 80歳と高齢で病気がちとなると、いつも聴衆の期待に応えて登場、というわけにはいきません。 どうしても健康な60代以前の指揮者の活躍が期待されてしまうのは避けられないでしょう。
その意味で60代のチョン・ミョンフンは、実績もあり マエストロの仲間入りしていると想像しますが、ソウル市響の監督職を退くという上記記事によれば 市響代表とミョンフンの不和が原因のようです。
こういうことは実は珍しくありません。 カラヤンもベルリン・フィルの全ての歴代支配人といつも良好な関係とはいえなかったし、ウィーン歌劇場の監督時代も似たようなことがありました。
ただ ソウル市響はミョンフンあっての存在だったでしょうから、彼が去ってしまったら 人気の継続、名門 DG との CD 録音継続は難しいのではと想像します。
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アンドリス・ネルソンスについては、情報が少ないので何ともいえません。 手持ち CD には、ブラームスのピアノ協奏曲1番と2番を指揮したものがありますが、どちらもよかったですよ __ 独奏はエレーヌ・グリモー (P)、オケはバイエルン放響 (1番 ライヴ録音) とウィーン・フィル (2番) で、2012年 DG 録音。
ただ 名門楽団とはいっても、(ネルソンスを迎える) ゲバントハウス管のランクはどのあたりなのでしょうか。 ドイツはベルリン・フィルを筆頭に、ドレスデン、バイエルン、ハンブルクがAクラス、フランクフルト、バンベルク、フンガリカ、ゲバントハウス、南西ドイツ、北西ドイツあたりがBクラスと認識していますが。
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キリル・ペトレンコについては、全く情報なしですね。 殆どの日本人も知らないんじゃないでしょうか。
思い起こせば カラヤンを選んだベルリン・フィルの選択眼は当り、ベルリン・フィルの名声は更に上昇、レコードも世界の隅々に行き渡り、世界のトップオーケストラの名を欲しいままにしますが、カラヤンの晩年には仲違いしてしまいます。
跡を継いだイタリア人のアバドは、直前のブラームスの指揮が評価されたと記憶しています。 しかし 肝心要のベートーヴェンの交響曲全集録音は、室内学的なものに聴こえ、あまり評価は高くないように思います。 その前のウィーン・フィルとのベートーヴェン交響曲全集録音は良かったと思いますが。
その跡を継いだイギリス人のラットルは古楽演奏を取り込んだ解釈が評価されたらしいですが、ベルリン・フィルとはベートーヴェンの録音は残しませんでした。 もっとも まだ3年も任期を残していますから、録音するかも知れません。
ペトレンコはどんなベートーヴェンを聴かせてくれるのでしょうか。
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一時 病気で指揮から遠ざかっていた小澤が京都の新ホールで、(予定していなかった指揮を?) 促されて、久しぶりに指揮を披露しました。 動画映像を見て、大丈夫かなと心配しましたが、危なげなく指揮を終えていました。 それはそれで良かったのですが、もし指揮台でこけていたりしたらオオゴトになっていたはずです。 私はもっとマエストロを大事にしてもらいたい、と思う心境です。
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「小澤征爾さん 復活する京都会館ホールで力強い指揮披露」(9月13日 The Page ※追加5へ)
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今日はここまでです。
※追加1_ ドイツ東部ライプチヒを拠点とする世界屈指のオーケストラ、ゲバントハウス管弦楽団は9日、カペルマイスター (常任指揮者) のリッカルド・シャイー氏 (62) の後任に、米ボストン交響楽団のアンドリス・ネルソンス音楽監督 (36) を迎えると発表した。 2017年に就任する。
ゲバントハウス管弦楽団は270年以上の歴史を誇る世界最古の市民楽団とされ、歴代常任指揮者にはドイツの作曲家メンデルスゾーンも名を連ねる。 ネルソンス氏は、過去150年間では最年少の常任指揮者となる。
ラトビア出身で、ラトビア国立歌劇場の音楽監督などを歴任。
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※追加2_ 2006年以来10年間 ソウル市立交響楽団 (ソウル市響) を率いてきた鄭明勲 (チョン・ミョンフン) 芸術監督 (62) が、27日「監督の職を退く」と表明した。 鄭氏は本紙とのインタビューで、「ソウル市響と聴衆たちが望むのであれば、すでに約束した公演での指揮は続けるが、指揮料は私のためには 1銭 も使わず、ソウル市響の発展や、国連児童基金 (ユニセフ) への支援など人道的な事業に役立てていく」と述べた。
鄭氏は、昨年12月 ソウル市響の一部の職員が、パク・ヒョンジョン代表 (当時) から暴言やセクハラ発言を浴びせられたと暴露した直後、職員たちの姿勢を支持し、パク前代表と対立した。 このような事態
はパク代表が辞任することで一段落したが、一部の市民団体は鄭氏を、業務費や (海外出張時の) 飛行機代の横領容疑で告訴し、現在も警察の捜査が行われている。
鄭氏は、2005年 ソウル市響に芸術顧問として迎えられた後、ソウル市響をアジアでもトップクラスのオーケストラに成長させたと評価されている。 昨年夏 英国ロンドンで行われたクラシック音楽コンサート・シリーズ「ザ・プロムス」で指揮者を務めた際には、現地メディアから好評を得た。 だが 高額の年俸をめぐって論議を呼び、横領などの疑惑も相次いで浮上したことで、芸術監督としての契約更改が話題になっていた。
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※追加3_ 世界各地でオーディションを行い、団員の約1/3を入れ替えるという大改革を実施した。 2009年 同団はアジアのオーケストラとして初めて、ドイツ・グラモフォンとの長期専属契約を結んだ。
鄭監督の改革は一定の成功を収め、それまで 40% を下回っていたチケット販売率が、2014年には 92.8% まで引き上げるなどの成果を上げた。 一方で 2014年の初めに、ソウル市立交響楽団は、ソウル市が行った経営に関する評価で最下位となった。
また 2014年12月8日には、人事考課なしで昇進人事が行われていた事が発覚し、行政監査では、鄭明勲が海外活動のため、楽団の日程をいくつかキャンセルした事も
明らかとなった。 また 楽団の朴ヒョン貞代表の暴言・セクハラしていると楽団職員が暴露した問題に対して、鄭は「容認できない人権蹂躙」と批判したが、朴は自身の疑惑を否定して、逆に鄭を批判して「鄭明勲氏が私を追いだそうとしている」と批判を展開した。
朴代表は辞任したが、この時に「鄭監督がソウル市響の人事や予算などに対し独断的に権力を行使している」と暴露した。 韓国の監査院は調査を行い、朴代表の発言が事実であることを確認した。
具体的には、鄭の息子のピアノレッスンを担当した者 (鄭の義姉の友人) を、職制にない職位を作ってソウル市響に就職させたことや、鄭監督の兄が代表の会社で課長を務めた職員がソウル市響に採用されたこと、マネジャーに支給されるべき航空券の一部が鄭の息子など家族に渡ったことなどである。
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※追加4_ 世界最高峰のオーケストラの1つ、ドイツのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 (以下 BPO) は今年6月下旬 2018年に退任するサイモン・ラトルの後任の首席指揮者・芸術監督を全楽員の合議により、キリル・ペトレンコと決めた。
■10代からオーストリアで育つ
ロシア生まれのオーストリア育ち。 ドイツ語圏のオペラ界でキャリアを積み、傑出した力量を評価されているが、CD や
DVD だけでなく メディアへの登場機会は限られ、英語圏や日本では「無名の指揮者を選んだ」と、驚きの声が上がった。
最初にペトレンコの経歴に触れておこう。 ユダヤ系ロシア人。 1972年2月11日 シベリア第2の都市オムスクでヴァイオリニストの父、音楽学者の母の間に生まれた。 まずはピアノの才能を伸ばし、11歳で地元のオーケストラと共演してデビュー。 東西冷戦の終結を受けて父親がオーストリア連邦最西端のフォアアールベルク州の交響楽団へ転職、一家で旧ソ連を出た時は18歳。 最初は同州立音楽院でピアノの勉強を続け、後にウィーン国立音楽大学でウロス・ラヨヴィッチに師事し、指揮法を本格的に学んだ。
プロとしてのデビューは95年。 第2の故郷フォアアールベルクの歌劇場で、ブリテンの「オペラをつくろう」を指揮した。 97~99年にはウィーン・フォルクスオーパーでカペルマイスター (常任指揮者) を務め、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」原典版に挑むなどの成果を上げた。 99~2002年はドイツ最年少の音楽総監督 (GMD) としてマイニンゲン宮廷劇場を率いた。 ここで01年 クリスティーネ・ミーリッツ演出によるワーグナーの「ニーベルングの指輪」4部作で2組のオーケストラを振り分け、4日連続の上演を実現した時点で、ドイツ語圏の音楽メディアがこぞってペトレンコの存在をマークした。
■オペラ指揮者として高い評価
「同世代で最も優れたオペラ指揮者」の評価は02~07年 ベルリン・コーミッシェオーパ―の GMD だった時期に固まった。 どの国のオペラも原則ドイツ語で上演するコーミッシェオーパーはペーター・コンヴィチュニー、カリスト・ビエイトら一筋縄ではいかない演出家たちが原作の「読み替え」も辞さず、挑発的な舞台をつくるムジークテアーター (音楽劇場) の最先端。 ペトレンコは海千山千の演出家と実りある音楽の共同作業をなし遂げ、「オペルンヴェルト」誌の「今年のベスト指揮者」に07、09年の2度選ばれた。 初めてランク入りした05年もいきなりの2位で、巨匠ピエール・ブーレーズの次につけた。
ベルリンで完全燃焼したのか、GMD 辞任後しばらくはフリーだったが、客演先はウィーン国立歌劇場、バイエルン州立歌劇場、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場など一流ぞろい。 10年5月には病を得た音楽監督、小澤征爾の代役でチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」をウィーンで指揮している。 BPO とは06年に初共演し、09年と12年にも客演したが、ドイツ・オーストリアの古典の交響曲は慎重に避けてきた。 昨年末にもマーラーの「交響曲第6番《悲劇的》」を指揮する予定だったが、リハーサル途中で降板し「自発的に後継者レースから降りたのではないか」と、うわさされた。
13年9月にはケント・ナガノの後任としてバイエルン州立歌劇場の GMD を引き受け、現在もその職責にある。 13~15年は作曲家自身が創設したワーグナー上演の聖地、バイロイト音楽祭に招かれ、フランク・カストロフ演出の「指輪」全曲の指揮を委ねられた。 演出の評判は芳しくないが、ペトレンコの指揮は「明晰 (めいせき) かつ均質に練り上げられニュアンス豊かな響きが16時間にわたり、緑の丘 (バイロイト) に鳴り続けることは近来まれだった。
多くのワーグナー・ファンは、心からの大歓声を送った」(「シュピーゲル」誌)、「早くから『天才ではないか』と臆測を呼んでいたが、バイロイトの『リング (指輪)』で輝く星となった。 後期ロマン派音楽においては向かうところ敵なしの優れた指揮者である」(「ツァイト」紙) などなど、ドイツ・メディアの絶賛に包まれている。
もう一つ 全メディアの意見が異論なく一致するのはペトレンコの「アンチ・マエストロ (非巨匠)」ぶりだ。「ターゲスシュピーゲル」紙は、「世界のクラシック音楽界きっての無口な指揮者」とし、ペトレンコが「もう何年も単独インタビューに応じない」うえ、バイエルン州立歌劇場の年次記者会見に GMD として出席しなければならない場面でも「ほとんどシャイともいえる態度で作品への畏怖の念をこめ、誠実に、言葉すくなに答える」との姿を詳しく伝えている。 BPO からの第一報がバイロイトでリハーサル中のペトレンコに届いた
瞬間も、ただ一言、「私はあなたたちのオーケストラを抱きしめる」と短いながら、心のこもったコメントを発しただけだった。
クリスティアン・ティーレマン (ドレスデン州立歌劇場 GMD)、アンドリス・ネルソンズ (ボストン交響楽団音楽監督)、グスターヴォ・ドゥダメル (ロサンゼルス・フィルハーモニック音楽監督)、ヤニック・ネゼ=セガン (フィラデルフィア管弦楽団音楽監督) ら、ラトルの後任人事で有力候補とされた指揮者の多くは BPO とも関係が深い名門レーベル、ドイツ・グラモフォン (DG) とすでに契約し、世界各地で演奏活動を展開している。
ペトレンコはほぼ唯一の、DG と関係ない指揮者だった。 クラシック音楽の有力市場とされる日本にもまだ、姿を現していない。 オスロ・フィルやロイヤル・リヴァプール・フィルとのツアー、あるいは NHK 交響楽団の演奏会などを日本で頻繁に指揮してきたのは1976年サンクトペテルブルク生まれのロシア人、ワシリー・ペトレンコである。 キリルとは親戚でも何でもない、という。
■ベルリン・フィルの精神風土とベルリンの街の力学
BPO はなぜ、「後継者を一人に絞れなかった」と発表した後、わずか1カ月あまりで国際サーキットに背を向けたアンチ・マエストロ、しかも 交響楽演奏会よりオペラで実績を積んできたロシア人に未来を託したのか?
キーワードは2つ。 第一はもちろん、名声に甘んじることなく人材発掘と演奏能力、メディア戦略のあらゆる部分で「世界最先端のオーケストラであろう」と努める BPO 自体に備わった精神風土。 第二は、19世紀末から20世紀半ばにかけて何度も栄光と挫折を繰り返した都市ベルリンの「創造と破壊」の摩訶 (まか) 不思議な力学だろう。
BPO と並び称される名門 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は基本的にウィーン国立音楽大学の師弟関係に基づいて楽員を補充し、同質の響きを保ってきた。 これに対し ベルリンは第2次世界大戦中、ナチス政権の干渉でユダヤ系楽員を失う一方、ドイツ人楽員にも多くの戦死者を出し、伝統が分断された。「帝王」として君臨した指揮者 ヘルベルト・フォン・カラヤンは世界最高のアンサンブルを目指してドイツ語圏外からの採用にも力を入れ、日本人や女性に門戸を開いた。
続くクラウディオ・アバドの時代は終戦直後の大量採用世代の引退期と重なった。 アバドはヨーロッパ室内管弦楽団、グスタフ・マーラー室内管弦楽団など自身が育成に携わった若手集団からの入団を積極的に促す一方、最新の音楽学の成果を採り入れ、演奏様式のリフレッシュに成功した。 ヨーロッパ大陸の外から招いた初めてのシェフ 英国人サイモン・ラトルの下には20以上の国籍を異にする楽員が集まり、世界最高のヴィルトゥオーゾ (名人) 集団の様相を呈している。
2003年にはベルリン特別市の管理下を離れ、完全民営の独立法人に移行した。 楽員の合議制による運営が一段と進み、インターネットで世界に最高音質・画質のライヴ映像を配信する「デジタルコンサートホール」などのメディア戦略を担う子会社でも、楽員代表が代表取締役を兼ねる。
DG など外部のレコード会社の思惑に左右されず、独自の音楽ソフトを販売するためにも、ペトレンコの「無色」には魅力があった。 若い時期から GMD として劇場の運営に携わり、大勢の音楽家やスタッフと根気よく心を通わせ、入念かつ情熱的なリハーサルで音楽の質を高めてきた実績は、合議制チームにもフィットするはずだ。
ベルリンの近代史を振り返ってみよう。「鉄の宰相」のオットー・フォン・ビスマルクが推進したドイツ統一を受けて生まれたプロイセン王国~ドイツ帝国の流れは第1次世界大戦で挫折、欧州の文化的な首都として栄えた黄金の1920年代 (ローリング・トゥエンティーズ) はアドルフ・ヒトラー率いるナチス政権の台頭で消え去り、ヒトラーが夢見た第三帝国の栄光も第2次大戦の敗戦で無に帰した。
ある時期、ある分野で世界を制覇しかけては崩れ去る ……。 滅びの構図を何度も体験しても、あるいは体験したからこそ、ベルリナー (ベルリン市民) の不屈の精神は時として、すさまじく激しい創造のエネルギーへと昇華する。
西のドイツと日本が同時に享受した戦後の高度成長期、音楽の世界でもテレビ放送や長時間収録 (LP) レコード、ステレオ録音、ビデオソフトといった新しいテクノロジーが大量に投入された。 技術マニアだったカラヤンはクラシック音楽のメディア戦略を徹底して主導したし、後任のアバドもラトルもカラヤンほど強烈なカリスマ性、商業主義の匂いはなかったにせよ、BPO のシェフに選ばれた時点で大量のディスコグラフィー (盤歴) を蓄えていた。
カラヤンからラトル (退任時点) までの63年間はある意味、同質の指揮者との共同作業が続いたわけで、ベルリンの一角にそろそろ「破壊」への危険な誘惑が充満していたとしても何ら不思議はない。 ゼロからの創造にはゼロから勝負できる指揮者 ……。 2度目の投票で、そんな機運が一気に盛り上がってしまったのではないか?
ペトレンコも含め、BPO の歴代指揮者10人が常任指揮者、首席指揮者、芸術監督に就いた時点の年齢を点検すると30代が2人、40代が6人、50代が2人。 就任時点で46歳のペトレンコは意外にも「多数派」に入る。 カラヤンだけは終身指揮者の称号を与えられたが、晩年に悪化した健康状態とスキャンダルの表面化で急死の直前に退任。 亡くなるまで BPO の指揮者を務めた、つまり「在職死亡」扱いのシェフはアルトゥール・ニキシュ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、レオ・ボルヒャルトの3人にとどまる。
ボルヒャルトはペトレンコに先立つロシア人で戦後の混乱期、ベルリンに駐留した旧ソ連軍の意向で君臨したのもつかの間、米国兵の誤射によって3カ月後に落命した。 ボルヒャルトを除く9人の平均在任期間は15年あまり。 ラトルの16年間が極端に短いわけでもない。 BPO 人事の実態は、マエストロ神話と無縁のところに位置する。
興味深いのは、本国ドイツを上回る勢いで BPO を神格化し、豪華なキャストや舞台演出を伴う海外オペラ団体の引っ越し公演にも匹敵する高額入場料 (2013年日本公演のS席は 4万円) もいとわなかった日本市場の反応だろう。 高額が暴利というわけではない。
一人一人の楽員が独奏家 (ソリスト) の力量を備え、オーケストラ全体のツアーがない年にも単独や室内楽チームでの演奏会、音楽祭や音楽大学でのマスタークラスの指導などで頻繁に日本を訪れるうちに相場が上がり、指揮者以前に BPO 自体のコストが驚くほど高いのである。
あるテレビ局のニュースはペトレンコをあっさり「無名の指揮者」と報じたが、ラトルからペトレンコにシェフが替わったとしても、入場料金の値下がりは期待できない。 興行の主催者にとっても、BPO のファンにとっても、かなり悩ましい決定が下されたものだ。
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※追加5_ 京都市民や国内外のアーティストに愛された「京都会館」(京都市左京区) が来年1月に「ロームシアター京都」として新たなスタートを切ることになり、13日に竣工式が行われた。 この式にあわせ、同会館のメインホールで初演奏が行われ、世界的指揮者、小澤征爾さんが自らの音楽塾メンバーのオーケストラ演奏を指揮し、会場中が大興奮に包まれた。
リニューアルしたホールでパワフルな指揮
同会館は1960年に開館し、様々なアーティストにも親しまれていたが、老朽化のため音響の低下なども叫ばれ2012年3月に一時閉館。 その後 様々な工事などが行われ、来年1月に「ロームシアター京都」として新たなスタートを切ることになった。
今回はその来年のスタートを前に、リニューアルしたメインホールが披露され、最新技術によって甦ったホールで、小澤さんが主宰する音楽塾のメンバーが演奏を行った。
小澤さんは演奏前は客席に座ってオーケストラメンバー紹介を見守っていたが、途中から舞台に向かって歩き出し、司会者からマイクを引き継ぐと自らメンバーらを紹介。 そして、曲が始まると自らも激しい動きで指揮を執り 新たなホールに迫力のある音を響かせ、会場中から盛大な拍手をおくられた。
客席の女性「指揮と演奏に涙が出た」
今回のお披露目に招待された京都市の女性 (59) は、「こんなにすばらしい会館が復活してうれしい。 下のカーペットとかもほんまにきれいで、これはまた、いろいろと楽しむことができそう。 それよりも、小澤さんの指揮と音楽塾の演奏に涙が出てもうた。やっぱり世界の小澤さんやね」などと、興奮した様子で話していた。
同会館は来年1月10日に「ロームシアター京都」としてオープンする。
以上