*『死の淵を見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。67回目の紹介
『死の淵を見た男』著者 門田隆将
「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」
それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)
吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。
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**『死の淵を見た男』著書の紹介
第22章 運命を背負った男
緊対室に巻き起こった万雷の拍手 P350~
洋子夫人は、吉田とは大学時代に知り合い、吉田が入社した翌年、昭和55(1980)年に結婚した。
「主人は、若い時から、そういう宗教関係の本を読んでましたので、松香くさい人だなと思ったこともあります。旅行に行って、有名なお寺があると、そこのご住職に頼んで中まで見せていただくんです。ずけずけ行って、押しが強いんですよ。でも、そういう時の対応を見て、すごく大人だなと思いました。若い時から、普通の若者とは、ちょっと違ってました。生と死というものにすごい興味があったんだと思います。私は”死”とかを意識すると、怖いという感じを持ってしまうんですけど、主人は達観してるというか、死をそういうものでは捉えていなかったですね。死ぬんだったら、それはそれでしょうがないじゃないかという死生観があって、私でもそいう話を聞くと、ちょっと自分がホッとするようなことがありました。主人は物事をあるがままに受け入れる、あがいてもしょうがないというか、運命を受け入れるという考え方をもともと持っていたと思います」
吉田は、事故から8か月後、突然、食道癌の宣告を受けた。吉田の身体は、いつの間にか癌細胞に蝕まれていたのである。
「癌の告知は、一緒に受けたんです。東電病院で人間ドックを受けた時、食道のあたりにかなり大きな影があるって指摘を受けまして、詳しくは、慶応病院の検査を受けて、ということになりました。それで11月16日に、告知されたんです。食道癌で、”ステージ・スリーです”と、2人で告知を受けたんですが、なんか人の病気のことを聞くような感じで、2人とも落ち着いて聞けました。先生の話が、遠くから聞こえるような感じで、ああ、そうなんですかあ、という風でした。あんなに主人は頑張ったのにこんな酷い目にあって・・という感情が出てくるのは、ずっとあとですね」
それは、生と死の狭間で踏ん張った吉田に、あまりに過酷な運命だった。さらに詳しい検査のために入院した吉田は、福島第一原発の所長を、後任の高橋毅に譲った。
吉田が福島第一原発に戻り、闘いの日々を過ごした免震重要棟の緊対室で、全員に対して挨拶をすることができたのは、2011年12月初めのことである。
緊対室には、突然去った吉田の姿を見ようと、協力企業も含めて数百人の人間が集まった。マイクを持って、テレビ会議のためのディスプレイの前に立った吉田は、そのひとりひとりに向かって、
「皆さん」
と語りかけた。福島第一原発では放射線の中での活動のため、建物の中にいても全員がタイベック姿である。免震重要棟から一歩外に出る時は、さらに全面タスクを装着するのである。
「皆さんに挨拶もできないまま、こんな形で(後任)の高橋君にあとを譲ってしまいました。誠に申し訳ありませんでした。もう私の病気については、みなさんもご承知かと思いますが、どういう状況かと申しますと、食道癌のステージ・スリーということを病院で診断されました」
(「第22章 運命を背負った男 緊対室に巻き起こった万雷の拍手」は次回に続く)
※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、
2016/6/6(月)22:00に投稿予定です。