産経が田母神氏とのインタビュー記事を出し、それを以下の様に書きとめたままにしておりましたら、たまたま故宮本警部の記念碑が建立されたことを知り、何か因縁じみたものを感じブログに載せた次第です。
産経が恐らく更迭後始めてと思われる田母神前空幕僚長へのインタビューを行っている。
内容的にはこれまでの発言に変わりがあるわけではないが、我々国民が彼の発言の中でどうしても忘れてはならない事があると思う。
それは、
「軍隊は、自分の命がかかればかかるほど、使命感がなければ動けなくなる。使命感とは、自分のやっていることは正義なんだ、と言う気持ちです。この国のために命をかけることが正しいのだという気持ちがないと軍は動けない。」
軍隊という組織はいざとなれば、国民を守るために合法的に人を殺すことを赦された唯一無二の組織である。
最近はやたら意味も無く他人を殺すと言うことが頻発するが、そこには正義のかけらも感じられない。常識のある人間なら、我々一般人が、もし人を殺さなければと言う事態に落ちいったら、「何故?」と同時に「正しいことか?」という二つの疑問がまず湧いてくることは間違いない。
それは軍人とて同じことである。正義のないことに誰が命を掛けて訓練を行おうと思うだろうか?だれが前線にでて国を守ろうとするだろうか?
大方の日本国民はいまだに国防という問題をないがしろにしてきているが、この素朴な問題に答える必要がある。そしてこの曖昧さが国防の現場にでている人々にとっては、くっきりと浮かび上がってくるのである。
戦いの最前線に出ればその一瞬の迷いが自らを、そして同僚の命を失うことに繋がるのだ。
とかく人は「正義」と言う言葉に美しいもの、気高い気持ちということを想像しがちであるが、しかしそれはむしろ「空虚な正義」に他ならない。
「現実の正義」は血なまぐさい、どろどろとした、見る角度によれば汚い物ですらある。そしてそれぞれの国はそれぞれの正義をその軍隊・軍人に使命として与え、いざと言うときの為に備えるのである。
落ち度の無い「完全な正義」などは存在する筈が無く、その「現実の正義」から逃避するなら国家は存在できなくなる。もし日本国民が「現実の正義」から目をそむけるなら、国家は存在しない。
ならば、自衛隊を解体して、どこかの国の属国になることを選択せざるをえない。それがどんな結果をもたらすかは歴史が教えてくれているが、自立とか自尊心とかいう言葉からは程遠いことであることだけは間違いが無い。望んでそうなっているわけではないが、今の「チベット」を見ればそれが「属国」の姿だ。全ての自由を奪われ宗主国の言うことに全て従わされるのが属国だ。
日本がそんなことでいいはずが無い。私ならそうなったら非力であろうとも戦い、死ぬことも止むを得ないと考える。
今ひとつ国民が考えなければならないことがあろう。
これは自衛隊にかかわらず、警察、消防、海上保安庁などの組織で働く人々への国民の思いである。他人を救う為に自らの命を掛けることを生業とする人々への敬意という問題である。
我々は故宮本警部の死に、あの韓国青年の死に深く心動かされ多くの人が、花束をささげ、弔問に訪れたことを記憶している。そして我々の心に、人の為に自らを犠牲にした人達に深い感動と敬意を示すと言うことが、当然のことと考えていることを折に触れて思い出すのである。
しかしながら、そしてその点だけを言えば結構なことではあり同時に皮肉な話ではあるのだが、自衛隊がこれまで戦闘行為による・あるいは救援支援による犠牲者が出ていないので、国民の心はそのことに思いをはせることがないのである。したがって、靖国神社への理解も今ひとつ進まないということであろう。
いずれにしても我々国民は、今一度自らの心を見つめなおして、「自らの命を賭けて他人を救うことを生業とする人々に対して、尊敬と敬意を払う」ということを表すということに日常的に心がけねばならない。教育の場所でも語られねばならない。
なぜならそういう行為で失われた命は、金銭で償うことが出来ないからであるからだ。
それではそれを償うものはなにか?私には「尊敬・敬意の表明であり名誉を捧げること」しか思い当たらない。
「身を捨てて いさおをたてし 人の名は 国のほまれと ともにのこさむ」
(明治天皇の御製と伺っています)
私には田母神氏がこの二つを問いかけているのだと思う。
産経が恐らく更迭後始めてと思われる田母神前空幕僚長へのインタビューを行っている。
内容的にはこれまでの発言に変わりがあるわけではないが、我々国民が彼の発言の中でどうしても忘れてはならない事があると思う。
それは、
「軍隊は、自分の命がかかればかかるほど、使命感がなければ動けなくなる。使命感とは、自分のやっていることは正義なんだ、と言う気持ちです。この国のために命をかけることが正しいのだという気持ちがないと軍は動けない。」
軍隊という組織はいざとなれば、国民を守るために合法的に人を殺すことを赦された唯一無二の組織である。
最近はやたら意味も無く他人を殺すと言うことが頻発するが、そこには正義のかけらも感じられない。常識のある人間なら、我々一般人が、もし人を殺さなければと言う事態に落ちいったら、「何故?」と同時に「正しいことか?」という二つの疑問がまず湧いてくることは間違いない。
それは軍人とて同じことである。正義のないことに誰が命を掛けて訓練を行おうと思うだろうか?だれが前線にでて国を守ろうとするだろうか?
大方の日本国民はいまだに国防という問題をないがしろにしてきているが、この素朴な問題に答える必要がある。そしてこの曖昧さが国防の現場にでている人々にとっては、くっきりと浮かび上がってくるのである。
戦いの最前線に出ればその一瞬の迷いが自らを、そして同僚の命を失うことに繋がるのだ。
とかく人は「正義」と言う言葉に美しいもの、気高い気持ちということを想像しがちであるが、しかしそれはむしろ「空虚な正義」に他ならない。
「現実の正義」は血なまぐさい、どろどろとした、見る角度によれば汚い物ですらある。そしてそれぞれの国はそれぞれの正義をその軍隊・軍人に使命として与え、いざと言うときの為に備えるのである。
落ち度の無い「完全な正義」などは存在する筈が無く、その「現実の正義」から逃避するなら国家は存在できなくなる。もし日本国民が「現実の正義」から目をそむけるなら、国家は存在しない。
ならば、自衛隊を解体して、どこかの国の属国になることを選択せざるをえない。それがどんな結果をもたらすかは歴史が教えてくれているが、自立とか自尊心とかいう言葉からは程遠いことであることだけは間違いが無い。望んでそうなっているわけではないが、今の「チベット」を見ればそれが「属国」の姿だ。全ての自由を奪われ宗主国の言うことに全て従わされるのが属国だ。
日本がそんなことでいいはずが無い。私ならそうなったら非力であろうとも戦い、死ぬことも止むを得ないと考える。
今ひとつ国民が考えなければならないことがあろう。
これは自衛隊にかかわらず、警察、消防、海上保安庁などの組織で働く人々への国民の思いである。他人を救う為に自らの命を掛けることを生業とする人々への敬意という問題である。
我々は故宮本警部の死に、あの韓国青年の死に深く心動かされ多くの人が、花束をささげ、弔問に訪れたことを記憶している。そして我々の心に、人の為に自らを犠牲にした人達に深い感動と敬意を示すと言うことが、当然のことと考えていることを折に触れて思い出すのである。
しかしながら、そしてその点だけを言えば結構なことではあり同時に皮肉な話ではあるのだが、自衛隊がこれまで戦闘行為による・あるいは救援支援による犠牲者が出ていないので、国民の心はそのことに思いをはせることがないのである。したがって、靖国神社への理解も今ひとつ進まないということであろう。
いずれにしても我々国民は、今一度自らの心を見つめなおして、「自らの命を賭けて他人を救うことを生業とする人々に対して、尊敬と敬意を払う」ということを表すということに日常的に心がけねばならない。教育の場所でも語られねばならない。
なぜならそういう行為で失われた命は、金銭で償うことが出来ないからであるからだ。
それではそれを償うものはなにか?私には「尊敬・敬意の表明であり名誉を捧げること」しか思い当たらない。
「身を捨てて いさおをたてし 人の名は 国のほまれと ともにのこさむ」
(明治天皇の御製と伺っています)
私には田母神氏がこの二つを問いかけているのだと思う。