ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

神秘

1957-12-27 | 日記
どうやら神秘というのは我々の目の前にあるようです。

ただし目が曇ってますのでちっとも気が付きません。

ただそれだけの事のようですね。

なんともはや、十牛図ではありませんが、ぐるっとひとまわりです。

それでもまあ、考えてみれば当然ですね。

バパに言われて気が付く。

なんとも、うといものです。(2012.12.27)

PS
宇宙はなぜこんなにうまくできているのか
村山 斉  集英社

アダムが誕生して地球に下ろされる為には、地球を作る必要がありました。

そうしてその為には、太陽系が必要で、その前には銀河系が必要でした。

そうして始まりの始まりは宇宙が存在しないといけません。


さて、「この宇宙はありふれたものではない」というのが現代物理学がたどり着いた結論であります。

言い方をかえますと「まるで奇跡が何十にも積み重なった結果としてのこの宇宙の存在」ということになります。

この「何十にも積み重なった奇跡」は通常は我々の目に触れることはありません。

大きすぎる奇跡は我々の目には「ありふれたこと」として映るのみであります。

そうして、誰かが水の上を歩くと「これこそ奇跡だ!」と言い出す始末です。


そういう訳で、これら「何十にも積み重なった奇跡」について、詳しくは村山さんの本を参照ねがいます。

追記
上記の件、近頃こんな風にしてまとめてみました。<--リンク

よかったら参照してみて下さい。

PS
最大の神秘は人間の登場でありましょう。

しかしながら、ご当人は「それはありふれたこと」としか認識していません。

大きすぎる神秘は我々の目には見えないものです。


そうしてまたラティハンもそうです。

「体が自動的に動くだけ。そんなのはほかにもあるよ。」と。

まあそういうように感じてしまいます。


あるいは「体が自動的に動いたからと言って、それがどうした?」と。

そう感じてしまいます。

そうして現状はそこがラティハンの一番難しい所になっていますね。

PS
ラティハンと長年つきあっていると、その神秘さ、奇跡的である事をつい忘れてしまします。

そうして通常の「リラックス体操か何か」そのような「ごく普通の物事」の様にとらえ始めてしまいます。

一面ではそれは正常な事であり、そのようにしてラティハンと日常生活が一つになってゆく事は「期待されている事」あるいは「望ましい事」ではあります。

しかしながらその感覚に埋没して「ラティハンがどれほど奇跡的であるのか」と言う事を忘れてしまう、と言うのでは困ります。

実はラティハンのたびごとにラティハンが起きる。

これはどこにもその保証がないのにそのようになります。

これが既に奇跡的です。

我々は実はラティハンの為に何の努力もしてはいないのですから。

しかも基本的には、そのラティハンの場にオープンを希望する方が一緒にいるだけで、その方もラティハンを始める事が可能になります。

そのような「べらぼうな修練方法」というのは今まで存在した事はありません。

多くの神秘的な密教的な精神的な修練方法は、その目指す地点が高ければ高いほど、すぐれた師にめぐりあい、その師の下で何年も修行して、その師の許しを得て初めて他人に指導を始める事が出来る、そう言う具合になっています。

他方でラティハンはどうでしょうか?

目指す地点はそれまで述べられている、知られているものと同じ最高地点を目指します。

しかしながら、それでいて「通常の日常生活をすごすこと」が許されています。

というよりも「通常の日常生活を体験してゆく事」がラティハンの道の一つの条件でもあります。

それから、どこにも「すぐれた、従わなくてはならない師」という存在はありません。

バパがご存命の時には人によってはバパを「そのような師」としてとらえていた方が大勢おられました。

バパは「私を礼拝するな。自分のラティハンに従え。」と言ってもお弟子さんたちは聞く耳を持ちませんでした。

まあそれはそれ、仕方のない事であります。

それほどにバパの存在は大きなものでありました。

・・・話がそれました。

そのようなすぐれた、バパの様な存在にならなくても、それなりにラティハンが修練している人の中に定着すれば、そのような人は新しくラティハンを始める事を希望する方をオープンする事が可能なのです。

これは事実であって、それはオープンに立ち会った方が「すぐれた師」というレベルになくとも、ただ単に「ラティハンの経験をそれなりに積んだ」と言う事で「オープン」と言うような、考えようによっては「奇跡的な事」が出来てしまいます。

その様になっていますので、中には自分が「ものすごい力を持っているのだ」などど勘違いする御仁も現われる事になります。

いえいえ、そのような奇跡的な力はその人に属するものではなく、ラティハンに属するのです。

そこの所がポイントです。

ラティハンにそのようなとんでもない力がある事、それは奇跡的な事であって、そのような力が毎回のラティハンで表れて我々を導き、修練させるのであります。

そのことがすでに「とんでもない事」であって、さてそれに比較すればラティハンを修練している人が「光を見た」だの「声を聞いた」だの「ヴィジョンを見た」だのと言うような事は、まあ「とるに足らない神秘体験」と言う事になりそうです。(2018・10月)