ジョーの日記

米国での日々の生活を写真と言葉で綴ります。

詩人、茨木のり子さんのこと

2024-01-21 | 日記
日曜日の今日は雨が降った。
なので裏庭の、家の陰になっているところの雪もだいぶ融けた。
暖冬なのかなあと思う。

ようさんがブログに役所広司主演の映画「Perfect Days」について書いていた。
残念ながらこちらの映画館では上映していない。
トイレの清掃員として働いている平山(役所広司)という男の話なのだけど、
先日映画好きの長男が「日本の映画でPerfect Daysっていうの知ってる?」と聞くので
「うんうん、観たいと思ってるんだよね」と言ったら、
「主人公の男が延々とトイレ掃除する話らしいよ」と少しつまらなさそうに言うので
「えーそこがいいんだと思うよ」と言ったら笑っていた。
長男によると、2月7日くらいからアップルテレビで観られるようになるそうで、
たぶん長男宅の大きいテレビで観させてもらえると思う。

話は変わって。
秋に千葉県鴨川の無印良品の古民家に泊まった時、
みんなみの里の小さな本屋さん?で見つけた一冊の料理本がある。



パラパラとページをめくって買うと決めたのだけど、
後で顔に見覚えがあると思って気がついた。
いつだったか何かの番組で詩人の茨木のり子さんについて特集をしていたのを観ていたんだった。
「わたしが一番きれいだったとき」
「自分の感受性くらい」
という詩のタイトルも印象に残っていた。
1926年生まれで2006年に亡くなっている。
つまり、茨木さんが「一番きれいだったとき」は戦争の最中だったことになる。

「自分の感受性くらい」(1975年)

ぱさぱさに乾いてゆく心を
人のせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひ弱な志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ



茨木さんはインタビューで、
「ばかものよってみんな自分に言っているんですよね。
戦争中のありさまみたいな。
ああいうふうに巻き込まれたときに、
あとでもうどうしようもないじゃありませんか、悔やんでも」
と言っている。

太平洋戦争当時15歳の茨木さんは軍国主義教育を一身に浴び、
隊列を先導する役割を務めるなど、国の大義に尽くしていたが、
4年後、迎えた敗戦時に戦争に青春をささげた少女が目にしたのは
変わり果てた街の姿。
そして手のひらを返したように民主主義に熱狂していく、日本人の姿だったと言う。
茨木さんは、『今まで「こうだ」というのがひっくり返ったわけですから。
そういうなかで「何だ」っていう感じがあって、
(本当に自分の目で見て、自分の頭で考えていたら)いちばん間違いが少ないということを
わたし戦争中に悟ったんですよね』と言った。

数年前、Eテレの100分で名著で吉本隆明さんの「共同幻想論」(1968年)で、
「人間が集団になると共同幻想にまきこまれてしまう」っていうのを思い出した。
やっぱり、全員が走り始めたり、ある方向に向かっていく時に
ちょっと立ち止まろうよと言って立ち止まることが一番勇気のあることだって
コメンテーターが言っていたのを思い出した。

吉野源三郎さんも著書「君たちはどう生きるか」で、
「君自身が心から感じたことや、
しみじみと心を動かされたことを、
くれぐれも大切にしなくてはいけない」と言っていたことも思い出した。

最後に茨木のり子さんのもう一つの詩を紹介。

「倚りかからず」

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない

ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい

じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ


今日の我が家の夕飯はミートソースのスパゲティー。
ゆっくりコトコト煮ておいしくできた。
茨木さんのレシピはまだ試していないけれど、
手書きのレシピの写真や短い日記、
茨木さんの家の台所の写真などが興味深い。

さー寝る準備をしよう。

コメント (2)
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