岡山駅から吉備線に乗って四つ目吉備津駅下車約10分のところに妹尾太郎兼康の墓があります。
兼康公は、この地方の豪族で清盛の信頼を受け平家の侍大将として1183年(寿永2)10月12日に木曾義仲の軍勢と戦い討たれた平家の武将です。
(現地からモブログでアップしました)
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岡山駅から吉備線に乗って四つ目吉備津駅下車約10分のところに妹尾太郎兼康の墓があります。
兼康公は、この地方の豪族で清盛の信頼を受け平家の侍大将として1183年(寿永2)10月12日に木曾義仲の軍勢と戦い討たれた平家の武将です。
(現地からモブログでアップしました)
今回の取材は源平史跡も兼ねていたのですね。またこちらで勉強させていただきます。
訪問とコメントありがとう。
妹尾氏の史跡は、高松城に行く途中で偶然見つけました。そこで急いで写してきたものをアップしましたのでよく分かっていません。
鎌足が祖先なのですか。
そうそう、妹尾氏の先祖は中臣鎌足といわれていて、大化改新で功績のあった鎌足は、朝廷から藤原姓を賜ったそうです。
また「徒然草」も兼好法師も一族みたいですよ。
部屋主さん、突然の訪問で済みません。
>藤原姓を賜ったそうです。
かならずしも・・・・藤原姓とは・・・。
私どもの筋から流出しました、慶長年間と元禄時代の資料が転々として、分流の一族の者が再利用したものが、世間に公表されたものです。
一族には橘姓や平姓や藤姓あるいは占部姓を称するところからも混乱が見られます。現実は、限りなく古代の吉備王族の吉備朝臣一族の末裔が正解のようです。
岡山市妹尾が領地となっていますが、実際の館は妹尾太郎兼康の墓の後ろに写っている「鯉山小学校」の敷地そのものです。祭祀されていた埋め墓は鯉山小学校の給食室の下にありました。
>限りなく古代の吉備王族の吉備朝臣一族の末裔が正解のようです。
このご説明を読んで納得しました。
永年に渡って血が引き継がれてきたことに驚きを感じます。お墓の後ろに小学校がありましたがそこが館のあったところなんですね。
年が過ぎれば風景も変わりますね。
訪問とコメントありがとう。
妹尾氏の一族の方ですか。
PCで変換するとセノでもセノオでも妹尾となりますね。
大阪の親戚同士でも呼び方が違うのですか。
歴史の流れの中で少しづつ変わってきたのでしょう。
ご無沙汰して居りました。
私、体調を崩していましたので、当部屋の訪問をしばらくしていませんでした。
ところで、(妹尾といいます。)さんへコメント
したいと思いますが、ここに書き込んでいいのでしょうか。他の方法があるのでしょうか。
体調を崩されたとかお大事にしてください。
「妹尾といいます」さんは、同じ妹尾さんの子孫の方なのでしょう。
書き込みをしてくださっただけでメルアドはわかりません。勿論、「妹尾といいます」さんへの伝言を書き込んでくださってもかまいません。
ただ、その方が再度訪問してくださるかはわかりませんが。
>やっぱり変ですよね?
ちっとも変では有りませんよ!。
「せのお・せお」姓の発生地が明確で、他には有り得ません。
・一つ家の中での関係(書き字)
同じ家の墓碑でも、古文書の中でも妹尾と瀬尾の両方が存在している家も在りますね。 読みが同じなら、好きな方を使って居ますよ。他名字の家でも、戦国時代も江戸時代
もけっこう好きな字を使っている例に当たりますよ。
・もう一つの関係(読み方)
もんだいは、「せのお」なのか、「せお」なのかです。《妹尾氏存在する地域に瀬尾氏在
り。瀬尾氏存在する地域に妹尾氏在り。》ですね。子孫として、お互いに助け合って存
続していることは間違いないところのようです。
わたくし的に理解している範囲では、
「せのお」の読みの妹尾・瀬尾は兼康公からの一族。
「せお」の読みの瀬尾・妹尾は兼康公より以前からの一族。
*字と読みは違っていても、先祖のたてりは受け継いでいるようです。
ただし何かの事情で、変音(せのお⇔せお)して変字(瀬尾⇔妹尾)にした場合は
この限りでは有りません。