胃 癌 日 記 81
-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月90日)までの日々-
-友と先生の死-
日常の仕事は、相変わらず多忙だ。私が責任であった企画は終わったが、アンケート集計のためにワークシートを作成したり、入力やグラフ作成の派遣職員との打合せ、作成中のアンケート集計やグラフのチェック、アンケート講評等の文書を纏めた会議資料の作成などばたばたとしている。そんな日々を過しているうちに3月に入り訃報を知った。
昨年11月に経済成長をこれから遂げていこうとする時期の中国の写真展を開催していたK君が、癌が脳に転移し、癌との闘いも及ばず逝ってしまった。K君の写真は、中国の庶民の目線で庶民・農民を徹底的に写したもので、中国の実相がリアルに伝わってくる。私が写真展に訪れたのは、雨が降る11月11日。前日まで写真展会場にK君は来ており来訪の旧知たちと存分に語り合っていたのだが、急に体調が悪化したとのことで再入院したため、奥さんと積もる話をした。奥さんの話によると、まだまだ気力も充実しており、残された時間に精一杯生きてきた証を残そうと頑張っていたとのこと。
おそらく遺作になるであろう写真集は、1966年以降の学園紛争の記録を残した写真集で、当時も今日もほとんどのマスコミによって学生運動の代名詞課のようにもてはやされ、大学の「解体」などという無責任で刹那的な破壊活動に狂奔した『全共闘』の記録ではなく、当時の文部省や大学の非民主的管理支配を打ち破り、真に大学の民主化を目指す学生、教職員達の記録であった。
2月28日に新聞紙上でK君の死去を知り、別離の覚悟はしていたものの、空しくも残念な思いがした。3月2日に通夜に参列し、その時に遺作の写真集の解説を担当しているGさんと話をした。26日の編集会議には奥さんに支えられながらも出版社で行った編集会議に参加しており、翌27日には体調の悪化を訴えて安静にしていたが、そのまま帰らぬ人となったとのこと。編集会議は最終のゲラの校正で、棺の中にはゲラ刷りの原稿を入れるとのこと。享年65歳。
3月7日には、A先生の訃報を知った。
A先生は一貫して『平和と民主主義』を貫き通し、学生を思い、大変真面目な研究者・教育者の道を歩んでこられた。一見近づきがたそうな雰囲気が無きにしも非ずだが、実は大変心配りをされる優しい先生だった。私は、国際分野で活躍を目指す大学院生や学生の進路先とのネットワーク構築の際にA先生と連絡し、協働させていただいた。
3月8日のお通夜への出席は適わず、9日の告別式に出席しお見送りをさせて頂いた。その時にご子息から伺った。A先生は、忙中に奥様との旅行を計画され楽しみにしておられたが、体調が悪くなり病院で受信されたところ、癌が発見されたとのこと。原発性の膵臓癌が全身に転移しており、手術は不可能で余命6ヶ月と宣告された。それでも授業があるといって大学へ行っておられる。抗癌剤治療等の闘病中も、学生や教え子のことを随分気にしておられ、学生たちとマルクスやエンゲルスの話しをされるときは大変嬉しそうだったとのこと。余命6ヶ月と宣告されながらも8ヶ月間頑張られて、ついに帰らぬ人となられたとのことだった。私はお別れにお棺の中に眠るA先生に花を捧げさせて頂き、そしてお見送りした。享年69歳。
K君、A先生と二人のかけがいの無い人を立て続けに失ったことは痛恨のことだ。しかもお二人とも癌に倒れた。憎むべき病である。私自身が1年4ヶ月前にはスキルス胃癌と闘った。幸い転移も無く順調に回復し、今では以前にもまして、そして意識して充実した生き方を突き進んでいる。何か以前よりも、フェードアウトするまでに『生きている証を刻んでおきたい』といった気持ちが強くなっているように思う。私自身のスキルス胃癌体験は、無事生還できたのだけれど、残された人生を確かに歩いていかなければ、かけがえの無いほどの損失を蒙る。自分のラッキーに感謝しつつ、残された人生を、大事に、丁寧に過ごしていこう、そんな思いが実感として沸々とこみ上げてくる。
(続く)
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