伊佐子のPetit Diary

何についても何の素養もない伊佐子の手前勝手な言いたい放題

野口みずきの引退

2016年04月16日 | スポーツ・体操
野口みずきは、京都にゆかりのある選手だった。
もともと京都(西京極だったらしい)で練習をしていて、
雨天時には三条商店街というアーケードのある所で練習をしていて、
その三条商店街には私は行ったことがないのだが、
そこの商店街の人たちは、
野口選手がそこを走ることをとても誇りに思っており、
野口の応援団も、そこに出来たということだった
(京都新聞の記事で知った)。

彼女がオリンピックでメダルを取った後も
京都の女子駅伝に出場していたようなことを覚えている。
引退会見をニュースで見たが、
その時京都を第二の故郷のように思っている、
というようなことを彼女が言っているのを聞いて、嬉しく思った。


私は、高橋尚子がきらいだった。
またこういうことを書くといろいろ物議を醸すかもしれないが、
私は好き嫌いがはっきりしていて、
特にメディアに出て来る人への好悪感情がとても激しい人間なのだ。
とにかく高橋は最初から好きになれない(今も)人だった。

確かシドニーで金メダルを取ったのだと思う。
その時、仕事場でライブで見ていて、
私が見たのはもう走り終わった後でインタビューの時かなんかだった。
高橋は走り終わったすぐあとだというのにしれっとしていて、
ニコニコしていて上機嫌だった。
日本女子で初めてのマラソンでの金メダル、
感動のゴールをしたならば、涙の一つも流して感動にむせび泣いて、
嗚咽を漏らして、こちらにも感動を与えてくれよ、
という気持ちを持った。
あの場面を見て、私、この人苦手かも…と思った。
なぜQちゃんとか愛称で呼ばれて人気があるのか全く理解できなかった。
容貌が可愛いとは全然思わなかった。
なぜ国民栄誉賞を受賞したのかも納得が出来なかった。


アテネの選考の時、高橋陣営のしたことは姑息だと思った。
だけど今考えると、戦略としてありだし、
正しいことだったと思うし、別に非難すべきことではなかった。
ただ戦略が裏目に出ただけだ。
高橋尚子は結局アテネに選ばれず、出場権を逃した。
それが結局、
トップランナーですら出場できないのかという印象になった。

私は、アテネに選ばれた3人の選手にひたすら頑張って欲しい、
と思った。
高橋を外したことが間違いではなかったということを証明してほしい、
という思いからだった。
その思いは、野口みずき選手が金を取ったことで叶った。
彼女がトップで走り終えた時、靴に口づけをして涙を流した時、
そう、こういう場面が見たいのよと思った。
野口も容貌が可愛いという選手ではなかったが、
メダルを手にした時は確かにキラキラと輝いているように見えたものだ。


野口が北京でオリンピック二連覇を目指すのは自然な流れだろうと思った。
その頃絶好調だったし、記録も作った。
今でも女子マラソンの放送の時、
ラップタイムの度に日本最高記録として
野口みずきの名前がテレビに映し出されると、私は誇らしさでいっぱいになる。
野口に二連覇して、高橋尚子を超えて欲しい、と思っていた。
高橋を抜いて、選手として高橋の上をいって、
高橋を超えた野口として名を残して欲しいと思った。

北京へ向けての練習風景がテレビで放送されたことがあったらしい。
私は見ていなかったのだが、母がそれを見ていて、あれはひどい、あ
んな練習をさせられてすごく可哀想だと母は言っていた。

そのころ、ラドクリフという強い選手がいて、
世界記録保持者で、数々のマラソン大会で優勝していた選手だった。
多分、野口はその選手を越えなければ優勝はないという思いで、
きつい練習に耐えていたのだろう。
おそらく、野口自身も、
オリンピック二連覇を成し遂げて高橋を超えたい、
という思いがあったのだと私は思う。
それが、失敗の原因だった。
その結果として、怪我による五輪棄権ということになってしまった。
皮肉なことに、北京ではラドクリフもメダルが取れなかった。
記録を作ったが、
彼女もオリンピックではメダルを取れなかった選手だった。

その後の野口選手は誰もが知る通り、
怪我がひびいて大した走りの出来ない選手になってしまった。
それでも、京都三条商店街では応援団幕を張り、
野口応援団を作り、野口選手の走る大会に駆けつけて応援を続けたという。
(これも京都新聞の記事で知った)
野口選手が神戸へ拠点を移してからもそれは変わらず、
応援を続け、商店街に大きな応援団幕を張り続けた。
三条商店街の人たちにとっては、
野口選手はいつもいつでも誇りであり、
彼らの変わらないヒロインであったのだろう。

野口が引退会見で、
京都の人たちへの感謝を述べて涙ぐんでいたのを見て、
喜ぶと同時に、彼女の人間臭さに打たれた。
それが高橋にはないものだった。
こうして晴れ晴れと会見をする場も設けてもらえて、
それなりに立派な選手人生だったのではないか。
高橋を超えることは出来なかったかもしれないけれど、
我々京都の人間にとっては忘れられない存在だ。

これからもちょこちょこと出て来るかもしれないですが
といたずらっぽく言っていたので、
メディアへの露出も或いはあるのかもしれない。
だとしたら少し楽しみだ。




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