去年の放送だからもうだいぶ前のことになるが…
途中まで書いて、投げ出していたもので、
何とか最後まで書いてみる。
日本で最高の映画監督、
黒澤明に関するテレビ放送された時のものだ。
NHK BS1スペシャルで2020年11月8日放送された、
「黒澤明映画はこう作られた~証言秘蔵映像からよみがえる制作現場」
もちろん録画しておいた。
黒澤の映画の撮影現場の秘蔵ビデオや、関係者の発言など、
多方面から黒澤映画と黒澤明という映画監督の映画作りを紐解いた
とても興味深い番組だった。
映画「乱」の制作現場の膨大なドキュメント映像が発見されたということで、
その映像が紹介され、演出現場の様子が流された。
黒澤の映画作りの壮絶さが、今さらながらにずしんと重く響いて来る、
映画に命を賭けた戦いとも言える、その現場を生々しく伝えていて、
かなり衝撃だった。
私が黒澤明を知ったころは時代が悪かった。
テレビが茶の間に普及し、日本映画が斜陽になり、客が入らなくなっていた。
日本の映画会社は赤字が続き、5社あった会社はつぶれたり、規模を縮小したり。
大映、東宝、松竹、東映、日活…、
大映はつぶれ、日活はロマンポルノに活路を見出していた頃。
当時の黒澤のイメージは、ワンマンで、独裁的な孤高の巨匠で、
日本映画界の頂点という感じだった。
同時に、我が儘で頑固で融通の利かない、きむづかしいおじさん、
というイメージでもあった。
三船敏郎と同様、偉くなりすぎて、周囲が気を使いすぎ、
裸の王様…というわけではないけれど、
誰も巨匠に逆らえない、暴走したとしても誰も止められない。
そんなイメージが出来上がっていた。
あの頃、アメリカ映画も(黒澤が好きな)西部劇がすたれ、
ニューシネマの暗い映画ばかりが作られていた頃だ。
時代の転換点で、クロサワは苦悩していた。
彼が映画を撮ることが難しくなって来ていた。
完全主義者で、思い通りの絵が撮れるまでは何日でも待つ。
雲が自分の自分の思い通りに空に現われるまで、
何日かかっても待つという伝説もあった。
それは事実だった。
そのような完璧主義の映画を撮るには、莫大な資金がいる。
それを出す映画会社やプロデューサーがいなくなっていた。
あの時代にはそのような映画作りはもう出来なかった。
私がクロサワと出会った時は、そのような、
今思うと彼がどん底の時だった。
「トラ!トラ!トラ!」の企画が失敗し、
黒澤が映画から降板、「どですかでん」はヒットせず…
黒澤が思うような映画が撮れず、苦悩している時だった。
そのため、当時は、クロサワの評価は必ずしも良いものではなかったが、
私が彼に対して畏敬の気持を持ったのは、
何十年もあと、劇場で上映されていた「七人の侍」を見た時だった。
あの一本のみで、クロサワに対する気持が180度変わった。
「きむづかしいおじさん」が真の天才だとやっと気がついたのだ。
あれのみでも彼の名は映画史に残る。
真の傑作。まごうことなき名作。
あれ一本しか作らなかったとしても、クロサワは評価されるべきだ。
そうしてクロサワが少し、私の方へ来てくれたのだ。
それ以降、黒澤は誰が何と言っても、
真に偉大な映画人だと確信した。
ドキュメント番組「黒澤明映画はこう作られた」では、
一本の映画を作り上げるのに、黒澤がいかに激しい情熱を傾け、
ありとあらゆる努力を重ね、可能性を探り、
脚本段階からひとつずつ根気よく、思い描く理想を形にしてゆくかが、
生々しく捉えられていた。
よほどの強い意志でなければ貫きとおせない。
妥協のない厳しい態度はスタッフに対しても容赦ない。
だが黒澤自身が「苦しみ、のたうち回りながら」映画を作る姿勢が、
彼らを服従させるのだろう。
黒澤映画の主役を務め続けた三船敏郎のインタビューが挿入されていた。
曰く、
「各人が自分で考えて来たものをそこでやってみてくれ、と。
そしてそこのところはこうした方がいいんじゃないか
というようなやり方ですからね。
だからやる方も大変勉強になるわけですよ。
本当に何か自分も考えていかなきゃならないし、
みんなで相談しながら高めていくという、
少しでも完全なものに近づけていくということでしょうね。
いつもなんか無色でいいわけですよね。
そのときバーっと全身でね、
それだけ考えたものを、自分の体を使って表現していかなきゃならない
というのが役者ですもんね。
それを要求するわけです」
そして黒澤映画に多く出た仲代達也のインタビューでの発言、
「黒澤さんの思い通りにならないと、ってことですよね。
三船さんという方は思い通りになった方ですね、きっと」
山崎努のインタビューでは
「毎日、毎日、瞬間、瞬間、楽しんで一生懸命やる。
するといつの間にか終わってるんだ、
そういうものなんだ」
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黒澤が三船敏郎を使い続けた理由(わけ)は分かる。
無色であり、黒澤の言う事をよく聞いた。
「影武者」で勝新太郎と折り合いが悪くなり、
勝が降板した理由も分かる。
お互い我が強く、どちらも譲らなかったのだろう。
が、黒澤はワンマンではあるが、
「乱」の制作現場の映像を見れば、
あれほどの膨大なエキストラや、現場で働くスタッフの多くの人々を、
一つにまとめ、思い描く画を撮るには、よほどのリーダーシップ、
皆を一つの目的に引っ張ってゆく、強力な強い意志の人物でなければ、
その場で、その画をを完成されたものに導くことは出来ないだろう。
むしろワンマンでなければ、現場を統括することは出来ないのだ、と
思った。
その上で三船が言うように、
「自分も考えていかなきゃならないし、
みんなで相談しながら高めていくという、
少しでも完全なものに近づけていくということ」を黒澤は求め続けた。
黒澤は自分のビジョンの中に、自分の頭の中に理想の映画、
理想の映像がすでに出来上がっていて、
それを現実化することを求めた。
いかに自分の心の中にあるものを映像化するか。
そのため、俳優のみならず、スタッフ、または使用する動物や、
背景の太陽などにまで、自分のビジョンが満足のいく映像に出来上がるまで、
辛抱強く、そしてのたうち回りながら、
理想に近づけてゆく努力を惜しまなかった。
自分の映画は自分の表現である。
それは自分が最大限の責任を伴うもの、
だから彼はつねに、いかなる時も完全なるものを求め続けた。
それは一人の芸術家、表現者ということだ。
黒澤は映画監督という、紛れもない芸術家であったのだ。
彼は絵が描けた。
だから絵コンテも一つの絵として成立しているほどだ。
芸術家であることにはまったく疑いがない。
彼は単なる独裁者ではなかった。
大量のスタッフや俳優を使いこなしながら、
少しでも理想の形、自分の名前と責任において、
完全なものを完成させたかった。
黒澤の理想の映像を実現させるには、
いつの間にか膨大な費用が必要になって来た。
それを当時の日本映画界が都合出来なかったことは不幸なことである。
黒澤映画はお金ばかりかかるというイメージがついてしまったし、
事実黒澤に出資する日本映画界はなかった。
「夢」はルーカス・スピルバーグのプロデュースだった。
日本では出資者がいなかったからだ。
それでもなお、黒澤のように、大量のスタッフを捌き、
ひとつの作品として纏め上げる才能は滅多にいない。
大作であり、一刻も目を離すことの出来ない娯楽作品でもあり、
芸術でもある、そんな作品を強い、確固たる意志で
作り上げることの出来る人物は、黒澤以外に思いつかないのだ。
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