静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

プリニウス つれづれ (7)エッセネびととヤシの木

2016-10-24 20:20:50 | 日記

]       <「Z8 エッセネびと プリニウス随想(8))」の改訂版>

 

                    (一)(死海のほとり

                    (二)ユダヤ戦争

                                                         (三)ナツメヤシを唯一の友として    

                    (四)人の生と死 

 

(一)死海のほとり

 

死海に浮かぶ

 ヨルダンにある死海は独特の魅力を持つ観光地だ。かつて死海に遊んだとき、同行のU氏は一冊の書とパラソルを携えて水辺に降りてきた。昔、教科書に、死海の水に浮かびながら本を読んでいる人の写真が載っていた、前からそれをやりたかったのだという。左手にパラソル右手に本を持ち、バランスを取るのに若干苦労したが見事成功。岸辺の観光客は拍手喝采。Uさんはほんとうに嬉しそうだった。その日は空も晴れて・・・晴れて当然だが、空気も澄み・・・これも当然、気分のいい日だった。湖面に浮かんで西の方を眺めると、昔ユダヤ人が城塞を築いて抵抗したマサダの峰が望見できる。クムラン洞窟(後出)のある丘も見える。昔、湖畔に繁茂していたナツメヤシの樹影は見当たらない。今この地は、野菜や果物が豊富に採れる豊かな地だという。二千年前、この死海の様子はどうだったろう。

 

ヨルダン河の水源は、後に述べるカエサレアがそのまたの名をそれからとっているパニアスの泉である。それは心地よい流れで、その地方の流れが許すかぎり蛇行して、両岸に住む人々のご用をつとめ、あたかも、あの陰鬱な湖、死海(アスファルティテス湖)へと進んで行くのがいやでたまらぬというふうであるが、ついにそれに呑み込まれ、いたく賞揚されたその水はその湖の有毒な水に混入して姿を消してしまう(『博物誌』)。

 

 さらに次のような記述が続いている・・・死海の唯一の産物は瀝青で、そのギリシア語が、この湖がアスファルティテスというギリシア名をもつ所以である。湖水の中ではウシやラクダなどの動物も沈まない。沿岸にカリエロという医療価値のある温泉がある。死海の西側の沿岸の「毒気地帯」の外部に孤独な種族のエッセネ族が住んでいる。これは全世界の他のすべての種族以上に珍しい種族だ・・・。

濃い塩水が「有毒な水」であるというのも合点がいかないが、この「毒気地帯」が何を意味するかも不明で、今日でも議論がある。その死海の西海岸に沿って不毛の山岳地帯が連なっている。その北の方の湖岸から少し離れたところで”世紀の発見“という事件が起きた。

 

クムランの洞窟 
 第二次大戦後、国連での、アメリカ合衆国主導のパレスチナ分割案の採択によって、この地でのユダヤ人による建国が承認された。一九四七年一一月のことである。欧米列強の新型支配の始まりである。第一次中東戦争が始まったのはこの直後であるが、その前からすでにユダヤ人とパレスチナ人の対立が激化していた。そういう情勢の中で、その年の春、死海西岸の断崖にある洞窟で、ベドウィン族の少年が偶然亜麻布にくるまれた巻物を発見した。この洞窟はそのあたりの地名クムランから、クムラン洞窟と呼ばれている。それ以後もこの近くの洞窟から写本が続々と発見された。

 一括して「死海文書」と呼ばれるようになったこれらの大量の写本は、聖書の各書、外典書、宗団の文書などであることが分かり、世界に大きな衝撃を与えた。聖書やキリスト教の由来について大論争を巻き起こすことになる。
 そしてさらに一九五一年、このクムラン洞窟のある断崖と死海の間の海岸で、埋もれていた古い石造建造物や墓地などが発掘されたのである。調査の結果、石造建造物の方はいわゆるエッセネの人々の住居跡であったことが判明した。

 その後も遺跡の発掘は続けられ、それに伴い数多くの研究書も世に出た。発見された書類には未公開の部分もあって全貌が明らかになったとは言えないらしい。門外漢の筆者には深い霧の向うであり、言えることは何もない。このエッセネに関して伝えている人物は何人もいるが、主要な資料を残したのはユダヤの歴史家ヨセフス(23―79)、同じくユダヤ人哲学者フィロン(前30頃―後45頃)、そしてプリニウス(23<24>-79)である。

 

ヨセフスによるエッセネ

ヨセフスは『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』でエッセネについて相当詳しく述べている。それによると、ユダヤ人の間には三つの形の哲学があり、第一の派の者はパリサイびと、第二の派の者はサドカイびと、第三の派の者はエッセネびとと呼ばれる。最後にあげた派はもっとも高い聖性を目指して訓練するという評判である。翻訳者の秦剛平氏によると「哲学」は宗派のことである。だから一般には「エッセネ派」というように呼ぶし、ユダヤ教の一宗派と見なされている。『ユダヤ戦記』の執筆は後七五年頃から八一年頃まで、『ユダヤ古代史』の完成は九三年から九四年頃、いずれもプリニウスの『博物誌』の完成(七七年)の後である。

 ヨセフスの『戦記』では次のように書いてある。エッセネびとはユダヤ民族の者である。快楽を悪として退け、自制につとめ、情欲に溺れないことを徳とする。結婚は軽蔑するが、他人の子を引き取り、自分たちの慣習で型にはめる。結婚やそれによる後継者作りを非難しないが、奔放な性から我が身を守ろうとする。富を軽蔑する。財産は共有である。自分の所有物を全員のものにする規定がある。エッセネびとは一つの町に住んでいるのではなく、どの町にも大勢いる・・・。そして、エッセネびとの一日の生活ぶりが丁寧に描かれている・・・たとえば用便のために各自のスコップで穴を掘ってそこで用を足すなど・・・だがそれは省略する。

 『古代誌』は『戦記』と少し違う。いっさいのことを神の手に委ねる。霊魂を不滅のものと見なす。神の義に向って一歩でも近づくよう努力する。一般の人びととは異なる清めの儀式で犠牲を捧げる。ひたすら農事にのみ励む。財産は同志と共有する。その共同生活の中に妻を伴うことはなく、奴隷を所有することもない。手ずから働き、人のいやがる卑しい仕事も交代でおこなう。


プリニウスによるエッセネ族
 プリニウスはエッセネをgens=種族としていて、ロエブの英訳版でもtribe(種族・部族)と訳している。プリニウスはヨセフスと違って、エッセネをユダヤ民族に属するともユダヤ教の一宗派であるとも言っていない。人種・民族・宗教には全く触れていない。そしていう、
 

彼らは婦人というものをもたず、すべての性欲を絶ち、金銭を持たず、ただヤシの木だけを友として(socia palmarum)いる・・・日々、人生に疲れ、運命の波によってそこに追いやられた人々が多数、彼らの生き方を生きようと加わってくるので住民が補充され、同じ数を保っている。このように、何千年という年月―こんなことを言っても信じ難いことだが―、一人も生まれてこないのに一種族が永久に存続するのだ

 

 (二)ユダヤ戦争

 

プリニウスとヨセフス
 ローマ皇帝ネロの統治の晩年の六六年にユダヤ人が反乱し、いわゆるユダヤ戦争が始まった。その原因や戦争の経緯についてはヨセフスの『ユダヤ戦記』に詳しい。中国の『史記』や『三国志』を思い出させるところがある。ウェスパシアヌスは長子ティトゥスとともに六七年、大軍を率いてガリラヤに進軍してその地の反乱を鎮圧、六九年にウェスパシアヌスが帝位についてからはティトゥスが代わってローマ軍の指揮をとり、七〇年にはエルサレムを包囲し、半年の攻防戦のすえ攻略した。
 このイスラエル攻略の軍団にティベリウス・ユリウス・アレクサンデルという指揮官がおり、ドイツの歴史学者モムゼンによるとプリニウスはその副官であったという。
このアレクサンデルは、ユダヤの名門の出であり、先ほど述べたユダヤ人哲学者フィロンの甥で、ユダヤの皇帝代官、エジプトの総督を勤めた人物である。つまり、ローマの高官であったこの人物は、ユダヤ人でありながら、ローマのユダヤ反乱鎮圧軍の指揮官を勤めたことになる。彼はウェスパシアヌス帝の擁立にも功績があったといわれる。

このプリニウスに関するモムゼン説には異論があり、プリニウスがアレクサンデルの副官であったというのも確実ではない。プリニウスがティトゥスとテント仲間(戦友)であったことは知られているが、どこの戦場でであったかははっきりしない。ユダヤ戦争でと考えられないでもない。『博物誌』の中で、ユダヤに関する直接的経験に基づくと思われるような記述が多いことも、ユダヤ遠征に加わったことの裏づけとされている。だが彼は、ユダヤについて書いてはいるが、ユダヤ教やキリスト教についてはまったく触れていない。それなのに、エッセネ族については上掲のような短いが印象的な文章を残した。

一方ヨセフスの方だが、彼はユダヤ戦争のおりユダヤ方の指揮官としてガリラヤの町ヨタパタを死守しウェスパシニア軍を苦しめたが捕縛された。だが六九年ウェスパシアヌスが皇帝に推戴されるとすぐ釈放された。彼が、ウェスパシアヌスの即位を予言したからだという。以後ヨセフスはローマ軍に奉仕する。エルサレム攻撃のときに司令官ティトゥスに助言をしたり、エルサレム陥落の現場にも立ち会ったりしている。戦後もウェスパシアヌスやティトウスに保護・優遇され宮中に出入りしていたから、当然プリニウスとは面識はあっただろうし、語り合ったこともあろう。しかし『ユダヤ戦記』の完成はプリニウスの死後なのでプリニウスはそれを読んではいない。


 エッセネびとの共同生活

 ヨセフスはユダヤの名門の出だからユダヤに詳しいことは当然である。逆にプリニウスに曖昧さが残る。だが彼の記述にも有力な手がかりがある。それはエッセネ族の居住地である。先ほども述べたがそれは死海の西岸で、岸辺から少し離れたところにある。そして彼は以下のように述べている。そこから南へ行けば肥沃な土地とエンディゲの町があった。そこではエルサレムに次いで豊かにヤシが生い茂るところだったが、今はエルサレム同様死の灰の山にすぎない。そして、さらに南下すると岩の上の城砦マサダが死海から遠くないところにあると書いている。

このプリニウスの叙述は、後世の人たちに深い印象・感慨を与えた。たとえば『ローマ帝国興亡史』の著者ギボンは、「プリニウスの哲学的な眼は、死海のほとり椰子の木々の間に住むこの孤独な人々を驚きの念で眺めた」(朱牟田夏雄訳)と記した。
 プリニウスの記述にはあいまいな点も多いのだが、後世の人が感銘を受けるのは、その事実よりも、プリニウスの人生観を反映したようなその文章の茫洋さであったかもしれない。「金銭をもたず、ただヤシの木だけを友とし」という一節はとくに印象深かったのかもしれない。

 このように修道僧のような暮らしをしていたエッセネ族の人たちは、一切の私有財産・私物もない共同生活をしていたので、内部的には貨幣は必要なかったのだが、教団として外部と折衝するためには貨幣も必要だったのだろう。発見された貨幣と周囲の状況によって、この建物は紀元六八年に戦火に見舞われたと考えられている。つまり、エッセネの人々はこの年、ローマ軍と戦い敗れて消息を絶ったと考えられる。この年、ガリラヤに進軍したウェスパシアヌスが死海を訪れたという記録がある。したがってクムランにも来ている可能性がある。
 プリニウスが、岩の上に城砦があると記したマサダは、六六年に駐留ローマ軍を撃破してユダヤ人約千人が立てこもり、エルサレム陥落(七〇年)後も三年間ローマ軍に激しく抵抗し、ようやく七二年に滅ぼされたところである。だがプリニウスは城砦があると書いているだけである。

 

(三)ナツメヤシを唯一の友として

 

 先ほどのギボンの「椰子の木々の間に住む」の椰子はラテン語でいうpalmaである。英語ではpalmでヤシ科植物の総称らしい。日本語でもヤシはヤシ科の総称とされている。だからココヤシもナツメヤシも、またシュロもそこに入れている。「遠き島より流れ寄る椰子の実一つ」の椰子はココヤシである。ココヤシは主に太平洋上の島嶼などに生育し、その果実は直径三〇センチほどにもなる。表皮は硬く海流に乗って漂流もする。シュロは中国大陸やその周辺に多く生育している。日本では普通に見受ける樹木であるであって珍しくない。

 『博物誌』でいうpalma はナツメヤシである。地中海周辺の温かい地に自生する。ナツメヤシの果実は、昔から主要な食品とされてきた。聖書の生命の樹のモデルもこの木だという。もっと古くでは、ホメロスもとりあげている。帰国の途中、難船してスケリアの島に打ち上げられたオデュッセイアは乙女ナウシカアに出会う。そして、「その昔デーロスでこれに匹敵するものを見たことがある。それはアポローンの祭壇のそば近くにすくすくと生え出た椰子の若木です」と彼女に話しかける。そして、「いまだかってこのように立派な若木が地の中から生え出たことはなかったので、それを見た時、長い間わたくしは驚嘆していたが、同じように、あなたを見て・・・」(『オデュッセイア』第六巻、高津春繁訳)と続くのである。数多くホメロスを援用しているプリニウスがこの話を知らないはずはない。

 クセノフォン(前四三〇頃―三四五)の『アナバシス』にもナツメヤシの話が出てくる。クレアルコス率いる部隊が、増水した川を渡るためナツメヤシで仮の橋を作ったことや、進軍途中のあるでの椰子酒、椰子の実を煮て作った酢、食品としてのナツメヤシの実の話などである。ヘロドトスもすでに「(バビロンの)平野にはいたるところ棗椰子(ナツメヤシ)が生えており、その大部分は実を結び、彼らは木の実から食物や酒や蜜を作る」と書いていた(『歴史・第一巻、松平訳』)。

元来ナツメヤシの葉はいろいろに利用されてきた。プリニウスによると、アレクサンドロス大王がエジプトのアレキサンドリアを建設したときまで、この葉に文字を書いていたという。プルタルコス(46頃―120以後)はこの葉が冠に用いられたいう(プルタルコス『食卓歓談集』、柳沼訳はシュロとしているがすべてナツメヤシにした)。また実については、プリニウスは、このナツメヤシはヨーロッパ、イタリアやスパニアの沿岸部にもあるが、気温が低いので実がならないか、実を結んでも熟さない、地中海沿岸の本当に暑い国にだけ実を結ぶと指摘している。『食卓歓談集』でも、ギリシアのナアツメヤシの実はガリガリのままだから食べられないが、シリアやエジプトのものは見て楽しく、干した果物の中でこれほどうまいものはないと書かれている。さらにプルタルコスは、作中人物のテオンの言葉として「バビュロニア人は、この木は彼らに三百六十通りの仕方で役に立ってくれると称賛の歌を献じているが、我々ギリシア人にとってはこの木はおよそ役に立たない。しかし、この木に実がならないということも、体育の哲学でも考えるなら役にたつだろう」

ファーブルは、「ナツメヤシは雌雄異株の植物で、その実はアラビア人の主要食物である。砂漠の中の、水に恵まれ土地に生育する。アラビア人は雌株の木だけを植える。花盛りの時期になると、彼らは雄株の花粉を採るためにどこまでも出かけて行く」(『科学物語』)などと書いている。エッセネ人も同じようなことをしていたのだろう。

プリニウスは、ナツメヤシの栽培法やその種類・性質などを多岐にわたって説明している。幹は建材や用材としてはもちろん、燃料として、あるいは木炭の原料にもなる。葉は漆喰の代わりに壁の材料に、また編み物細工用などに用いられる。果汁は品種や栽培地などによって味も用途も多様である。酒造の原料にする地方ある。果汁の少ない椰子の実を乾燥させて粉に挽きパンを作たりする。もちろん果肉は食用である。彼はナツメヤシの種類は四九もあるという。中でも著名なのがユダヤのヤシで、香料のための軟膏作りに最適であり、また、果実がいちばん長持ちする種類だという。このように多様な用途をもち、日常生活に欠かせないナツメヤシだからこそ唯一の友だったのだろう。なお、友を意味するsocia には、女友達、女の仲間、女の配偶者の意もあったらしい。

 

(四)人の生と死

 

生きること

ヨセフスはユダヤ教の信者である。ローマ帝国は個人の信仰については自由に任せている。ローマ軍に降服したからといって信仰を変える必要はない。当時のローマでは人間の頭数ほどの神がいたとも言われた。人々は自分の好きな神々を礼拝する。 二千年ほど前のプリニウスは無神論者だと思われている。「人間にとって、人間を助けることが神である」という言葉はプリニウスよるものとしてよく知られている。彼は、神というものは人間の弱さや無知による産物に過ぎないといって、その論拠をいろいろ書き並べた。だから彼はローマの神々もユダヤ教の神もキリスト教の神も、そしてまた霊魂の存在も信じなかった。彼が霊魂について語った一節はいろいろな書が引いているが、長いからその最後の方の一部を引く。「霊魂は天上界にあって感覚を保持しており、幽鬼は下界に留まるなどということが事実だとしたら、同時代の人びとにはどんな安息が得られるというのか。たしかに、この甘美ではあるが軽々しい想像は自然の主要な恵みである死を打ち壊し、死に臨んでいる人に、今後にも来るべき悲しみまで考えて悲哀を倍加させるのだ」。

このようにプリニウスは、ヨセフスが説明しているような、霊魂が永遠に存在するとか一切を神の手に委ねるというエッセネびとの思想は無視している。真正面から批判することもなかった。それだけでなくエッセネびとの種族・民族とのかかわりにも全く言及しなかった。述べていることは、私有財産はなく共同生活を送り、女性との交わりを拒否し、人生に疲れ運命に追いやられた人々が参入することによって構成員の数が維持されているということだけである。そこに焦点を合わせた記述である。彼は『博物誌』の真の主題は「生命」であるといっていた。特に人間の生命は最重要な主題だったろう。

彼はしばしば幻想的な話をする。たとえば、アフリカの内陸部に住む、人類の文明の水準以下に落ち込んでしまっているアトランテス族の話、言語も持たない穴居族の話など・・・これらはみなヘロドトスなど他人の話の受け売りであり、いい加減な話ではある。いい加減な話だとわかっていてそれを書いたのだろう。
 黒海の北の極北に住むヒュペルボレア人といわれる人々のことも書いている。彼らは不和とか悲しみを知らず非常に長寿だ。生に飽きると最後のご馳走を食べ、高い岩から飛び下りる。これは古くからギリシアに伝わる伝説であり、プリニウスはその出典も示している。

彼はまた、貨幣を持たず物々交換で暮らしているセレスの人たちのことを書いた。タプロバネ(スリランカ)については原始共同体の名残のある素朴な王政について描いた。また、北ドイツの北海に面した低地でささやかな漁業に従事するカウキ族というゲルマン人の生活を描いた。カウキ族ローマ帝国の支配に屈することを潔とせず、貧しくても誇り高い共同体の生活を送っている。これはプリニウス直接の見聞だ。
 エッセネ派についてのプリニウスの記述が相当あいまいだということは前にも述べた。だが故意に曖昧にしているのかもしれない。彼のように多くの情報源を持った人間にしては不可思議なことだ。彼はエッセネ人たちにベールを被せたのだろうか。日々の生活に疲れた人たち、運命にもてあそばされた人たちがやってきて、そのため何千年という年月にもわたって住民が補充されてきたなど誰が信じよう。プリニウス自身が、「こんなことを言っても信じがたいことだが」と書いていたように、ほんとうは彼自身が信じてはいなかったに違いない。だが、言いたいことを書こうと思ったのだ。

アキレウスのウマ

一九世紀の人ハイネは次のように述べているそうだ。「死ぬほうが生きるよりましであり、いちばんよいのは生まれてこなかったことである」と。だが、そういうことを言った人はたくさんいるに違いない。まずプリニウスはこのようにいう。人間のたった一つの過ちは生まれてきたということである。だから、受罰をもってその生涯を始める。人間は裸のままで生まれてきて、生まれるやいなや大泣きする。他の動物にそんな泣き虫はいない。そして、手足を邪魔もの(衣類など)に包まれて泣きながら横たわっているだけだ。・・・こんな出発をしながら、自分たちは誇りある地位に生まれてきたのだなどと考える者がいるとは、なんたるたわけたことだろう!人間は教育によらなければ何一つ知らない。ものを言うすべも、歩くすべも、食べるすべも知らない。生まれながらできる本能といえば泣くことだけだ。従って、生まれてこなければよかったとか、できるだけ早くこの世からおさらばした方がいいと信じた人々も多かったのだ・・・と。

たしかに、生まれてこなければ死の恐怖もなく、病気もなく、貧困もなく、人生を悩んだり不幸と感じたりすることもないのだ・・・共感者の多いことも頷ける。

トロイア勢と戦って討ち死したアテナイの将パトロクロスの死を、涙を流して悲しむアキレイスの馬たちを見ながらゼウスは、この不老不死の馬たちを死ぬべき運命にあるペレウスに贈ってしまったといって嘆くのである。そして、この地上で呼吸し、うごめいているありとあらゆる生類の中でも、人間ほど哀れで惨めなものはないと思うのであった(『イリアス』一七―446)。

ハイネは確かに短命だった。しかし彼の文章や詩はいかに多くの人に慰めや勇気を与えてくれたことか。プリニウスは死の間際まで人を救い自然の真実を探ることに自分自身をささげた。不死の馬たちが流す涙は、死を知らない自分たちの悲しみの涙であるかもしれない。