静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

自誌(1) 白いノート

2011-12-21 19:50:50 | 日記

(一)一人一人の足跡を
 となりまちの知人がその地域の九条の会の世話役をしている。先日その知人から、
その会が出した『私たちの戦争体験』という手作りの文集を頂いた。
 九条の会は、いま全国で7000とか8000とかできているそうだ。それぞれの地域で勝
手に作っているらしい。全国組織や支部とかもなく、保守も革新もないという。
 50頁余りのこの文集には二十数人が書いている。読むと、どの文にも胸が詰ま
る。これに比べる私の書いているブログなどカスみたいなものだ。
 戦後66年、戦争の体験を綴った人たちとその作品は厖大な量にのぼるだろう。そ
して今後もまだ書き継がれていくに違いない。そこへ福島原発の事故への多くの人の
発言が加わる。ずっと前になるが色川大吉は「今こそこの激動の歴史を生き抜いた民
衆一人一人に、自分のかけがえのない経験を、それぞれの足跡を書いて欲しいとおも
う」と書いた(『ある昭和史-自分史の試み』1978 )。この訴えは平成の今日でも
有効だ。

(二)白いノート
 1946年2月23日、初めて日記をつけた。その日のを半分ほどに端折ってのせる。
 「曇り時々晴。今日は休日だと思って寝坊する。午前中何もできなかった。昼食に
小麦粉で『べた焼き』を作って食べる。午後、(英語の)『コロンブスの課』全部訳
し終わる。夕食後課外の英語をしようと思ったが寒かったりして、しなかった。9時
ころ就寝。遂に中等学校五年制に復帰したと新聞は報道している」。
 まことにつまらぬ愚劣な内容である。
 この半年ほど前の1945年8月15日、学徒動員されていたH町の軍需工場で終戦を迎
えた。T中学4年生のときである。校舎は空襲で消失、少し離れたところにあった商
業学校は無事で、そこに間借りし、午前・午後に分かれての二部授業。この二校は川
を越えた広い松林の中にあったが、市街地はほぼ全滅。
 ある日親しい友人のU君との帰り道、松林の中に小さな神社? 祠?があって、そ
の傍の草むらに真新しいノートが落ちていた。まっさらな白い立派なノートである。
今からみればお粗末なものだったろうが、そのときは輝いて見えた。U君と取り合い
になった。「オレの方が先に見つけた!」と言い合った。U君の家は家老の子孫だそ
うである。数回訪れたことがある。シーンと静まりかえっていて、どこまで部屋が続
いているのか分からなかった。この家ももちろん灰になった。私の家は、といっても
借家だが、港の傍にあって強制立ち退きに遭い、隣村の小さなお寺に疎開したので、
家族も家財道具も助かった。港のあたりの家はみんな何本かの太い縄をかけて引っ張
られてあっけなく倒された。こんなに簡単に家が壊れるとは思いもよらなかった。あ
らかじめ主な柱はのこぎりで斬ってあったのかもしれない。それはそれとして、U君
にとってノートの必要性は私などの比ではない。私にはそのことが分からなかったの
で自己主張をした。結局私はU君の気迫に圧されてノートを渡した。
 なぜあんなところに新品のノートが落ちていたか、今でもわからない。きっと神様
がそっと置いてくれたのだろう。
 その頃の紙不足はひどいものだった。学校では、海軍の通信用紙、ペナペナの薄っ
ぺらな紙に必要事項を書く枠などが印刷されている、その通信用紙の裏を使って通信
簿を作った。今でもこれを持っている。これは私のお宝である。
 授業で使うノートは一冊3円で3冊買ったと記録してある。拾ったノートとは比べ
ものにならない薄っぺらでヘナヘナの帳面、それでも当時としてはとても高価(風呂
代45銭、授業料6円、雑誌「改造」5円)。だから日記帳買う金まではない。日記
をつけようと考えたのは地理のS先生の勧めによる。日記帳をどうしようと考えてい
るうちに日が経った。あれこれ探した結果、父の蔵書や書類の間に古い「昭和十年 
当用日記」というのを発見した。国民出版社刊である。縦17センチ、横9・5セン
チ、厚さ2・2センチのもの。2月22日までの頁には父の落書きがあってその後が
空白。父にないしょに引っ張り出して、2月23日が来るのを待って書き始めた。そ
れが上に書いた日記の始まりである。父には最後までそのことは言わなかった。この
日記帳も私のお宝である。

(三)教養と野蛮
 学校の帰り、橋の欄干にもたれて米兵二三人が、片手に何か飲み物のびんを持ち、
片手のパンを噛っていた。多分コーラだったのだろう。その米兵と目が合った。生ま
れて初めて青い目を見た。ちょっと体が引けそうになった。
 彼らは狭い道路を傍若無人にジープを走らせる。人々はバッタが飛び散るように軒
下に逃げ込む。歩いている人の後ろに迫って急ブレーキをかける。ジープの性能には
驚いたが、背中のところでブレーキをかけられた人は生きた心地がしない。私が最初
に見たアメリカ兵というものはそんなものだった。
 学校の先生は民主主義になったのだという。なるほど、これが民主主義か・・・。
 少し後の話になるが、中学を卒業してK市に住んだ。珍しく空襲に遭わなかった中
都市である。米軍がこれはと思う家を接収して、将校か兵士かは知らないが住んだ。
生活習慣が違うので、畳にカーペットのようなものを敷いて土足で上がるのはまあ我
慢しよう。しかし、床の間の柱はもちろん木材建材の部分は大方ペンキを塗ってしま
った。それを見てなんて野蛮な奴らと思ったことははっきり覚えている。なぜそんな
ことを知っているか?その家の改造のアルバイトにいったからである。
 立ち食い立ち飲みも、日本人の生活習慣にはなかったことだ。あのときはなんと行
儀の悪いと思っただけだったが、ペンキの件で、アメリカ兵は、というよりはアメリ
カ人は野蛮だと感じた。もっとも彼らは、われわれを野蛮と思っていたのだろう、ペ
ンキを塗ることも知らないと。マッカーサーは日本人の知能は12歳と言った。

(四)八月十五日
 前に書いたように8月15日はH町の小さな工場で迎えた。東京から疎開してきた軍
需工場だった。われわれ中学生はそこのお手伝い。「玉音放送」を聞いたあと、奇妙
な時間帯が過ぎてゆく。午後の始業時間が来ても機械は動かない、モーターの音も聞
こえない、静かな午後。為すこともなく椅子に座って空(くう)を見つめていた。も
っとも、もう前から仕事は極端に減っていたのだが。検査室で働いていた同級生は6
人くらいだったが、検査室次長のAさんに呼ばれて隅のテーブルに座った。彼はこう
言う。これからは日本を自由主義と民主主義の国にするそうだ。女は山に逃げた方が
いい。自由主義とは、誰でも自分の好きなことを勝手気ままにやることだ。他人の奥
さんも、自分の奥さんも区別がつかなくなる。民主主義とは天皇制をやめることだ。
アメリカのように天皇はなくなるだろう。今の天皇は責任を負って処刑されるだろう
・・・。
 この日の午後は仕事なしに終わった。検査室長のSさんは皆を集めて挨拶した。私
たちは起立して話を聞いた。Sさんがこのように改まって話をするのはこれが最初で
最後になった。そしてこう述べた。
 残念ながら日本は敗北した。しかし、20年後30年後には必ず立ち直ってこの仇
を討とうではないか。そして特に私たち中学生に向って、20年・30年後の日本を
再建するのは君たちだ、しっかりやってくださいと。
 Sさんは仕事が減って暇な時には、われわれに数学や漢詩などを教えてくれた。教
え方がとても上手だった。私はどうせみんな死ぬのだから今さら勉強してどうなると
いう気持ちだったが、彼は違った。勉強しておかなければ駄目だと繰り返し言ってい
た。
 私はとうてい仇を討つなどということは出来ないと思った。しかし、このSさんの
最後の挨拶、日頃柔和なSさんのその時の厳しい顔つきと、確信を持った語調に一種
の感動を覚えた。それは、あの勉強のことといい、未来への展望と信念をもつ人への
畏敬の念でもあった。

(五)何がめでたい?
 それからほぼ半年後の1946年2月1日、毎日新聞が政府の憲法草案(松本案)をス
クープした。天皇大権を認めた草案、明治憲法とほとんど違わない憲法案だった。そ
の頃発表された民間や各政党の憲法草案のほとんどが(私の知る限り二つを除いて)
天皇制維持案だった。あの8月15日のA主任の天皇処刑論・廃止論などどこに行った
のだろうと思った。2月13日、ホイットニー民政局長は日本政府に総司令部案を手
交した。
 3月6日、政府は松本案とまるっきり違う、象徴天皇制、戦争放棄をうたった憲法
草案を発表、なんだか訳の分からぬ成り行きであった。私の日記は2月23日から始
まっているから、一言くらい書いてあってもいいのに、何もない。ただその前日3月
5日にこう書いてある。「今日の新聞に、天皇制の決定を、今度の総選挙のときに一
緒に、人民投票によって決めるらしいということが書いてあった」。ここでいう新聞
とは「朝日新聞」のことである。この記事は何だったのだろう、その後、それは話題
にもなっていない。
 マッカーサー憲法といわれたり、平和憲法といわれたり、昭和憲法といわれたりす
る現行憲法の草案発表が全国に大きな衝撃を与えたことは事実である。私は何も感想
を書いていないが、そのとき感じたことは今でも覚えている。8月15日以来天皇制
は廃止だと思っていたので、これは意外。その当時武装解除して日本には軍隊がなか
ったので、戦争放棄は当然、なんら騒ぐことはない・・・そういう気持ちだった。
 この年の11月3日、日本国憲法公布。日記によると、この日、晴ときどき曇り。
9時半から講堂で校長の話の後、講演会が行われた。講演会というのは生徒が順に演
壇にたって演説することである。弁論大会みたいなものである。この日演壇に立った
のは7人。日記にはこうある「憲法発布(注:今は公布といっている)で何がうれし
いのか。町では提灯を飾ったり、園芸会をやったり、運動会やったり。明日は休日・
・・」
 だが、教師からも生徒からも、私の知る限り、めでたいとか嬉しいとかいう声は聞
かなかった。その雰囲気が上の短い文章に反映している。
 
(六)「御真影」
 T市の空襲で私の中学が消失したのは終戦一か月ほど前。当時私の父は女学校の校
長をしていた。空襲が激しくなり父は学校に泊まりこむようになった。その夜、父は
「御真影」を抱いて、雨と降る焼夷弾の下をかいくぐりながら学校の裏手にある水田
に逃れて一夜を明かした。学校の近くに住む4年生のYさんとNさんは警戒警報とと
もに奉安殿の守りにつくことになっていたが、彼女らも一緒だった。Nさんはこの日
の爆撃で大火傷を負い、後日亡くなられたという。
 戦後、天皇は軍服を背広に着替え、中折れ帽をかぶって全国を巡行した。この地に
天皇が来たとき、父もT市の教育界の代表の一人として天皇に会いに行くことになっ
た。まちでは全く見かけなくなっていた黒の革の短靴を、苦労してどこからか借りて
きた。その日の朝、その靴をはき、二年前、命がけで守った写真のその人、まかりま
ちがえば父の命を奪い、私たち一家を路頭に迷わせることになったあの一枚の写真の
人に会いに行く、その父のうしろ姿を、私たちは、疎開先の小さい寺の縁側に立って
見送った。