中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

昔の北京の商店の看板(2)

2024年05月11日 | 中国文化
万宝号酒店
清代の酒店には招牌があり、入口の庇(ひさし)の下に酒瓢箪の形の形象幌がぶら下がっていた。1940年代初めの万宝号酒店は、店名を墻招(壁に直接看板を取りつけたもの)の形で入口の壁面の上方に施した。「遠年花雕」(年代物の花雕酒(紹興酒))と扱っている酒の種類と品質を表示した。

看板の種類

 招幌は商業の標識となり、これにより店舗が扱う商品の種類やサービスの内容を明示した。世に言う三百六十行(昔の各業種の総称)には、どの業種にも自らの特定の招幌があった。こうした招幌の形態はそれぞれ異なっていた。幌子について言えば、主に形象幌、標示幌、文字幌の三種類に分けられた。形象幌は多くが実物や実物模型、図絵で表示した。 標示幌は主に旗と行燈である。文字幌は簡単な文字で扱う商品の宣伝をした。


焼酒舗幌子
酒瓢箪を幌子とするのは典型的な形象幌である。清代の京西、京東の焼鍋(コウリャンを醸造して作った白酒)は、紹興の黄酒に比べ刺激性が強かった。一般の小酒店で白酒を売る店を俗に焼酒舗と言った。瓢箪の形を幌子にするのは古人の習慣を踏襲し、酒を売り出す時に酒瓢箪をぶら下げ、酒が売り切れるとそれを取り外した。

 実物幌は、最も古い商業標識で、その特徴は「直接その物を門外に掲げる」、すなわち商品の実物を門外に高く上げたり門前に並べて幌子にした。宋の『夢粱録』には「彩帠舗に積み上げられた目の細かい緞子」と書かれた。明代の南京染坊は、染めた色とりどりの絹織物を染房上に高く掲げていた。清代の北京では、実物を幌とするものが仕立屋、絹織物、傘、タオル、楽器、木桶、麻などがあった。実物幌ははっきり分かり、顧客にとって一目瞭然である。


檳榔煙草舗幌子
檳榔(ビンロウ)は棕櫚(シュロ)の一種で、熱帯の作物である。果実は楕円形で、色は橙(だいだい)色、殺虫、消化促進の効果があり、料理に使うことができた。昔中国の広東、広西では民間に檳榔の実を噛む風習があった。清代の一部の北京人も同様の習慣があった。写真は1940年代初めの檳榔煙草店で、煙草店で檳榔を売っていた。店の表に檳榔の包みを対称に吊り、これは実物幌に属する。

 模型幌は、商品の模型を幌にし、木、布、紙、皮革、鉄などの材料で作られた。宋の『太平広記』は『野人閑話』の記載を引用し、李という姓のネズミ駆除薬を売る店があり、「木で作ったネズミを看板にした」。『清稗類鈔』では「都の中の靴下店は、門口にしばしば大きな靴下を掲げた」と書かれている。ここから分かるのは、模型はしばしば本物の商品より大きく作られ、例えば麻子剪刀舗は造形の異なる大きなはさみの模型を掲げ、キセル屋は大きなキセル、魚屋は大きな木の魚を掲げた。模型舗は真に迫って作られ、商品の特徴を突出させ、長持ちしてしかも目立つので、店店で幅広く採用された。


徳順号馬鞍舗
店の外に布製の馬の鞍の模型が掛けてあり、形象幌の中の模型幌である

 画幌は、図絵で扱っている商品やアイテム表示した。絵を布ののれんや木の看板の上に描いたり、直接入口の壁の上に描いた。元の『析津志』には京師の「床屋は、色とりどりに歯の絵を描いて、しるしにした」と記載されている。また茶店は壺を描いて看板にし、靴店は靴を描き、刃物、ハサミ店では刀やハサミを描いた。画幌は色彩が鮮やかで、制作が簡単で、多くが規模の比較的小さい店舗で採用された。また店によっては、描いた絵と扱い品目が直接関係無く、目的は店の表を飾り、月日の経つうちに、その店独特の看板になるのである。例えば『析津志』に載っている京師酒槽坊は、「門口に春申君、孟嘗君、平原君、信陵君の四公子が描かれていた。赤いペンキの塗られた欄干でこれを守り、上は細かく描かれた酒升で覆われ、宮殿のような有様であった。両横の大壁には、車馬、侍従、傘や武器が全て描かれていた。また漢の鐘離、唐の呂洞濱を描いて門額とした。」




老王麻子刀剪舗の画幌
『老北京店舗的招幌』という書籍の中で、こう紹介された。「清代、北京王麻子刀剪舗は、崇文門打磨廠内にあった。この店で作られた刃物やハサミは刃の質が良く、刃先が大きく開き、長く使っても刃が曲がらず、当時の北京の有名で伝統的な製品のひとつであった。」写真は1940年代初頭の老王麻子刀剪舗である。店の外にぶら下げられたのは文字と絵を併用した招幌で、店内には刃物、ハサミなど実物幌がぶら下げられた。

 標識幌は、通俗的に定まっている特定のものの姿や図形をしるしにするものである。例えば旗や幟(のぼり)は、最もよく見かける標識で、古くは酒旗にした。「青旗沽酒有人家」(青い旗が揚がるのを見れば、酒を売る店がある)というのは、唐宋時代にはもう当り前の風景であった。北宋の東京(開封)の酒楼は錦条旗を標識にした。清代の北方の酒店は多くが赤と青が交互になった吹き流し状の酒旗を用いた。酒店以外でも、北京の公の車屋も旗を標識にした。赤い竿に黄色い旗、上には一匹の飛び立つ青龍が描かれていた。それとは別に灯幌があり、灯籠を商店の標識にした。灯幌は宋代には既に日常見られるものとなり、宋の呉自牧の『夢粱録』巻16酒肆にこうある。「例えば酒肆(酒店)の門口に、杈子(木の柵)と栀子灯(クチナシの実型のランプ)を設置したが、ちょうど五代の時、郭高祖が汴京に行幸した時、茶楼や酒肆が揃ってこのように装飾をしたので、今日に至るまで店店がそれを真似るのが習慣になった。」灯を幌にし、美しくりっぱで、営業が深夜に及ぶ酒楼について言っても、たいへん実用的であった。深夜の街路沿いで呼び売りする小販(屋台など小規模の飲食店)も、常々灯を幌子にした。


妓楼(遊女屋)の入口。赤く記したところに栀子灯が置かれている

 文字幌は、簡単な文字で店の名や扱っている商品の種類を表した。例えば「当」は質屋を表し、「堂」は風呂屋を表した。それ以外に「茶」、「書」、「酒」、「帽」、「薬」、「花」などがあった。字幌の掛け方は幌子と同じで、表示の方式と姿形は招牌と同じである。


当铺(質屋)

 招牌は、前で既に述べたように、商店の門前に取りつけられた標識となる牌子(マーク)である。取りつけ方法は多種多様で、或いは壁や門、柱の上に架け、或いは店舗の門前に設置したりカウンターの上に置かれ、また門前の牌坊(アーチ)や店の壁に直接書き記すこともあった。取りつけ方法の違いにより、縦型看板と横型看板、床置き看板、壁看板に分けられる。招牌の文字の内容はたいへん豊富で、如何なる商業情報であっても表示することができた。一つ目に字号(店名)を表示することができ、宋代、明代には、字号は大半が姓氏の違いで表され、例えば張家老舗、王家、李家というように表された。北京の多くの旧店舗は、更に次のような風習を残していて、例えば王麻子(あばたの王)というように表示した。二つ目に商店の合資(共同出資者)の人数を、例えば双合、三義、四美のように表示することができた。三つ目に取扱い商品の内容を、毛尖、風箱、赤金、建皮絲(タバコ)、雪花白(酒)、丹九轉、富陽冬笋(浙江富陽のタケノコ)、佛手青梅などのように表示することができた。四つ目に商品の品質を、重羅白面(何度もふるいにかけた小麦粉)、真正豆面(本物の豆粉)、賽雪欺霜のように表示することができた。五つ目に商店の信用、評判やいくつかの縁起の良いことばを、童叟無欺(子供も年寄りも騙さない)、公平交易、招財進宝の類のように表示できた。文字招牌の中には字が10~20に達するものがあり、例えば北京の徳愛堂薬舗の天を衝くように背の高い看板の上の文字は22字に達し、「徳愛堂沈家祖伝七代小児七珍丹只此一家別無二処」と書かれ、徳愛堂薬舗は沈氏が創業し、主に祖伝の七代珍丹を販売し、専ら小児を治療する良薬で、しかも唯一の販売者であった。

 要するに、各地の風習の違いにより、店舗経営の規模の大小が異なり、入口の装飾と看板の掛け方も全て異なっていた。北京について言えば、大部分の店舗にはふたつ以上の看板が入口に掛けられ、商店によっては実物の幌子の数が10以上に及び、例えばちょうちん屋や、とりわけ大商店の中には、実物や模型、標識幌、装飾文字や絵、各種の看板が巧みに一緒に配置され、商店が極めて上品に装飾され、看板が互いに照り映え、一幅の立体的な広告画のようになっていた。