中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

昔の北京の商店の看板(3)

2024年05月14日 | 中国文化

小旅館幌子
柳の枝で編んだ 笊籬(そうり。ゆでた麺やワンタンを鍋からすくい上げる網じゃくし、揚げざる)の模型をつるして幌にした。昔、北方で旅行し外出する者は皆馬に乗って出かけた。民間の風習で人が出発する時に、餃子を作って見送り、到着すると麺を作って歓迎した。月日が経つうちに、「上馬餃子、下馬麺」の俗語ができた。餃子も麺も、茹で上がると、「笊籬」を使って鍋からすくい上げた。したがって小店が「笊籬」を幌にするのは、寓意(他の事物に託してほのめかす意味)が深遠で、旅人に我が家に帰って来たかのような暖かみを感じさせたのである。

看板の効果

 招幌(看板)は、物象広告(客観的な事物の広告)として、設置や制作の精緻さ、奇抜さは、ただ店の入口を飾るだけでなく、流通の領域でも、かなり重要な役割を果たした。商人たちは巨額の投資を惜しまず、奇を争い勝利を目指したが、その目的はただ一つ、人々の視線を惹きつけ、顧客を繋ぎ止めることであった。元曲の『后庭花』に二句の唱詞がある。「酒店の門前に三尺の布、過ぎ来たり過ぎ往き主顧を尋ねる。」言っているのは酒旗の役割である。『宋朝事実類鈔』におもしろい話が載っている。福州にひとりの酒売りの老婦人がいて、酒旗の上に太守、王逵(おうき)の酒望子(幌子)詩「下に臨む広陌(こうはく。広小路)は三条の闊(ひろ)さ,斜めに倚(よ)る危楼は百尺の高さ」と書いたところ、これにより大量の食客を惹きつけ、「これより酒の販売が数倍」になったという。

 これだけでなく、多くの名牌(ブランド品)の看板は、商家に対しても良いサービスを促す効果があった。看板を台無しにせぬよう、商品は質と量を保たねばならなかった。昔の北京の「金驢儿」の石鹸、「銅老倭瓜」の白蕎麦麺、「黒猴儿」の帽子、「王麻子」のハサミは、顧客の中で名声を博していた。商品の品質を重視し、ブランドが有名な店も、それによって財を為した。陸元輔『菊隠紀聞』の記載によれば、北京の「勾欄胡同の何闉門家の布、前門橋陳内官家の首飾、双塔寺李家の冠帽、東江米巷党家の鞋、大柵欄宋家の靴、双塔寺趙家の薏酒(ハト麦酒)、順城門大街劉家の冷淘麺、本司院劉家の香、帝王廟街刁家の丸薬は、皆一時期有名で、巨万の富を築いた。」

 店舗の招幌(看板)は、多数が民間の芸術家、職人が設計、制作したもので、採用された模様や図案は大衆が好むもので、よく使われる蟠龍紋、蝙蝠紋、寿字紋、蓮花紋など、皆吉祥、富貴を祈る題材であった。多くの招牌は、またその多くが著名人の自筆であった。例えば、清代南京で保存された明代の著名人が起草した扁額の中で、牛市口の石鹸、粉おしろい店の縦型の扁額の「古之敬家」の四字は、劉青田が書いたものだ。三仙街の毛氈店の横型の扁額の「伍少西家」は、顧起元が書いたものである。行口大街南貨店(中国南方の食品店)には長方形の扁額があり、「楊君達家海味果品」の八字は、学士(文人)の余孟麟の傑作である。北京の「六必居」は、厳嵩が書いたと伝えられている。「都一処」は乾隆皇帝の親筆である。これらの招牌(看板)の筆跡は、上品なものもあれば、飾り気がなく実直なものもあった。

 昔の北京の多くの店舗の店名は含蓄があり、味わい深かった。例えば、地安門外の茶葉舗は、「金山」と言った。安定門外の茶肆は、「鶏鳴館」と言った。ある茶社の名は「半畝園」、「水楽庄」、「柳蓮居」、「緑意軒」、「怡性斎」、「萃園別墅」などと言った。また本書中の「知楽魚庄」は、おそらく魚と熊の掌は同時に得られない(望みが2つあれば、その1つを捨てざるを得ない)の意から取り、有魚知楽(魚が有れば楽を知る)としたのである。


知楽魚庄(金魚池にあった魚屋)

一方「瑞蚨祥」を名付ける時は、多くの文人墨客を招き、細かく推敲して決められた。蚨(ふ)が指すのは青蚨で、古人の銭への別称であった。『捜神記』の記載によれば、「(蚨の血を)塗った銭各八十一文、市の物毎に、或いは先に母銭を用い、或いは先に子銭を用い、皆復た飛帰す、(車)輪は転じて已まず。」蚨を名に使ったのは、銭を使っても、またすぐ(銭が)戻って来て、お金がどんどん増えるという意味が含まれた。


瑞蚨祥
北京前門大柵欄に位置し、清の光緒21年(1895年)に開業し、北京で有名な絹織物の店で、当時の「八大祥」のひとつであった。店の門の上方には「瑞蚨祥」の三文字が刻まれた横型の看板で、「瑞」は良い前兆を指し、「蚨」は「青蚨」(古代の伝説上の虫で、銅銭の上に蚨の血を塗ると、銭を使った後、あっという間に元の持ち主のところに戻って来るとされ、このため「銭」のことをまた「青蚨」と言う)、「祥」は吉祥を指す。「瑞蚨祥」の三文字で、縁起が良いという意味が含まれている。

 こうした民間の精神で設けられた招幌(看板)は、標識と装飾が一体になったものであった。豪華で美しい入口の装飾に、濃厚な民間の色彩を配した招幌は、より一層商店の魅力を付け加えた。

まとめ

 1930年代末から1940年代初頭、北京の招牌、幌子は、相変わらず明清時代の北京の店舗の招幌の様式を踏襲していた。例えば清慎斎裱画店(表具店)が用いた縦型の看板は、明清時代の看板と何ら違いが無かった。看板は白地で、上部に書店名が書かれ、下部の一方に「蘇裱名人字画冊頁手巻法帖」と書かれ、もう一方には一巻の掛け軸が描かれ、請け負う仕事の内容と技術レベルを示していた。


清慎斎裱画店
中国の書画の装幀は、特殊な伝統手工芸で、蘇州の表装工が最も精緻であった。清慎斎裱画店の長方形の木製看板は、白色の地に、店名と「蘇裱名人字画冊頁手捲法帖」などの文字が書かれ、その横に一巻の掛け軸の絵が描かれていた。これによって請け負う仕事の内容と、その技術レベルを表していた。

また例えば「稲香村」、「南味店」であれば、二枚の横型の看板を使い、何文字かの簡単な文字で商店の名前とどのような種類の店かを明示した。


稲香村
稲香村は南方の特産品や自家製の南方の菓子類、蘇州や揚州の醬油煮の惣菜を売る店であった。店の入口の上に「新記稲香村」の横型の看板がある。写真はちょうど中秋節が近く、季節の商品が店に並べられている。店の外には「中秋月餅」と書かれた布幌(布に書かれた幟)が高く掲げられている。店内には、金華ハム、南京板鴨の実物幌が掛けられ、文字と実物招幌で客を招き寄せ、賑やかな雰囲気を引き立たせている。

本書で紹介した幌子で、例えば小麦粉を加工する工房は形をイメージした看板(形象幌)を使い、店の外に対称に白い小麦粉を捏ねた団子(マントウの模型)を吊り下げて看板とした。


粉坊幌子
小麦粉を加工する工房。つるされた幌子はマントウの模型で、形象幌に属する。昔、北京の粉坊の門前の幌をつるす柱の龍頭(柱から突き出た枝先の部分)の下には、通常白い小麦粉を捏ねた団子の模型を対になるようぶら下げることで、店の扱う商品の標識がより鮮明になった。

粗飯舗が掲げた看板は、籐で作った輪っかの外に金銀の紙を糊付けし、下端に間隔を空けて赤い紙の房をぶら下げた、典型的な 形象幌である。銅鉄舗が使ったのは実物幌で、店の外に銅壺や鉄桶を並べた。馬鞍舗の外には刺繍した馬の腹につけるベルトと細かく作り込んだ馬の鞍を使って看板にし、馬の腹のベルトの上の模様はモンゴル族が一般に好む図案や色使いに合わせてあり、たいへん気がきいていて、斬新であった。これも実物幌のひとつである。


馬鞍舗
店の外の背の高い腰かけの上に刺繍をした馬の腹に付ける革ベルト(すなわち鞓(てい))と加工の優れた馬の鞍が置かれ、実物幌に属する。

本書に収録した写真は、1930-40年代に撮影された。ここで紹介する看板は、北京の店舗看板の一部に過ぎないが、歴史的にも北京城の商業の実際の写真であり、北京の民俗学、商業史、文化史の愛好者、研究者にとって、正に貴重で価値ある資料と言えるだろう。

昔の北京の商店の看板(2)

2024年05月11日 | 中国文化
万宝号酒店
清代の酒店には招牌があり、入口の庇(ひさし)の下に酒瓢箪の形の形象幌がぶら下がっていた。1940年代初めの万宝号酒店は、店名を墻招(壁に直接看板を取りつけたもの)の形で入口の壁面の上方に施した。「遠年花雕」(年代物の花雕酒(紹興酒))と扱っている酒の種類と品質を表示した。

看板の種類

 招幌は商業の標識となり、これにより店舗が扱う商品の種類やサービスの内容を明示した。世に言う三百六十行(昔の各業種の総称)には、どの業種にも自らの特定の招幌があった。こうした招幌の形態はそれぞれ異なっていた。幌子について言えば、主に形象幌、標示幌、文字幌の三種類に分けられた。形象幌は多くが実物や実物模型、図絵で表示した。 標示幌は主に旗と行燈である。文字幌は簡単な文字で扱う商品の宣伝をした。


焼酒舗幌子
酒瓢箪を幌子とするのは典型的な形象幌である。清代の京西、京東の焼鍋(コウリャンを醸造して作った白酒)は、紹興の黄酒に比べ刺激性が強かった。一般の小酒店で白酒を売る店を俗に焼酒舗と言った。瓢箪の形を幌子にするのは古人の習慣を踏襲し、酒を売り出す時に酒瓢箪をぶら下げ、酒が売り切れるとそれを取り外した。

 実物幌は、最も古い商業標識で、その特徴は「直接その物を門外に掲げる」、すなわち商品の実物を門外に高く上げたり門前に並べて幌子にした。宋の『夢粱録』には「彩帠舗に積み上げられた目の細かい緞子」と書かれた。明代の南京染坊は、染めた色とりどりの絹織物を染房上に高く掲げていた。清代の北京では、実物を幌とするものが仕立屋、絹織物、傘、タオル、楽器、木桶、麻などがあった。実物幌ははっきり分かり、顧客にとって一目瞭然である。


檳榔煙草舗幌子
檳榔(ビンロウ)は棕櫚(シュロ)の一種で、熱帯の作物である。果実は楕円形で、色は橙(だいだい)色、殺虫、消化促進の効果があり、料理に使うことができた。昔中国の広東、広西では民間に檳榔の実を噛む風習があった。清代の一部の北京人も同様の習慣があった。写真は1940年代初めの檳榔煙草店で、煙草店で檳榔を売っていた。店の表に檳榔の包みを対称に吊り、これは実物幌に属する。

 模型幌は、商品の模型を幌にし、木、布、紙、皮革、鉄などの材料で作られた。宋の『太平広記』は『野人閑話』の記載を引用し、李という姓のネズミ駆除薬を売る店があり、「木で作ったネズミを看板にした」。『清稗類鈔』では「都の中の靴下店は、門口にしばしば大きな靴下を掲げた」と書かれている。ここから分かるのは、模型はしばしば本物の商品より大きく作られ、例えば麻子剪刀舗は造形の異なる大きなはさみの模型を掲げ、キセル屋は大きなキセル、魚屋は大きな木の魚を掲げた。模型舗は真に迫って作られ、商品の特徴を突出させ、長持ちしてしかも目立つので、店店で幅広く採用された。


徳順号馬鞍舗
店の外に布製の馬の鞍の模型が掛けてあり、形象幌の中の模型幌である

 画幌は、図絵で扱っている商品やアイテム表示した。絵を布ののれんや木の看板の上に描いたり、直接入口の壁の上に描いた。元の『析津志』には京師の「床屋は、色とりどりに歯の絵を描いて、しるしにした」と記載されている。また茶店は壺を描いて看板にし、靴店は靴を描き、刃物、ハサミ店では刀やハサミを描いた。画幌は色彩が鮮やかで、制作が簡単で、多くが規模の比較的小さい店舗で採用された。また店によっては、描いた絵と扱い品目が直接関係無く、目的は店の表を飾り、月日の経つうちに、その店独特の看板になるのである。例えば『析津志』に載っている京師酒槽坊は、「門口に春申君、孟嘗君、平原君、信陵君の四公子が描かれていた。赤いペンキの塗られた欄干でこれを守り、上は細かく描かれた酒升で覆われ、宮殿のような有様であった。両横の大壁には、車馬、侍従、傘や武器が全て描かれていた。また漢の鐘離、唐の呂洞濱を描いて門額とした。」




老王麻子刀剪舗の画幌
『老北京店舗的招幌』という書籍の中で、こう紹介された。「清代、北京王麻子刀剪舗は、崇文門打磨廠内にあった。この店で作られた刃物やハサミは刃の質が良く、刃先が大きく開き、長く使っても刃が曲がらず、当時の北京の有名で伝統的な製品のひとつであった。」写真は1940年代初頭の老王麻子刀剪舗である。店の外にぶら下げられたのは文字と絵を併用した招幌で、店内には刃物、ハサミなど実物幌がぶら下げられた。

 標識幌は、通俗的に定まっている特定のものの姿や図形をしるしにするものである。例えば旗や幟(のぼり)は、最もよく見かける標識で、古くは酒旗にした。「青旗沽酒有人家」(青い旗が揚がるのを見れば、酒を売る店がある)というのは、唐宋時代にはもう当り前の風景であった。北宋の東京(開封)の酒楼は錦条旗を標識にした。清代の北方の酒店は多くが赤と青が交互になった吹き流し状の酒旗を用いた。酒店以外でも、北京の公の車屋も旗を標識にした。赤い竿に黄色い旗、上には一匹の飛び立つ青龍が描かれていた。それとは別に灯幌があり、灯籠を商店の標識にした。灯幌は宋代には既に日常見られるものとなり、宋の呉自牧の『夢粱録』巻16酒肆にこうある。「例えば酒肆(酒店)の門口に、杈子(木の柵)と栀子灯(クチナシの実型のランプ)を設置したが、ちょうど五代の時、郭高祖が汴京に行幸した時、茶楼や酒肆が揃ってこのように装飾をしたので、今日に至るまで店店がそれを真似るのが習慣になった。」灯を幌にし、美しくりっぱで、営業が深夜に及ぶ酒楼について言っても、たいへん実用的であった。深夜の街路沿いで呼び売りする小販(屋台など小規模の飲食店)も、常々灯を幌子にした。


妓楼(遊女屋)の入口。赤く記したところに栀子灯が置かれている

 文字幌は、簡単な文字で店の名や扱っている商品の種類を表した。例えば「当」は質屋を表し、「堂」は風呂屋を表した。それ以外に「茶」、「書」、「酒」、「帽」、「薬」、「花」などがあった。字幌の掛け方は幌子と同じで、表示の方式と姿形は招牌と同じである。


当铺(質屋)

 招牌は、前で既に述べたように、商店の門前に取りつけられた標識となる牌子(マーク)である。取りつけ方法は多種多様で、或いは壁や門、柱の上に架け、或いは店舗の門前に設置したりカウンターの上に置かれ、また門前の牌坊(アーチ)や店の壁に直接書き記すこともあった。取りつけ方法の違いにより、縦型看板と横型看板、床置き看板、壁看板に分けられる。招牌の文字の内容はたいへん豊富で、如何なる商業情報であっても表示することができた。一つ目に字号(店名)を表示することができ、宋代、明代には、字号は大半が姓氏の違いで表され、例えば張家老舗、王家、李家というように表された。北京の多くの旧店舗は、更に次のような風習を残していて、例えば王麻子(あばたの王)というように表示した。二つ目に商店の合資(共同出資者)の人数を、例えば双合、三義、四美のように表示することができた。三つ目に取扱い商品の内容を、毛尖、風箱、赤金、建皮絲(タバコ)、雪花白(酒)、丹九轉、富陽冬笋(浙江富陽のタケノコ)、佛手青梅などのように表示することができた。四つ目に商品の品質を、重羅白面(何度もふるいにかけた小麦粉)、真正豆面(本物の豆粉)、賽雪欺霜のように表示することができた。五つ目に商店の信用、評判やいくつかの縁起の良いことばを、童叟無欺(子供も年寄りも騙さない)、公平交易、招財進宝の類のように表示できた。文字招牌の中には字が10~20に達するものがあり、例えば北京の徳愛堂薬舗の天を衝くように背の高い看板の上の文字は22字に達し、「徳愛堂沈家祖伝七代小児七珍丹只此一家別無二処」と書かれ、徳愛堂薬舗は沈氏が創業し、主に祖伝の七代珍丹を販売し、専ら小児を治療する良薬で、しかも唯一の販売者であった。

 要するに、各地の風習の違いにより、店舗経営の規模の大小が異なり、入口の装飾と看板の掛け方も全て異なっていた。北京について言えば、大部分の店舗にはふたつ以上の看板が入口に掛けられ、商店によっては実物の幌子の数が10以上に及び、例えばちょうちん屋や、とりわけ大商店の中には、実物や模型、標識幌、装飾文字や絵、各種の看板が巧みに一緒に配置され、商店が極めて上品に装飾され、看板が互いに照り映え、一幅の立体的な広告画のようになっていた。

昔の北京の商店の看板(1)

2024年05月10日 | 中国文化
範緯著:老北京的招幌
文物出版社2004年12月第一版発行

 この本は、文物出版社に保存されていた1930年代末から40年代初頭の北京の店舗看板の写真資料をまとめたものだそうです。

看板の歴史

 招幌(看板)は招牌、幌子の総称で、中国の商業習俗の表現形式のひとつで、また商業広告のよく見られる形式である。

 幌は伝統的な店舗の標記で、元々布で作った帷幕で、『玉篇』では「幌は帷幔なり」と言う。後に派生して酒旗の専称となり、また酒簾と呼ばれ、唐末には望子と称した。

酒簾

『広韵』では「青簾(青いのれん)は、酒家の望子。」「望」とは遠くを見ることである。古代の酒家は、門を開けて最初にすることは、酒旗を店門の外に高く掲げ、遥かに望むことができ、これを用いて酒客を呼んだ。張籍の『江南行』では「長干(昔の建康(南京)の里巷(裏町)の名)の午日春酒を売る。高く酒旗を江口に懸ける。」李中『江辺吟』では「きらきらした酒簾は酔客を招き、深い緑樹の隠に鶯が啼く」と、描写はこの光景である。酒店の酒が売り切れると、店は望子を引き下ろし、顧客を手ぶらで帰すのを防いだ。例えば孟元老『東京夢華録』ではこう言う。「中秋節の前、諸店は皆新酒を売る。……市民は競って酒を飲み、午(うし。11時から13時)未(ひつじ。13時から15時)の間に、どの店も酒が無くなり、望子を引き下した。」望が上がれば来て、望が無ければ止む。望子を酒旗と呼ぶのは、たいへん適切であった。後に望子は次第に発展して各行各業の標記の専称となり、その呼称は次第に幌子が取って代わった。これに対し、清の翟灝は『通俗篇・器用』の中で次のように解釈している。「今日長江以北では、凡そ市場の商人が掲げる標識は、尽く望子wàng ziで、その音が訛り、すなわち幌子huǎng ziと言うのである。」幌子は主に扱う商品の種類や業種を表した。

 招牌は商店が門前にしつらえ、標識にしている商標であった。「招」は呼びかける意味で、「招は召なり。手を以て招と言い、言を以て召と言う。」(『楚辞・招魂序』王逸注)招牌は最初は文字の書かれていないのれんで、その後名号を題する者が現れ、続いて木製の牌(看板)がこれに代わり、大多数が店舗の名称と字号を題写した。これが店舗の標記である。店によっては招牌に商品の名称を題する者があり、例えば清代、蘇州のいくつかの店舗の招牌には、「定織細布」、「本客自制布匹」、「雑貨老店」などと書き、経営の範囲、内容を明示した。

 招幌は、社会生産と交換が一定段階にまで発展した産物で、その歴史は相当長いものである。交換は最初、原始社会後期の氏族部落の間で発生し、当時は生産力が極めて低く、余剰産品は多くなく、物品の交換は偶然のことで、且つ交換の権利は部落の首領の手の中に握られていた。伝説の舜は「頓丘に販(ひさ)ぐ」。当時貿易を行うしるしは太陽と井戸であった。「日中を市と為す」(『易・系辞下』参照)、「古く未を市と為し、若し朝に井に聚り水を汲むに、貨物を井辺で貨を売り、故に市井と云う。」(『史記・平准書』参照)夏代に到り、物資交流がより発展し、当時有名な商族の人々が最も交換に長けていた。聞くところによると、商族の先祖の王亥は、曾て牛車を走らせ、帠を載せ、黄河の北岸に到り貿易を行った。遠古の貿易は、物を以て物に易え、招幌は必要無かった。

 社会の進歩に従い、商業は社会経済のひとつの独立した部門になった。生産の発展、商品の増加で、集市貿易は既に相当盛んであった。『周礼』の記載によれば、西周の新興の都市には、商戸を中心とする「朝市」があり、また販夫、販婦を主とする「夕市」があり、正午には更に大市が行われた。政府はまた専門の人員を派遣し貿易活動を指揮し、「旌(旗の一種で、旗竿の先に五色の羽毛を飾り付けたもの)を上げ市をさせる恩恵を与えた」。旗で集市の開閉と市場の位置を指示したが、これは幌子の雛形と言うことができる。

 春秋戦国時代、中国の古代社会の生産力の発展は新たな段階にまで発展し、新たな封建生産関係は次第に古い奴隷制の関係に取って代わり、私営商業が次第に官営商業に取って代わり、個人の商人の活動が増加した。鄭国には牛を売る弦高がおり、斉には商業で富を築いた陶朱公がいた。個人商店も出現し、『呂氏春秋・召類』の中でこう言った。宋の相国で司馬の子罕の隣に靴屋があり、「布靴に布を被せる仕事で三代の食を賄った」。個人商店の増加に従い、需要があったので、本物の幌も時運に応じ出現した。『晏子春秋』にひとつの寓話が載せられているが、それはこんな話だ。宋国に一軒の酒店があり、顧客を招き寄せるため、「幟(のぼり)を甚だ高く掲げた」。『韓非子』にも同じような物語の内容が載っており、その酒店は「その表が甚だ長し」と言う。「幟」と「表」は酒旗である。このことから早くも2千年余り前の春秋戦国時代、幌子が既に出現したことが分かる。

 このようであったけれども、秦から北宋初期までの間、政府の商業抑制政策と専売制の措置により、都市の貿易地点は市場だけで許可された。『長安志』の記載によれば、唐代の坊は、坊門以外は皆壁で囲まれ、特別な許可が無ければ、勝手に大通りへの門を開けることができなかった。『唐会要』巻86に、太和5年7月くらいの巡使の上奏文が記載されている。「三品以上、坊内三絶(家柄や才徳に優れた者)にあらざれば、街に門を開くのを許さない。もし三絶でないのに、無理やり坊に開門させようとしたら、街路に面した戸は、尽く閉じるよう命じる。」こうした坊市制度により、都市の街角では招幌を見ることがほとんど無かった。

 坊市制度はずっと北宋初期まで続き、この制度が廃止されて後、招幌はようやく再び街角に出現した。張擇端の『清明上河図』の上で、北宋の都の繁栄した様子が見られるが、各種の酒旗や字招が数多く見られる。『東京夢華録』や『夢粱録』など都市の記録の描写によれば、南宋の首都には数百の店舗名号があり、これらの名号(名称)はおそらく作者が当時の店舗の招牌(看板)に基づきそれらを記録したものであろう。多くの招幌の出現は、宋代の都市経済の発達を反映している。当時、東京(開封)には、富商や大商人が雲集し、交易活動に従事し、『続資治通鑑長編』の巻85に載った王旦の言によれば、「京師(都)で資産百万の者は極めて多く、10万以上、どこでも見られる。」元明清各時代の招幌は、宋代の招幌の形を踏襲しているのを除き、更にその他の民族の風習を融合し、都市から田舎に到るまで、招幌は随所で見ることができた。

 北京は13世紀の金代から20世紀初頭に清王朝が打ち倒されるまで、ずっと中国封建王朝の首都で、政治、文化の中心であった。とりわけ明清時代の北京城は、封建社会の商業発展のひとつの縮図であった。各地の商賈が雲集し、店舗が林立していた。広告宣伝の役割を持った招牌、幌子が四方から集まり、たいへん特色があった。

 最も古く北京の幌子を描写した古い書籍は『析津志』で、本の中で元代の都城の床屋、蒸し調理屋、小児科医、産婆、獣医、煎じ薬などの業種の幌子を列挙した。例えば、「市中の小児科医は、門口に木を刻んで子供の形を作り、錦の束の中で方相(厄除けの神様)のような姿かたちを標榜した。」

「産婆の家は、門口に赤い紙を竹ひごを籠に編んだものに貼って作った大靴をしるしにした。」「獣医の家は、門口に大小の木を刻んで壺状にし、長さ一丈に達し、赭石(しゃせき)でこれに色付けした。」

 明代、世祖は北京に遷都し、商業が極めて盛んになった。猪市、羊市、牛市、馬市、果子市、煤市、灯市、廟市などがあり、大明門前が最も賑やかであった。蒋一葵は『長安客話・皇都雑記』の中でこう言った。「大明門前の棋盤街は、すなわち離合集散の象徴である。天下の士民は各々文書を以て至り、ここに雲集し、互いに肩が触れ車輪と車輪がぶつかり、一日中騒々しかった。」清代に到り、北京の工商業は種類が雑多であるだけでなく、名称もまた多かった。手工業について言えば、木工、石工、土工、漆加工、火薬、婚礼、東市の漆加工、 西市の漆加工など10の業種があった。職業の分化で、違った種類の店舗が街頭に並立するようになり、店主は顧客を招き寄せるため、巨費を惜しまず、店の正面を装飾し、精緻な招幌を掲げた。『寄云寄所寄』は言う。「都城の市肆(商店)が開店するのに、必ず鼓楽を盛んに張り、戸に彩絵を結ぶ。賀する者は果核を持ち盤を堆み、屏風で囲いて神を祀る。正陽門の東西の街に、招牌は高さ三丈余りのもの有り、金泥で白色の地を減らし、或いは斑竹で以てこれに嵌め込み、或いはまた金牛、白羊、黒いロバや豚の形象を彫刻し、しるしとした。酒肆(酒屋)には扁額と対聯が掛かり、余白には或いは木の罌(かめ。もたい(ほとぎ)。腹が大きく口の小さい瓶)を掲げ、或いは錫の杯を掲げ、扇状の装飾がちりばめられていた。」また『燕京雑記』は言う。「都の店舗は、体面を考え、彫刻を施し色とりどりに塗られ、窓や戸に錦や刺繍が掛けられていた。夜は灯を燃やすこと数十、紗の籠を被せた角灯、明るく輝き昼間のようだった。そんな店舗で東四牌楼や正陽門大柵欄にあるものは、とりわけ卓越していた。その中には茶葉店があり、高い甍に太い垂木、細い格子に広い窓、人物を彫刻し、黄金が敷かれた。美しい雲が陽に映え、まことに雄壮である。」


中国の民間玩具、風車(かざぐるま)

2021年09月14日 | 中国文化

北京の春節の廟会で売られる「大風車」

 

「風車」fēngchēは広く普及した伝統的な民間玩具で、一般には紙、竹、コウリャン殻で車輪を作り、風の力を借りて休みなく回転させます。容易く作れてすぐ遊べるので、子供たちにたいへん人気があります。中国の風車の歴史は古く、唐代や宋代の絵画の中に既にしばしばおもちゃの風車を見つけることができます。例えば南宋の画家、李蒿の筆による『貨郎図』(「貨郎」とは行商人の意味です)の中に小さな風車が描かれていて、行商人の帽子の後ろに描かれています。

李蒿『貨郎図』(部分)

 

この風車の構造はたいへん簡単で、三本の細い棒を交差させて六角形にし、棒のひとつひとつの先端に長方形の小旗を貼り付け、中心に軸を取り付け、軸と柄がつながり、小さく精巧で簡単な造りです。こうした風車は宋代に流行したものです。元代の有名な画家、王振鵬も『貨郎図』とよく似た絵を残しており、題名は『乾坤一担図』と言い、ひとりの老人がおもちゃを満載した荷物籠を担ぎ、老人の帽子の後ろにも小さな風車が挿してあります。

王振鵬『乾坤一担図』

 

構造は宋代の絵の風車と基本的に同じで、ただ風車本体の六角形が八角形になり、柄の上に三角形の小旗が取り付けられています。これから見て、古代のこうした小旗を立てた風車は長い間流行し、宋代以降、特に大きな変化は無かったようです。

 

現在、各地で作られている風車はおおよそ三種類に分けられ、「簡易風車」、「多角風車」と「大風車」があります。「簡易風車」は一本の竹か木の横棒の両端に互い違いに二枚の四角の紙を貼ったもので、横棒の中央に軸が設けてあり、軸は柄につながっていて、風を受けて回転します。

左は簡易風車、右は瓜形風車(後述)

 

『帝京景物略』に明末の風車の記述があります。

「すなわちコウリャン殻を二寸に裂いて、互い違いに四角い紙を貼り、紙の色は各々赤と緑で、真ん中に穴が空いており、細い竹でコウリャンの竿に横向きに取り付けられ、風を受けて動き出し、回転して輪のようになり、赤と緑が混じって目が回るようだ。これを風車と言う。」

 

こうした風車の構造の原理は、上記の宋や元の時代の風車と基本は同じで、現在にまで続き、依然として農村で幅広く作られています。

 

「多角風車」は中国の風車の中で最も代表的なもので、通常は一枚の正方形の色紙から作られ、四角形を中心に向け半分以上ハサミを入れ、順番に各々の角を中心に向けて折り曲げ、中央を小さい丸い紙片で貼りつけて軸を取り付ければ、四角の風車となり、二、三個の風車を一組として柄に取り付けると、風を受けて全てが回転します。二枚の正方形の色紙を互い違いに重ねると八角形の風車になり、三枚の色紙を互い違いに重ねると十二角形となります。色紙の色をそれぞれ変えると、風車の角がひとつひとつ規則的に色が変わるようになり、色彩の変化にリズムがあって美しいものです。

八角風車

 

しかし注意すべきは、八角形以上の風車はそれぞれの色紙の切り方が異なり、あらかじめ切り口の角度を決めておくことで、それぞれ入り混じった角度を揃えることができるのです。

八角風車の作り方(二枚の色紙の切り方を変えて角度を揃える)

 

 

「多角風車」と似たものに、「瓜形風車」があり、色紙を折り曲げてかぼちゃ形にし、中空で外側は瓜のひとかけらひとかけらが何層にも重なっていて、風が吹くとくるくる回ります。瓜形の風車は山東省南部の蒼山県、郯山tánshān県などで盛んに作られています。

蒼山県と郯山県(山東省臨沂市)

 

「大風車」は北京市の太鼓付き風車のことで、昔北京の春節(旧正月)の間に開かれた「廠甸」(和平門外瑠璃廠に、お正月の人出を見込んで大きな縁日が立った。この土地は、宮廷の瑠璃瓦を焼く瑠璃窯があったところで、瑠璃窯の前に広い空き地があり、この空き地に市が立ったので、「廠甸」と呼ばれた。)では必ずこのような風車が市場に並び、北京の春節の風物詩でした。

北京の春節、廟会の風景

 

「大風車」の構造はこれまで述べた風車より複雑で、風車の車輪はコウリャン殻を薄く矧いだ細片を湾曲させて作り、直径は20センチくらいでした。竹ひごやコウリャン殻の棒を用いて軸を作り、軸を中心に放射状に紙の帯を括りつけ、紙の帯のもう一方の端は輪っかに糊付けし、車輪としました。車輪の紙の帯には色が染め付けらました。

大風車

 

軸の延伸部分には互い違いに「はじき爪」を取り付け、軸の下には更に糸で縛り付けた二本の撥(ばち)を並べます。一番下には粘土で作った小さな太鼓を取り付けます。風車が回転すると軸の上の「はじき爪」が動いて撥を動かし、太鼓が打たれて音を鳴らす仕組みです。ポンポン、シャンシャンと良い音がしました。

大風車の太鼓を鳴らす仕掛け

 

「大風車」は風車ひとつ毎に太鼓がひとつ付いていて、少なくとも二つの風車が上下に配されました。風車が三つ、四つ、五つ、ひいては三四十個あるものまであり、全ての風車はコウリャン殻をつないで作った骨組みの上に取り付けられ、骨組みは風車の数に合わせて異なった形に組み立てられました。よく見かけたのは「日」の字形や「甲」の字形、「申」の字形の骨組みでした。

大風車

 

一台の「大風車」に何個風車があるかで、その数だけ太鼓が取り付けられたので、風が吹けば音が鳴って、たいへん面白いものでした。北京の人は買って帰った「大風車」をしばしば家の軒下に取り付けたので、それによって家中がお正月のお祝いの気分に染まることとなりました。

北京の四合院の家屋の軒に取り付けられた大風車

 

おもちゃの風車の種類はたいへん多く、その中には凧や走馬灯のアクセサリーとして使われたものもありました。例えば銅鑼を付けた凧で、銅鑼を付けた枠と「大風車」の構造は全く同じでしたし、連凧の龍の頭の眼を回すのも、実際はふたつの風車でした。走馬灯の真ん中の軸の上には、風車の車輪を取り付けておく必要があり、それにより、上昇気流を受けて走馬灯が回るのです。

走馬灯


中国の凧(2)中国凧の種類と特徴

2021年09月08日 | 中国文化

硬翅風筝(沙燕)

 

凧の歴史が分かったところで、今回は凧の種類とその特徴について見て行きたいと思います。尚、中国国内の有名な凧の産地には、北京、天津、山東省濰坊、陝西省西安、河北省保定、江蘇省南通などがあります。

 

 

(一)凧の造形により表現する題材による区分

 

1.鳥型の凧:鷂(ハイタカ)、鳩、鳳凰、タンチョウ、大雁、オウムなど。

 

2.虫型の凧:トンボ、蝉、蝶、蛾、テントウムシなど

 

3.水生生物の凧:蛙、金魚、ナマズ、つがいのコイ、蟹、オタマジャクシ、イセエビ(ザリガニ)、貝

 

4.人形凧:神話上の人物、歴史上の人物、芝居の人物、例えば孫悟空、寿老人、関羽、張飛、鍾馗、和合二仙(家庭円満を司る仙人、神様)、劉海、許仙、白娘子(白素貞。『白蛇伝』の女主人公)など。

京劇の俳優のくま取りの凧(臉譜風筝)を含みます。

臉譜風筝(くま取りの凧)

 

5.文字凧:「喜」の字を二つ並べたもの。「福」、「寿」の文字。「杏花天」、「天下太平」、「富貴非所望不憂貧」など

 

6.器具の形の凧:生花を飾った籠、扇子、鼎、香炉、鐘、灯籠、宝剣、花瓶など

 

7.幾何学図形の凧:角凧、ひし形、八卦、星型(五角星)、六角形、円形など

 

 

(二)凧の構造による区分

 

1.硬翅風筝yìngchì  fēngzheng(硬い翼の凧)

 

凧の両翼には二本の横向きの「竹条」(竹を細く裂いた棒)で作ったフレームを用い、胴とつなぎ、両翼は折り曲げられないし、はずすこともできないようになっています。このような凧は、「硬翅風筝」(硬い翼の凧)と呼ばれます。翼が二枚以上の凧は、例えば「宝塔」は七枚、「双喜」つまり「喜」を二つ並べた字の凧は三枚の翼を持ちます。

「双喜」の文字凧

 

「硬翅風筝」は全国各地でよく見受けられ、玩具としての凧の中で最もよく見られる構造のひとつです。その中で、北京の「沙燕」(イワツバメ)の凧は最も典型的なものです。「沙燕」の翼は、上下二本の竹結び付けてあり、頭と腹部は一本の長い竹を折り曲げて作り、尾部は二本の竹を交差させ、これら各部分を一緒に縛って、「沙燕」の骨組みを構成しています。

 

「硬翅風筝」の骨組みの寸法は一定の比率になっています。その全体の寸法比率は正方形になっていて、全体の長さと幅の寸法は同じです。頭部の長さを一単位とすると、これは全体の長さの四分の一。腹部は二単位で、全体の二分の一。尾部も一単位で、全体の四分の一。それぞれ一単位が全て正方形で、翼の周囲の竹の長さの七分の一が腹部の幅です。このように、翼の周囲の竹の長さを先ず決めれば、その他の各部分の寸法は容易に求めることができます。

「沙燕」凧の骨組み

 

「硬翅風筝」には他に「米字硬翅」(米の字形の硬い翼)の凧があり、すなわち「米」の字の形の胴体の上に翼を取り付け、骨格を構成しています。外側の輪郭は題材によって火で焙って曲げた細い竹を架台の上に結び付けて造形し、最後に紙を糊付けします。「米字硬翅」が完成すると、周囲の縁は全て竹で支えられた状態となります。

米字硬翅

 

「硬翅風筝」は、他の凧に比べ構造が簡単で造りがしっかりしており、様々な環境での適応性が高く、民間の玩具凧の中で最も広く使われています。

 

2.軟翅風筝 ruǎnchì  fēngzheng(柔らかい翼の凧)

 

この種の凧の翼は上面だけに一本の竹条(竹を細く裂いた棒)があり、下辺の輪郭は翼の生地だけで構成され、風が吹くとひらひら翻ります。鷹、蝶、トンボなど多くが「軟翅風筝」で、この種の凧の翼は、下半分を折り曲げて畳むことができます。翼を外せるものもあります。翼の生地の多くは薄く柔らかい絹や、強靭性の強い紙が使われ、翼が風の振動で破れないようにされています。「軟翅風筝」は表現性が豊かで、昆虫や禽鳥などの題材に適していて、揚げると風を受けて翼が震える効果を見ることができます。

軟翅風筝

軟翅風筝の骨組み

 

3.拍子風筝 pāizi  fēngzheng(平板形の凧)

 

造形が一枚の平板のような形の凧なので、こう呼ばれます。京劇のくま取り、鼎、蝉などがこの種の凧です。この種の凧は、更に「軟拍子」と「硬拍子」の二種類に分かれます。「硬拍子」の最も典型的なものが伝統的な題材の「八卦」です。

「八卦」凧

「八卦」凧の骨組み

 

外周は竹を裂いた棒を結わえた二つの正方形から成り、それを重ねて八角形にし、中間には十字に骨格を加え、全体の造形は整った平面で、仕付け糸を加える必要が無く、平板で曲面が無く、したがって比較的強い風が吹く時に揚げることができます。安定性を増すため、この種の凧の「尾穂」(しっぽの房)は長く重いものが付けられます。「軟拍子」も平面の造形で、骨格の構造は簡単で、下辺の輪郭は竹で支える必要が無く、揚げる時は仕付け糸を使って平面を後ろに湾曲した弓型にさせ、同時に比較的長いしっぽか房を付ける必要があります。「軟拍子」の下部は折り曲げたり上辺の骨格の上に巻き取ったりすることができ、持ち運びに便利になっています。この種の凧の表現力が豊かで環境への適応性にも優れていますが、長いしっぽを付ける必要があり、全体の構図が壊れやすく、実際の状況によって適宜しっぽの造形をうまく処理してやる必要があります。

 

4.長串風筝chángchuàn  fēngzheng(連凧)

 

俗に「蜈蚣」wúgong(ムカデ)とも呼ばれ、たくさんの円形の凧がいっしょにつなぎ合わさり、前面には頭が据えられ、龍の頭が据えられているように見えるので、「龍頭蜈蚣」lóngtóu  wúgongとか「龍筝」lóngzhēngと呼ばれます。

龍頭蜈蚣

 

連凧の一枚の円形の凧を「一節」と呼び、少なくとも20節、多いものは150節に達することがあります。円形の凧は竹を裂いた棒を曲げて円形にし、その後で紙を糊付けして絵付けを行います。円形の凧1枚1枚に全て円の直径を貫き通す1本の竹を裂いた棒が挿し渡され、俗に「蜈蚣腿」(ムカデの足)と呼ばれます。「蜈蚣腿」の長さは一般に円形凧の直径の三倍で、足の両端には鶏の毛か紙の房が結び付けられています。この円形の凧一枚一枚を単独では「蜈蚣桄儿」wúgong  guàngrと呼ばれます。(「桄」は「かせ糸」、糸巻に巻かれた糸のこと)

龍の頭と「蜈蚣桄儿」

 

何枚かの「蜈蚣桄儿」を揚げてそれが一本の串のようになったら、この連凧揚げは成功したと言えます。前面の「蜈蚣頭」、つまり龍の頭の部分は扁平のものと立体的に作ったものとがあり、多くは「竹条」(裂いた竹の棒)を縛って骨格を作り、その上に紙を糊付けして絵付けし、さらにぐるぐる回転する目玉が取り付けられます。

蜈蚣頭

 

「蜈蚣桄儿」はそれぞれ三つの部分に分けて着色されます。上部は濃い色を使い、ムカデの背中を表し、下部は白色の半円で、ムカデの腹を表します。中間部分は様々な色で彩色されます。こうして絵付けされた連凧が上空に揚げられ、一本の長い串になると、背中が濃い色で腹が白い、一匹のムカデとなるわけです。

 

連凧の制作の要領は主に「蜈蚣桄儿」をつなげる技術に現れ、各「桄儿」の縦方向の角度は全て120度以上なければならず、やや前傾した状態になります。横方向は各「桄儿」が全て180度で平行でなければならず、凧を上空に揚げると「塌腰翘尾」、つまり背骨が腰のところでくぼんで、尻尾を持ち上げる形になります。連凧は空高く舞い上がると、勢いが雄壮で、その姿は高くそびえ立ち、中国の伝統凧の名品のひとつに数えられます。

 

5.組み立て式の凧

 

組み立て式の凧は、各部分が別に作られ、揚げる前に各部分の関節に沿って組み立て、揚げ終わったら解体することができ、携帯や保存に便利にできています。前のところで紹介した「軟翅風筝」(柔らかい翼の凧)や「拍子風筝」(平板の凧)は、組み立て式として作ることができます。相対的に、組み立て式凧の造りは複雑で、関節を組み立てる接合部分の設計に注意しなければならず、通常は「榫」sǔn(ほぞ。一方の材の穴にはめ込むよう他方の材に作った突起)、「卯」mǎo(ほぞ穴)、「挿」(差し込み)、「梢」、「套」(ねじ溝を切る)等の方式で部品をしっかりと結合させ、また品種によっては鉄の薄板を被せたり、針金、紙筒、蝶番(ちょうつがい)などの部品を使ったりして設計上の要求を満たします。有名な組み立て式凧には、天津の「風筝魏」一族が作った各種の凧があります。

天津風筝魏の作品

 

6.簡易凧

 

簡易凧は一般の人々が自分で設計、制作した凧を指し、品種は極めて多く、何れもすぐに作れて構造の簡単な玩具凧であり、よく見かけるのは「瓦片」(平瓦の形の四角形の角凧)や「菱形風筝」(ひし形の凧)、「桶形風筝」(立体凧)などです。ひし形の凧が最も簡単で、二本の竹の棒を交差させ十字型にするだけで、横向きの竹をきつく縛って弓状にし、紙を糊付けし、しっぽを付ければ簡易凧が完成します。民間で長らく伝承され、子供たちの間で互いに真似し合うことが盛んになり、ひとつの風潮になりましたが、商品になることはほとんどありません。

 

 

(三)凧の特殊な仕掛け

 

凧を揚げて飛ばす過程での娯楽性や趣味性を強めるため、人々は早くから凧の特殊な仕掛けを考えました。唐代には、凧は既に琴の弦を取り付け、音を出す効果を作り出すことに成功しました。以後、代々新たな設計がなされ、凧の娯楽性や趣味性をより豊かで完成度の高いものにした。主要な仕掛けには、音を出す仕掛け、光を発する仕掛け、「送飯的」(食事を届けるように、下から上空の凧本体に上がっていき、本体にぶつかると、半分に割れて下に降りてくる)ものがあります。

 

音を出す仕掛けには、「風琴」(オルガンのように風を送り込んで音を出す)、「笛哨」(呼び子の笛)、「鑼鼓」(銅鑼や太鼓)などがあります。「風琴」は「竹条」(竹を裂いた棒)で「湾弓」(挽弓、拉弓とも。弦楽器で弦を弾いて音を出す弓)を作り、糸や薄く削った竹のリードを「琴弦」(琴線。弦楽器の弦)とし、これは俗に「琴縧子」(琴の糸)と呼ばれます。弓と弦が「風琴」に取り付けられ、凧を揚げると上空で風が吹いて「琴弦」を振動させ音が鳴ります。「風琴」は一般に1.7メートル以上の大型の凧に取り付けられます。「琴縧子」、つまり弦は二本、三本、四本のものもあり、それぞれ弦の長短、太さが異なり、出る音の高さが異なります。したがって三本や四本の弦を付けた「風琴」ではいくつかの音が共鳴して聞こえることになります。また竹笛や呼び子を結び付けたものもあり、耳に心地よい音を出すことができます。

呼び子付きの凧

 

その他の音を出す仕掛けとして、「背鑼鼓」(銅鑼や太鼓を背負う)があり、これは竹の棒で銅鑼や太鼓の架台を括りつけ、架台の上に小さな銅鑼や皮を張った太鼓を吊るし、風車の付いた「撥片」と太鼓のばちが取り付けてあります。風車が回ると「撥片」が動いてばちを動かし、銅鑼や太鼓を打ち鳴らす仕組みになっています。凧が上空に揚がると、銅鑼や太鼓の音が天空より鳴り響き、たいへんおもしろいのですが、凧に取り付ける制約上、あまり大きな音は期待できません。「背鑼鼓」の凧は通常夕方から揚げ始め、夜のとばりが降り、あたりが静かになってから、この仕掛けの妙味を味わうことができます。

背鑼鼓

「背鑼鼓」を組み込んだ凧

 

凧が上空に揚がって後、特殊な仕掛けを使って色紙片や色紙の短冊、紙の造花などを凧の糸に沿って上空に上げ、凧の傍まで来るとスイッチの入る仕掛けがあり、紙片や造花が上空でまき散らされ、ひらひらと満天を漂い舞い落ち、その情景は珍しく壮観です。こうした仕掛けは「送飯的」と呼ばれ、ちょうど凧に食糧(兵糧)を送るかのようであるのでこう言います。「送飯的」の構造は複雑で、竹の架台、「飯盒」、翼、上空の凧に当たると駆動する仕掛けが含まれます。竹の架台には開いたり閉じたりさせることのできる翼(羽)が取り付けられ、開いた時は「硬翅風筝」と似た姿になります。

「送飯的」、上空の凧にぶつかると翼が閉じる仕掛け

 

「飯盒」は底が開閉する紙の箱で、紙片や造花はこの箱の中に入れられます。凧が上空に揚げられて安定したら、そこで凧を固定し、凧の糸の下端に「送飯的」を取り付け、翼を広げて風力を使って凧糸に沿って上昇させ、そのまま上空の凧の下の横向きの棒にぶつかったら、仕掛けを動作させ、紙箱の底を開き、紙片を撒き落とさせ、同時に両翼を閉じると、「送飯的」は凧糸に沿って下降し、下で凧を揚げている人のところまで滑り落ちてきます。

「送飯的」、上の赤い凧に向け上がって行く

 

もうひとつ、もっと簡便な方法で「送飯」することができます。紙片を紙か布でできた袋に入れた小包を作り、糸で縛って梱包し、包みの糸の上に火を付けた線香を貼り付けるのです。線香の長さは凧の揚がった高さにより調整します。凧を揚げて一定の時間が経つと、線香の火が包みの糸に移って焼き切るので、袋が開け、中の紙片が空中にまき散らされるというわけです。

 

更に、凧に提灯を送る仕掛けがあり、その構造、原理は「送飯的」と似ていて、火を点した提灯を「飯盒」の代わりに取り付け、時間になると提灯を空高く上げ、時には一列に連なった提灯を空に上げることができます。提灯を揚げるのは普通夕刻に行われ、凧が上空で一定の位置に固定されて後、夜のとばりが降りてから、火を点された提灯が夜空に上げられ、たいへんおもしろいものです。

 

凧の競技要素を強めるため、古くから競技凧が生み出されました。つまり凧で空中戦を行い、相手を絞めて落とした方の凧を勝ちとするのです。多くの地方でこのような凧が流行し、その中でチベットの競技凧が最も代表的なものです。多くが正方形かひし形の「硬拍子」の凧であり、凧糸の表面は糊で付けたガラス粉で覆われています。試合では、自由に対戦の取り組みを決め、審判員を出します。凧が一定の高さまで揚がったら、審判は「試合開始」を宣言し、双方は技巧を尽くして攻撃を行います。選手は自分の凧を操縦して、空中で旋回、上昇、下降、飛行、突撃を行って相手の凧をかく乱し、またガラス粉で覆った凧糸で相手の糸を切りに行き、一方の凧が撃墜されるまで攻撃を繰り返します。

チベット・ラサの競技凧

 

(四)中国凧の芸術性

 

中国の凧の芸術上の特色は、その造形、装飾図案、それが反映された思想や感情の三つから理解することができます。この三つが密接に組み合わさることで、中国の凧は世界中の凧の中で独自の位置づけを切り開いていると言うことができます。

 

凧の作者はその設計から造形、色彩、紋様、更に凧を遠くから見た時、近くで見た時の効果などを併せて検討します。中国の伝統凧には多くの固有の題材があり、それらの造形、色彩は伝承される中で絶えず改良、改善され、各地の凧の独特な風格を形成しています。

 

北京地区の伝統凧は「沙燕」(イワツバメ)で、自然界の翼を広げて飛び回る小さな燕の形象に取材しています。「沙燕風筝」は造形上、燕の翼を広げて飛ぶ動きを誇張し、翼の力量と尾翼を刀のようにピンと伸ばした様子を強調しています。またそれと凧の風を受けて飛ぶ構造、原理と結びつけています。「沙燕」の装飾図案は同様に燕の姿形に基づき、その眼と爪の形状を誇張して表現し、また民俗的な特色と強い装飾性を反映しています。

 

「沙燕」凧の基本の形態には様々なバリエーションがあります。「肥燕」、「痩燕」、「雛燕」、「比翼燕」などです。北京の民謡に、「肥は男と痩せは女と比べ、雛燕は子供、双燕は夫婦と比べる」というのがあります。試しにこの四種の「沙燕」を比較すると、自ずとそれぞれの特色が見えてきます。「肥燕」は雄々しく力が強く、翼や頭、腹、しっぽが大きくふくよかで、男性の気質を象徴しています。

肥燕

 

「痩燕」は各部が細長く、繊細で、女性のうるわしくしなやかな特徴を表現しています。

痩燕

「雛燕」は体が豊満で子供らしく拙く、無邪気さが見て取れ、天真爛漫な「胖娃娃」(太ったお人形さん)となっています。

 

雛燕

 

比翼燕は夫婦仲良く並んだ様子を表します。

比翼燕

 

この四つの「沙燕」の象徴するところは相互に対比し、相互が引き立てあうところに意味があり、少し見比べればそれぞれの鮮明な特徴と明確な寓意を見て取ることができます。

 

「沙燕」凧の装飾紋様には単色と彩色の二種類があります。彩色の「沙燕」凧は先ず墨の線で眼、口、爪、翼など主要部分の輪郭を描き、その後様々な彩色の図案を描き入れていき、その図案には様々なバリエーションがあります。よく見かけるのは、両翼に図案を絵付けしたものです。コウモリの紋様は「沙燕」凧で最もよく見る装飾紋様で、「五福捧寿」、「洪福斉天」、「多福多寿」、「福寿綿長」、「福寿双全」などの図案があり、コウモリ紋は更に変形して尾翼、腹部の装飾に使われ、時には「沙燕」のくちばしの代わりに使われたりします。

五福捧寿

 

コウモリ紋様の他、多くの伝統図案が「沙燕」の装飾に使われ、例えば翼に白鶴を描けば「白鶴延年」、九匹の龍を描けば「龍生九種」と言い、ヤマネコ、蝶、牡丹を描けば「耄耋富貴」màodié fùguì(高齢の方が十分な富を持ち、健康で長生きされるのを祈る)、梅、竹、菊を描けば「四君子」などがあります。

耄耋富貴

 

「沙燕」凧の腹部と尾翼の間も装飾の大切な部分で、俗に「腰節」と言います。多くは連続する紋様を何層かに分けて描き、何層に分けるかで幾「道腰節」と言います。例えば三層の連続図案は「三道腰節」、五層なら「五道腰節」と言います。「腰節」の図案は多くが伝統紋様から取られ、例えば「万不断」、「拐子龍」、「雲鈎」、「回文」、「蓮花瓣」、「方勝」、「盤腸」、「如意鈎」などの図案(吉祥図案)があります。「腰節」の図案は集中し、まとまっており、「沙燕」の白い胸と尻尾を際立たせ、模様のリズム感を生み出しています。

 

「沙燕」凧のもうひとつの有名な装飾方法が「反画法」で、すなわち一羽の標準的な単色の「沙燕」図案を裏焼きして描かれます。この画法は写真のネガと同じで、元々濃い色の部分を淡い色で描き、元々空白の部分を濃い色で描き、こうして北京の「沙燕」凧の一品種、「黒鍋底」が生まれました。「黒鍋底」は黒色で描いた「沙燕」で、赤色で描けば「紅鍋底」、青で描けば「藍鍋底」です。

「黒鍋底」の「沙燕」

 

写実手法で動物の造形を真似た凧はもうひとつの重要な流派で、よく見る凧は鷹、燕、白鶴、錦鶏、蜻蜒、胡蝶などがあります。これらの動物の姿形と凧の造形はよく似ていて、どれも二枚の開いた翼を持ち、空を飛ぶ時の様子や、遠くから見た効果も、自然です。凧に絵付けする時はできるだけ真に迫って生き生きとするよう心掛けます。例えば鷹を描く時は、翼の羽の毛一本一本をはっきり描き、少しも疎かにしません。トンボを描く時は翼の網の目の通っている方向をきっちり描き、細かい網の目を表現する。こうした凧は一見すると作りが簡潔で、中国の一般の人々の審美習慣に合っています。

 

写実的なスタイルの凧の図案は中国の伝統的な画法の「重彩」(水墨画以前の中国の伝統絵画)の表現方法と同じく、線描と輪郭を主要な手段とし、その後彩色を施していきます。多くの凧はそれ自身が美しい「重彩」絵画の作品となっています。

 

人物凧は凧の造形の制約を受けるため、背景の図案を加えることで、画面が凧の両翼いっぱいに描かれるようにする必要があります。よく使われる背景の紋様は、雲紋、花卉、海の波、リボンなどです。例えば「天女散花」、「孫悟空」、「鍾馗」などの凧は、いずれも主要な人物の姿を描くと同時に、濃密な雲紋が描き加えられています。

 

物の形の凧は一般によく見かけるもので、多いのは「扇子」、「宮灯」(八角形や六角形の灯籠)、「八卦」、「鼎」、「雨傘」、「花籃」などです。その他、宝塔、亭閣、ダイコン、ハクサイ、果物などの凧もあります。「八卦」、「宝塔」などの凧が決まった形式で作られている以外は、その他の多くは作者の即興の創作で、決まった形式は存在しません。

 

中国凧の主な装飾方法は絵付けであり、先に紙を糊付けしてから絵を描くか、先に絵を描いた紙を糊付けするかのどちらかです。木版で水彩塗料を印刷して装飾紋様を完成させる方法では、先ず凧の各部分の図案をいくつかの部分に分解し、各部分を小型の木版に刻み、切った紙に個別に印刷したら、最後に糊で貼り付けていきます。絵付けと印刷の結合方式では、先ず図案の輪郭を印刷し、糊で本体に貼り付けてから、後で色を入れていきます。

 

中国凧は複合的な民間芸術であり、絵画、結わえた糸の調整、自然科学、民俗的な風情、文化やスポーツとしての娯楽などが結びついています。したがって、人々は様々な角度から凧を見ることになり、民間芸術の立場から凧の芸術的風格や造形、色彩、装飾の特徴を研究することができますし、自然科学の立場から凧の開発の実用価値を考えることもできます。民俗学の立場から凧の民俗的な意義を検討することもできますし、スポーツ、健康増進の立場から凧が人類に提供した健康増進作用を調べることもできるのです。