のんきいきいき So(走) Happy! -櫻庭健一の日記-

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自分の認知症を想像する

2014年09月02日 02時50分31秒 | Weblog
多くの人に欠けていると思う感覚。
自分が認知症になったときの想像ではないだろうか。

認知症になった人の多くは自分が認知症であるとの自覚症状がない。
私の父もそうである。
バリバリの認知症だが、弘前の施設にいる自分の妹に会った感想。
「なんか呆けちゃったな」
裏を返せば自分は呆けていないと思っているということ。

日常会話でも自らを
「呆けちゃったのかな」
と言うことはあるが、あくまで冗談口調。
精神科の外来で診察を受けている段階で気付きそうなものであるが。
先生の
「頭の働きを良くする」
という説明に疑問を持っていない。

何らかの理由での全部演技で、実は自分も認知症に気付いていて気付いていないふりをしているならたいしたものですがね。
おそらく違うでしょう。

両親がまだ若かった頃。
認知症が話題にのぼることはあった。
近所の人に「嫁がご飯を食べさせてくれない」というお年寄りとか。
哀れであったり、笑いであったりのニュアンスを含んでいたが。
自分が認知症になったときのことは話題にならなかった。
その想像力が欠けていた。

無理もないことかもしれない。
私自身、認知症イコール人間の崩壊のような感覚は持っていないけれど。
認知症になるということは、身体の衰え、病気とは意味が違うというのは多くの人の共通認識だろう。
考えたくない。
本能的な防御反応かもね。

若年性のものもある。
私もいつ認知症になってもおかしくない年齢になった。
心構えは必要だ。
周囲の若い人、たとえば甥っ子姪っ子にはお願いしておこう。
「お願いだから認知症になったら教えてね」と。
認知症から逃げたくない。
直視したい。
向き合いたい。
だから自分が認知症になったときはきちんと告知して欲しい。

認知症を怖れてはいない。
そのこと自体は本人の気持ちを不幸せにすることはない。
両親を見ていてよくわかったこと。
死の恐怖を和らげるための偉大な「能力」とも思う。

認知症は暗闇ではない。
自分がなったときの想像力は持ち合わせていたい。
難しく複雑なことではない。
それは実はとてもシンプルなこと、感情なのである。

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