三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

空堀、土塁?

2020-01-21 22:03:38 | 日本の城

林の中に遺構かもしれない構造物発見!

一見空堀のように見える。

 

続いてあるこちらは土塁のように見える。ここは一帯が中世の城館跡のようにも見える。

しかし、決め手に欠ける。

この先どのように調査をしていくべきなのか。

前途多難!!

 

 


こだわりの50城

2019-12-15 21:06:55 | 日本の城

なぜか”50城”にこだわる城本がある。

県単位にまとめられたA5判シリーズもの。

2006年発刊

2009年発刊

2010年3月発刊

2010年9月発刊

2012年発刊

2013年発刊

三重県の市単位では、A4判。

 津市 2016年発刊

 

松阪市 2019年発刊

手持ちの本はこれだけだが市中では”50”にこだわった命名の城本がたくさんあるようだ。

こだわりのコレクターも居られるかもしれない。

まだまだ調べる余地はありそうだ。

 


令和1年の総括・準備

2019-12-02 12:49:55 | 日本の城

残すところ、今年もあと1ヶ月となった。

振り返ると、山城ライフワークのこの一年は最悪となりそうだ。

訪城軒数は50件に遠く及ばないのではと。

いったい何をしていたのだ。

 

なのに、身体年齢だけは確実に1歳加算されていく。

まだ平成31年であった年明けの頃と

300日過ぎた今とでは、格段に体力が落ちたと実感している。

 

来年こそは、、、である。

自身の体力年齢と残りの山城数を天秤にかけたとき、

来年から出直さないと、という焦りが出てきた。

 

細かい計算は後日としよう。

ザット、20~30/月、年間300か所?

とにかく、沢山。

それがどんなに過酷な数字なのか!

 

 

 

 

 

 


津の城一覧

2019-08-23 21:43:42 | 日本の城

 

三行城 津市 河芸町三行 長野氏の一族工藤が伊藤と改姓し助重が築城
伊勢上野城 津市 河芸町上野 元亀元年に信包がはいる。
黒田城 津市 河芸町北黒田 長野家家臣。信長により落城。
秋葉城 津市 河芸町南黒田 天正12年に秀吉により落城。
楠原童子谷城 津市 芸濃町楠原 応仁期に築城。信長に属した。
楠原向市場城 津市 芸濃町楠原 楠原城の支城。
林館 津市 芸濃町林字殿町 長野氏の一族。天文5年に関氏に敗れた。
林城山城 津市 芸濃町林字城山 天正11年に秀吉と合戦。
忍田城 津市 芸濃町忍田 忍田氏の居城。
雲林院城 津市 芸濃町雲林院 長野氏の一族。雲林院氏の居城。
椋本城 津市芸濃町椋本  
野呂氏館 津市 芸濃町椋本(椋岡神社跡) 雲林院家家臣。信包に謀殺された。
前山城 津市 芸濃町安西 雲林院家家臣。
萩野城 津市 芸濃町萩野 北畠家家臣。
岡本城 津市 芸濃町岡本 若菜五郎らと元久元年に乱を起こし落城
安濃城 津市 安濃町安濃 長野氏の一族。細野城よりうつる。
太田城 津市 安濃町太田 北畠家家臣。永正年間に築城。
山出城 津市 安濃町山出 草生家家臣。草生城の支城。
草生城 津市 安濃町草生 長野氏の一族。永禄年間に信長により落城。
前田城 津市 安濃町前田 草生氏の臣 字城屋敷にある
二子城 津市 安濃町二子 城山、丘頂にあった。
藤ヶ森城 津市 安濃町岡南 連部城の支城。対岸にある。
浄土寺城 津市 安濃町浄土寺 秀吉の木造城攻撃に際し築城
連部城 津市 安濃町連部 秀吉の木造城攻撃に際し築城
今徳城 津市 安濃町今徳 北畠家家臣。永禄年間に落城。
長野氏城 津市 美里町北長野 文永11年(1274)に築城。長野氏の本城。
長野城 津市 美里町桂畑 3つの曲輪群
細野城 津市 美里村細野 長野氏にはん反し北畠氏に属して津に移る
井面城 津市 美里村井面字大石 文明16年に築城。家所氏の分家。
家所城 津市 美里村家所 貞治元年(1362)に築城。家所氏の居城。
今峯城 津市 美里村足坂 土岐氏光の子 北畠氏に属す
外山城 津市 美里村五百野 土岐弾正の子 天正年間織田軍により滅ぶ
高野尾城 津市高野尾町三月田 元久元年の三日平氏の乱の城。
高野尾里城 津市高野尾町 土豪赤塚氏の居城 削平地残る
川北城 津市大里川北町 長野氏の一族、川北氏の居城。
大古曽城 津市一身田町大古曽 丘陵にある。
峯治城 津市一身田町上津部田 永禄11年に信長により落城。
上津部田城 津市一身田町上津部田 城屋敷と言うところが3個所ある
栗真中山城 津市栗真中山字南垣内 上野の移るまでの分部氏の居城。
乙部城 津市中河原字城内 長野家家臣。
安濃津城 津市丸之内 のちに元亀2年に織田信包が再築城。
渋見城 津市渋見町 乙部から移動。
分部城 津市分部字東垣内 長野家家臣。分部氏代々の居城。
殿村城 津市殿村字井尻 応永年間に築城。
浜垣内城 津市野田字浜垣内 地頭の城。伊藤氏と戦う。
片田城 津市片田久保町平尾 北畠氏の臣 別名秋山出城という
神戸城 津市神戸字小世口 中尾内蔵允の子 半田城の支城
半田城 津市半田字上寺 長野家分家で家臣。
池ノ谷砦 津市垂水字池ノ谷 前方後円墳を利用した砦。
垂水城 津市垂水町井戸谷門田 垂水城は、半田丘陵の東端部に位置し、現在は、宅地、道路、ショッピングセンターなどになり、遺構は消滅しています。平成五年から六年に掛けて発掘調査が行われ、城の概要が確認されていますが、城主や歴史については不明です。
藤方城 津市藤方 「勢陽五鈴遺響」に記載あるが不明
小森上野城 津市小森上野字城山2丁目 北畠氏の臣 工藤氏と合戦 後に除封
小森城 津市高茶屋4丁目 昭和18年頃土塁取り壊した
久居陣屋跡 津市 西鷹跡町 寛文9年 藤堂高虎の孫 分封5万石
宮山城/城山城 津市 戸木町敏太 戸木城の支城。天正12年に落城。
戸木城 津市 戸木町桃里 天正12年に秀吉により落城。
大塚氏館 津市 戸木町大塚 「伊勢名勝志」に記載あるも不明
田中氏館 津市 戸木町桃里 「伊勢名勝志」に記載あるも不明
川方城 津市 川方町里ノ内 木造氏の分家。天正12年に落城。
牧城 津市 牧町西馬場山 木造城の支城。天正12年に落城。
須賀瀬城 津市 須賀瀬町大通 北畠家家臣。赤堀氏を討った。
木造城 津市 木造町城 木造氏の本城。
七栗一色館 津市久居一色町馬屋敷 北畠氏の臣 大河内合戦で活躍
森城 津市 森町森垣内 大河内・戸木籠城戦に出陣。
庄田城 津市 庄田町上出 三日平氏の乱で落城。
榊原城 津市 榊原町赤部谷 仁木義長の裔 一族に榊原康政が知られる
矢野城 津市 香良洲町地家 北畠家家臣。矢野氏の居城。
波瀬館 津市 一志町波瀬 北畠氏の分家。天正5年に落城。
波瀬城 津市 一志町波瀬 北畠氏の分家。天正5年に落城。
出丸城 津市 一志町波瀬 波瀬氏の分家。信長により落城。
岩ノ谷城 津市 一志町波瀬  
上出城 津市 一志町波瀬 斎藤実盛の子孫。平氏の居城。
大仰城 津市 一志町大仰 北畠家家臣。
八太城 津市 一志町八太 北畠家家臣。滅亡後は秀吉家臣。
小山城 津市 一志町小山 永禄12年に信長により落城。
小原城 津市 一志町小原 北畠氏の分家。
真見城 津市 白山町真見 山頂にあった。
家城城 津市 白山町南家城 北畠家家臣。家城氏の居城。
川口城 津市 白山町川口 丘陵にあった。
山田野城 津市 白山町山田野 北畠家家臣。北畠具教を暗殺した。
八対野城 津市 白山町八対野 市川氏の居城。
稲垣城 津市 白山町稲垣 北畠家家臣。
上ノ村城 津市 白山町上ノ村 北畠家家臣。
口佐田城 津市 白山町佐田 天正12年に蒲生氏郷と合戦。
奥佐田城 津市 白山町佐田 北畠家家臣。
倭城山城 津市 白山町中ノ村 永禄年間に築城。
南出城 津市 白山町南出 天正12年に蒲生氏郷により落城。
三ケ野城 津市 白山町三ケ野 小倭七党に満賀野氏が数えられるので関係者かも
川上城 津市 美杉村川上 北畠家家臣。日置大膳の弟。
御嶽城 津市 美杉村三多気 天正4年に織田信雄と合戦。
中森氏城 津市 美杉村太郎生 北畠家家臣。
今井氏館 津市 美杉村太郎生 「伊勢名勝志」に記載あるも不明
安藤氏館 津市 美杉村太郎生 「伊勢名勝志」に記載あるも不明
八鉢城 津市 美杉村八知 伊勢・伊賀の境界の城。
霧山城 津市 美杉村下多気 北畠氏の本城。天正4年に落城。
北畠氏館 津市 美杉村下多気 北畠氏の居館。現在の北畠神社。
六田館 津市 美杉村下多気 北畠氏の分家。天正4年に落城。
伊勢地城 津市 美杉町石名原  
椿原城 津市美杉町下之川  
三谷城 津市美杉町下之川  
経ケ峰城    
城坂城 津市安濃町戸島 詳細不明。東西200m×南北80mの巨大城館か。
北畠満雅陣地    
長谷砦 津市一志町井関・井生  
林北浦城    

片野館      津市一志町片野 北畠具教の母の館。北畠氏代々の別荘地。

椎木城      津市美里町北長野 伊賀街道を抑える砦か。

剣ヶ峰城     津市美杉町川上/奥津上多気 難関の山深い要害、御所を護る大和口の見付け城。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


上原城

2018-01-08 08:28:52 | 日本の城

 

住所;茅野市ちの上原

築城時期;文明元年(1466)頃

標高;978m

形式;根小屋式山城

主な遺構;曲輪、土塁、堀切、竪堀、虎口

主な城主;諏訪頼重---板垣信方

諏訪の歴史を紐解くうえで、上原城は不可欠な城である。諏訪地域、ひいては長野県内において城郭部分と居館跡がセットで構成されていることがわかる城は少ない。それらが良好に残る城として、上原城は貴重な城である。

参考文献;長野の山城ベスト50  戦国の城ドキュメント

地図

 

 


楠原 童子谷城・向市場城

2017-08-19 21:39:48 | 日本の城

楠原 童子谷城・向市場城

城名
 楠原童子谷城
読み
 くすはらどうじだにじょう
住所
 津市芸濃町楠原
築城年
 応仁年間(1467~1469)
築城者
 山田重勝
形式
 平山城
遺構
 土塁
規模
 東西130m×南北155m
城主
 山田重勝 -- 重益
標高
 73m
比高
 17m
歴史
 南北朝の頃、北朝側の足利将軍の命を受けた山田重勝が楠原の地に入り支配した。南朝側の北畠氏に対する構えとして城を築き居住した。
 その後、子孫は織田氏に従い、重益になって近江の安土で死んだという。(勢陽五鈴遺響)
書籍
 勢陽五鈴遺響 三重の中世城館
感想
 守り堅固な城には見えない。居館風である。近辺で大きな戦は無かったのだろうか。同じように向市場城にも言える。

 

 

城名

 楠原向市場城
読み
 くすはらむかいいちばじょう
住所
 津市芸濃町楠原
築城年
 応仁期(1467~)
築城者
 山田重孝
形式
 平山城
遺構
 四方に土塁、南東部に虎口、
規模
 東西120m×南北70m
城主
 山田重孝 -- 瀬古氏
標高
 67m
比高
 14m
歴史
 童子谷城と共に山田氏の城であったとされている。一時、瀬古氏が治めていたので、楠原の南東部を「瀬古」と呼んでいる。
経緯
 山田氏の分家、後に瀬古氏を名乗る。(勢陽五鈴遺響)
書籍
 勢陽五鈴遺響 三重の中世城館
現地
 畑から刀・槍が出土した。
感想
 守り堅固な城には見えない。居館風である。近辺で大きな戦は無かったのだろうか。同じように童子谷城にも言える。
地図

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波多瀬城

2017-06-18 14:12:34 | 日本の城
城名 波多瀬城    
住所 多気町波多瀬字小屋城 波多瀬集落の中央の丘陵頂部
築城年 天正年間    
築城者 野呂實秀    
形式 山城    
遺構 平坦地のみで他に遺構はない。東側の登城道だけが面影を忍ばせる。
城主 波多瀬三郎実徳    
標高 120m    
比高 30m    
歴史  野呂越後守實吉の次男實秀が波多瀬(奉瀬)に居住し五箇篠山城の支城として築城 大永年間 1525
  波多瀬観音寺建立 永禄年間 1558-1569
  織田信長伊勢攻略で焼失 永禄十二年 1569
  織田信雄田丸城に移る 天正四年 1576
  北畠具親蜂起波多瀬三郎死去 天正五年 1577
  波多瀬観音寺再建 貞享二年 1685
  野呂元丈生誕 元禄六年 1693
  同死去 宝暦十一年 1761
  現在;元丈の湯    
書籍 勢陽五鈴遺響 三重県の城    
一族 叔父;山副十六兵衛実有、六呂木十之右衛門実忠
勢陽五鈴遺響 同処乾位山上ニアリ 字ハ小屋城ト称ス 小城ノ意ナルヘシ 今其址に富士権現ノ
  祠を祭レリ 波多瀬三郎住セリ     
  北畠物語云 六呂木山副波多瀬三人 船江の本田方に預ケラル 中ニモ波多瀬
  三郎生年15歳無双ノ容顔ナリ 信雄コレヲ惜シミテ一命ヲ助ケントス 波多瀬辞
  シテ云 三人同罪ナリ我一人生テ面目ナシ 故ニ諸共ニ害ヲ蒙ラント云
  二人諌ムトイヘトモ不用シテ終ニ三人トモ殺害セラル 又何レモ磔ニカケルルトキ
  主君ノ為ニ一命ヲ舎ルコト弓矢ノ面目ナリト 同音ニ謡ヒ戯レ終ニ害セラル寔ニ
  波多瀬若年ナレトモ 義ヲ重ンシテ死を喫ス  
乾位山山頂にある。字小屋城という。小城の意味だろう。今は富士権現の祠が
  祭られている。波多瀬三郎が住んでいた。
  北畠物語に云われている。六呂木氏、山副氏、波多瀬氏の三人船江の本田氏に預けられている。中でも波多瀬三郎は
  15歳にて他にもない顔立ちだ。織田信雄は惜しんで命を助けようと言うが波多瀬三郎は拒んで云った。
  三人とも同罪なので自分だけ助かっても面目が立たない。故に三人とも殺せと言った。
  二人は波多瀬を諌めたが三人とも殺された。磔をされた時には
  主君のために命を捨てることは武士の面目である、といった。
  波多瀬三郎は若干15歳であるが義を重んじて死を極めた。
現地 櫛田川沿い南岸の1Km四方の平野部の真ん中にある山頂
考察 現地は造成され遺構は無い。平山城で要害性は低い。
地図  https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&authuser=0&mid=1b9GNkmeDX4-9hNZxTF1K1sldMUw&ll=34.47998617969654%2C136.43332354756671&z=19    


草生城

2017-04-07 21:51:33 | 日本の城

 草生城(くさわじょう)

草生城

城名 草生城
読み くさわじょう
住所 津市 安濃町草生
築城年 不明
築城者 草生氏(くさわし)
形式 平山城
遺構 曲輪、土塁、空堀、説明板
規模 東西250m×南北90m
城主 豪族、歴代の城主の記録はなく一部が垣間見られる。
  永享年間(1429~1440)草生大和守
  天文年間(1532~1554)草生式部少輔
  永禄年間(1558~1569)草生越前守
  他に草生民部少輔の記述がある。
標高 130m
比高 70m(現況は道路が脇まで通っている)
歴史 大和守から越前守まででも130年から140年の経過をたどる。
経緯 藤氏を祖先とする長野家与力(長野工藤家、長野藤房--豊藤(とよふじ)--)
環境 経ヶ峰の東麓にある。尾根がくびれた所を城域の西端とし東に向かって郭が展開する。標高130mの所に本郭を備え3方を深い堀が巡る。
  本郭に接する東側の一辺は二の郭が一段低く接続する。その境界には石積された痕跡が見うけられる。
一族 長野工藤家の一族。永禄年間に信長により落城。
家臣 侍三百人馬上五十小人二百都合五百大将也
現地 北と南は谷が迫り、西は尾根が細くくびれている。東は伊勢湾を望むことができ安濃の穀倉地帯が眼下に迫る。城郭はその東に向けて展開される。草生城と同様の環境下である数キロ圏内に十数個の城が存在することも重点事項である。
考察 草生城も織田信長伊勢侵攻の際に安濃城らとともに落城した。
感想 本郭を三方(北・西・南)から囲む深い空堀が見事である。
その他 平成29年4月5日訪城
地図  https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&authuser=0&mid=1sE7i85-3qeA10HRT1ZDejbj3Ddw&ll=34.763419506629475%2C136.4133256604523&z=16

スライド

http://www.digibook.net/d/c555c557a0889fddb7b61744b7ec970f/?viewerMode=fullWindow

 

 


遠州飯田城

2017-02-27 13:23:30 | 日本の城

遠州・飯田城「二重堀切」

デジブック 『遠州飯田城』

城名 遠州・飯田城
住所 静岡県周智郡森町飯田
築城年 応永初頃
築城者 山内対馬守
形式 山城(丘城)
遺構 郭(主,二)土塁、物見郭、二重堀切、
規模 東西100m×南北150m
城主 山内氏    
標高 53m    
比高 20m    
歴史 弘安4 1281  飯田の荘上郷(天方地区)村等の地頭を安堵された山内道茂を祖とし、山内道弘・道秀の頃に遠江に赴き天方城を築いたとされる。(注1)
  嘉暦2 1327  飯田の荘下郷(飯田地区)において山内孫太郎道光、山内刑部道俊が相論に及んでいる文書があることから鎌倉末期には山内孫太郎道光が当所周辺に館を構え田地を領有していたことが窺える。(山内刑部道俊が横領しようとしたらしい)
  応永初頃 1394~  飯田城の築城。山内対馬守が始め天方城に居て後、飯田城を築いて移り済み、弟の山城守に天方城を守らせた。故に弟を天方氏という。
  応永8 1401  飯田山に崇信寺を開き菩提寺としその境内を古城と言い伝えている。
  長禄元 1457  山内道美の子息久道が父道美の三十三回忌法要を行う。
  永禄12 1569

 

   6月、今川氏の被官から離れることのなかった山内大和守は、徳川家康の遠江侵攻進行によって落城、千人塚に葬られた。

考察  南北に走る尾根の西側に構えられ眼下に信州街道を望むことから西側を主に守備した造りとなっている。反対側の東側の山は低く丘陵状でわずかに空堀か水堀が防御の施設であった。丘陵の館跡というロケーションである。
感想  訪城 2014.6.20。  四百数十年前に栄華を誇っていた山内氏の城を訪ねた。現地は整備され案内もよく辺りは開放的で子供連れでも安心して行けるような雰囲気である。特に案内板の想定図は完成後半年であったことでもありキレイで分かり易く子供にも想像を促すよい資料だと思った。
経緯  この城跡は2012年ころから本格的に保存活動が始まったようである。最悪の場合栗園として開発され形が無くなっていたかもしれないところを保存会が発足され現在に至るようである。
   日本中では既に資料の中だけでしか分からなくなってしまった城がたくさんある。吾輩の近くでは織田信長の伊勢侵攻の際に拠ったと言われる山城が採石場となり無くなってしまった例がある。
   形あるものはいずれ無くなるとは思うが敢えて人の力で壊していくのは心苦しい思いがする。
注1 弘安4 1281 元寇のころ
地図      

https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&authuser=0&mid=1j4aZePCimrjegODYWTSvParrOrY&ll=34.805202496870606%2C137.91958822076538&z=17

 


阿坂城のろし実験

2017-02-19 08:07:58 | 日本の城

阿坂城のろし実験

2017年2月16日 三重県松阪市大阿坂町 桝形山 阿坂城(別名;白米城)

午前9時 狼煙(のろし)実験 

主催;松阪山城会(会長;松本薫氏)参加メンバー22名

目的; 中世における情報伝達の手段は限られたいた。口頭・手紙などはスピードに欠けるため 非常時には狼煙(のろし)が用いられたと考えられている。

 中勢においては北畠氏が国司を勤めていた。その関係する山城・平城が各所に点在する。そして各所に狼煙台跡と思われる遺構が残されている。髯山小原城黒米城、堀坂山、矢倉山城など。

 山間部の多気の北畠御所及び霧山城と平野部の大河内城から田丸城にかけての各城との連絡網として狼煙が使われていたと考えられる。

 そこで実際に拠点となる場所から狼煙を上げて、他の拠点からどの程度確認できるかどうかを実際に試してみることになった。

方法;阿坂城は北畠氏の拠点の一つで北から攻めてくる軍勢をいち早く安全に確認できる場所であり又狼煙を中勢から南勢に伝えるために地理的に有効な場所である。

 このキーポイントとなる阿坂城で狼煙を上げて各所で確認できるかどうかを実際に試してみる。狼煙は専用の缶詰があり中クラスを2本同時に着火する。煙が拡散しにくいようにもみ殻の焼却装置を使う。

実験;実際の現場の様子をスライドにまとた。詳しくは後日、会から発表される予定。