三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

波多瀬城

2017-06-18 14:12:34 | 日本の城
城名 波多瀬城    
住所 多気町波多瀬字小屋城 波多瀬集落の中央の丘陵頂部
築城年 天正年間    
築城者 野呂實秀    
形式 山城    
遺構 平坦地のみで他に遺構はない。東側の登城道だけが面影を忍ばせる。
城主 波多瀬三郎実徳    
標高 120m    
比高 30m    
歴史  野呂越後守實吉の次男實秀が波多瀬(奉瀬)に居住し五箇篠山城の支城として築城 大永年間 1525
  波多瀬観音寺建立 永禄年間 1558-1569
  織田信長伊勢攻略で焼失 永禄十二年 1569
  織田信雄田丸城に移る 天正四年 1576
  北畠具親蜂起波多瀬三郎死去 天正五年 1577
  波多瀬観音寺再建 貞享二年 1685
  野呂元丈生誕 元禄六年 1693
  同死去 宝暦十一年 1761
  現在;元丈の湯    
書籍 勢陽五鈴遺響 三重県の城    
一族 叔父;山副十六兵衛実有、六呂木十之右衛門実忠
勢陽五鈴遺響 同処乾位山上ニアリ 字ハ小屋城ト称ス 小城ノ意ナルヘシ 今其址に富士権現ノ
  祠を祭レリ 波多瀬三郎住セリ     
  北畠物語云 六呂木山副波多瀬三人 船江の本田方に預ケラル 中ニモ波多瀬
  三郎生年15歳無双ノ容顔ナリ 信雄コレヲ惜シミテ一命ヲ助ケントス 波多瀬辞
  シテ云 三人同罪ナリ我一人生テ面目ナシ 故ニ諸共ニ害ヲ蒙ラント云
  二人諌ムトイヘトモ不用シテ終ニ三人トモ殺害セラル 又何レモ磔ニカケルルトキ
  主君ノ為ニ一命ヲ舎ルコト弓矢ノ面目ナリト 同音ニ謡ヒ戯レ終ニ害セラル寔ニ
  波多瀬若年ナレトモ 義ヲ重ンシテ死を喫ス  
乾位山山頂にある。字小屋城という。小城の意味だろう。今は富士権現の祠が
  祭られている。波多瀬三郎が住んでいた。
  北畠物語に云われている。六呂木氏、山副氏、波多瀬氏の三人船江の本田氏に預けられている。中でも波多瀬三郎は
  15歳にて他にもない顔立ちだ。織田信雄は惜しんで命を助けようと言うが波多瀬三郎は拒んで云った。
  三人とも同罪なので自分だけ助かっても面目が立たない。故に三人とも殺せと言った。
  二人は波多瀬を諌めたが三人とも殺された。磔をされた時には
  主君のために命を捨てることは武士の面目である、といった。
  波多瀬三郎は若干15歳であるが義を重んじて死を極めた。
現地 櫛田川沿い南岸の1Km四方の平野部の真ん中にある山頂
考察 現地は造成され遺構は無い。平山城で要害性は低い。
地図  https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&authuser=0&mid=1b9GNkmeDX4-9hNZxTF1K1sldMUw&ll=34.47998617969654%2C136.43332354756671&z=19    


川俣谷の戦い

2017-06-17 21:03:30 | 古里の歴史

峯城遠景

 

かばただにのたたかい

 三重県松阪市飯南町から櫛田川を遡り飯高町に行きつくと川俣という地区がある。

 昔は櫛田川の上流部分のこのあたりを川俣谷(かばただに)と言った。

 そして、天正4年(1577)春の出来事であった。

 その前の年兄や親族を謀殺された弟北畠具親は織田信長の伊勢侵攻に奮い立った。

 北畠氏の恩顧諸氏のうち三瀬谷、初瀬街道筋、小倭はいち早く織田軍に挑むが

多勢に無勢ことごとく攻め落とされていった。

 最後に残ったのは川俣の谷深く籠った鳥屋尾氏、家城氏、峯氏、波多瀬氏、野呂氏、

滝野氏(注6)の諸将であった。

 北畠軍は森城(注1)に具親を迎え一同心を固く結び意気益々高まった。

 織田信雄軍は日置大膳以下、滝川、柘植、長野、本田、木造、秋山、沢、津川らが大軍を

率いて川俣の谷へ攻め寄せた。

 波多瀬城の波多瀬三郎、六呂木、山副(注7)は捉えられ櫛田川で磔にされた。

 日置大膳の弟・治部太夫は北畠軍の前方拠点である赤桶城(注2)、九曲城(注3)に夜襲を

掛けた。

 城を守る赤桶善四郎、粟野半六郎、田引家清らは良く戦ったが持ちこたえられず敗北した。

 次に多羅木峯城の峯筑後守時長(注4)と弟乙栗栖平八郎(乙栗子砦)(注8)も善戦したが力尽き自害した。

 大軍の信雄軍に川俣谷の各城は(注5)支えきれなくなり落ちて行った。

 家城主水祐之清は具親を脱出させるべく間道を伊賀へ向かわせた。主水祐はしんがりに立ち

追手を防いだが如何せん力尽き討ち果てた。

 具親は一先ず追手を逃れ安芸の毛利氏を頼って落ちのびた。

 森城が落ちるとともに信雄軍は最後に残った五箇篠山城の阿保、野呂一族を殲滅し、ついに北畠氏再興の夢ははかなく潰えてしまった。

 

 注1 森城 森城から蓮川を遡り山腹にある青田城が同時に落とされたと考えられる。

 注2、3 赤穂城 =閼伽桶城(閼伽桶善四郎)、九曲城(粟野半六郎)に加えて

   田引城(田引家清)も同時に落とされたと考えられる。

 注4 多羅木峯城 峯城と共に波瀬城も同時に落とされたと考えられる。現在は太良木

 注5 各城 富永館福本城を指していると考えられる。

 注6 滝野氏 現在の下滝野城主を指していると考えられる。

 注7 六呂木氏(六呂木城)、山副氏(霧館)の主と考えられる。

 注8 乙栗栖(古い表示) 乙栗子(新しい表示)

地図;https://www.google.co.jp/maps/@34.4154628,136.1618666,26801m/data=!3m1!1e3!4m2!6m1!1s1b9GNkmeDX4-9hNZxTF1K1sldMUw

 

 

伊勢新聞社刊 三重国盗り物語をベースに記述した。

上記に出現しない他の城を列記する。

 ・七日市城(角谷城)

 ・谷野城

 ・栃川城(和田丸城)

 ・滝野城

 ・高城

 ・上の原館

 これらは、川俣谷の戦いで関係する城ではないのかもしれない。別途、検証を必要とする。