三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

遠州飯田城

2017-02-27 13:23:30 | 日本の城

遠州・飯田城「二重堀切」

デジブック 『遠州飯田城』

城名 遠州・飯田城
住所 静岡県周智郡森町飯田
築城年 応永初頃
築城者 山内対馬守
形式 山城(丘城)
遺構 郭(主,二)土塁、物見郭、二重堀切、
規模 東西100m×南北150m
城主 山内氏    
標高 53m    
比高 20m    
歴史 弘安4 1281  飯田の荘上郷(天方地区)村等の地頭を安堵された山内道茂を祖とし、山内道弘・道秀の頃に遠江に赴き天方城を築いたとされる。(注1)
  嘉暦2 1327  飯田の荘下郷(飯田地区)において山内孫太郎道光、山内刑部道俊が相論に及んでいる文書があることから鎌倉末期には山内孫太郎道光が当所周辺に館を構え田地を領有していたことが窺える。(山内刑部道俊が横領しようとしたらしい)
  応永初頃 1394~  飯田城の築城。山内対馬守が始め天方城に居て後、飯田城を築いて移り済み、弟の山城守に天方城を守らせた。故に弟を天方氏という。
  応永8 1401  飯田山に崇信寺を開き菩提寺としその境内を古城と言い伝えている。
  長禄元 1457  山内道美の子息久道が父道美の三十三回忌法要を行う。
  永禄12 1569

 

   6月、今川氏の被官から離れることのなかった山内大和守は、徳川家康の遠江侵攻進行によって落城、千人塚に葬られた。

考察  南北に走る尾根の西側に構えられ眼下に信州街道を望むことから西側を主に守備した造りとなっている。反対側の東側の山は低く丘陵状でわずかに空堀か水堀が防御の施設であった。丘陵の館跡というロケーションである。
感想  訪城 2014.6.20。  四百数十年前に栄華を誇っていた山内氏の城を訪ねた。現地は整備され案内もよく辺りは開放的で子供連れでも安心して行けるような雰囲気である。特に案内板の想定図は完成後半年であったことでもありキレイで分かり易く子供にも想像を促すよい資料だと思った。
経緯  この城跡は2012年ころから本格的に保存活動が始まったようである。最悪の場合栗園として開発され形が無くなっていたかもしれないところを保存会が発足され現在に至るようである。
   日本中では既に資料の中だけでしか分からなくなってしまった城がたくさんある。吾輩の近くでは織田信長の伊勢侵攻の際に拠ったと言われる山城が採石場となり無くなってしまった例がある。
   形あるものはいずれ無くなるとは思うが敢えて人の力で壊していくのは心苦しい思いがする。
注1 弘安4 1281 元寇のころ
地図      

https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&authuser=0&mid=1j4aZePCimrjegODYWTSvParrOrY&ll=34.805202496870606%2C137.91958822076538&z=17

 


寺山城

2017-02-21 18:45:14 | 古城巡り

 

城名 寺山城
住所 伊勢市上地町字寺山
築城年 不明
築城者 不明
形式 平城
遺構 土塁?
規模 60m×70m
城主 上地左衛門太夫?
標高 12m
経緯  宝徳2年(1450)(注1)北畠軍が上地、中須、掛橋辺りを焼き払った。又、寛正6年(1465)には上地と有爾(うに)と相論となり内宮側が地頭の上地左衛門太夫と交渉した。これら古文書の記述から上地左衛門太夫が寺山城の城主と考えれている。
書籍 伊勢市史
環境  参宮街道から80m南、汁谷川沿いの段丘左岸にある。その位置から推察すると北東から南西にかけての田畑及び山田方面を見張ると同時に、旧熊野街道を守備する城と考えられる。関所があったとも考えられる。
現地  昭和62年試掘調査が行われ幅2m以上深さ1m以上の空堀が検出された。これは当初の予想通りで土塁の外側に空堀が巡ることが明らかになった。
   現在、城跡は上地公園となっている。伊勢市史に郭の南西部には幅2m深さ1m程の空堀が一部残存しているという記述があるが確認できない。又縄張り図に土塁が示されているが現認できない。
   郭南東の汁谷川との間、現在の竹藪の中に土塁らしき構築物が40m程あるが経緯は分からない。又南東隅にも土塁らしき形状が残る。
考察  資料が少ない中ではやはり城跡のある位置を中心に考えざるを得ない。田丸の街道分岐から伊勢神宮へ向かう街道を守備すること。そして神宮側と北畠側の境界であったかも知れない汁谷川を境に前線を見張ること。しかし重要な役目にしてはいささか簡便な造りの城である。
感想  単に街道の関所的役割であったと考えるのが妥当と思われる。
注1  宝徳2年(1450)多気御所が栄えていたころ。
地図

 https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&authuser=0&mid=1sE7i85-3qeA10HRT1ZDejbj3Ddw&ll=34.489272990399144%2C136.66313453815883&z=20

 

藪の中に潜む土塁?


阿坂城のろし実験

2017-02-19 08:07:58 | 日本の城

阿坂城のろし実験

2017年2月16日 三重県松阪市大阿坂町 桝形山 阿坂城(別名;白米城)

午前9時 狼煙(のろし)実験 

主催;松阪山城会(会長;松本薫氏)参加メンバー22名

目的; 中世における情報伝達の手段は限られたいた。口頭・手紙などはスピードに欠けるため 非常時には狼煙(のろし)が用いられたと考えられている。

 中勢においては北畠氏が国司を勤めていた。その関係する山城・平城が各所に点在する。そして各所に狼煙台跡と思われる遺構が残されている。髯山小原城黒米城、堀坂山、矢倉山城など。

 山間部の多気の北畠御所及び霧山城と平野部の大河内城から田丸城にかけての各城との連絡網として狼煙が使われていたと考えられる。

 そこで実際に拠点となる場所から狼煙を上げて、他の拠点からどの程度確認できるかどうかを実際に試してみることになった。

方法;阿坂城は北畠氏の拠点の一つで北から攻めてくる軍勢をいち早く安全に確認できる場所であり又狼煙を中勢から南勢に伝えるために地理的に有効な場所である。

 このキーポイントとなる阿坂城で狼煙を上げて各所で確認できるかどうかを実際に試してみる。狼煙は専用の缶詰があり中クラスを2本同時に着火する。煙が拡散しにくいようにもみ殻の焼却装置を使う。

実験;実際の現場の様子をスライドにまとた。詳しくは後日、会から発表される予定。

 

 

 

 

 

 

 


日本の城(100名城)1~100

2017-02-11 10:15:13 | 名城リスト

日本100名城

現在100名城は94城制覇。同時に自分の好きな城、「100好城」と故郷の古城「100里城」の合計300城を夢の目標値としていきたいと思います。

「城名」リンクはデジブックへ、「記事」リンクはブログ内ページ移動します。

①北海道・東北 北海道 ; 1 根室半島チャシ跡群  2 五稜郭  3 松前城

           青   森 ; 4 弘前城  5 根城

           岩   手 ; 6 盛岡城

           宮   城 ; 7 多賀城  8 仙台城

           秋   田 ; 9 久保田城

           山   形 ; 10 山形城

           福   島 ; 11 二本松城  12 鶴ヶ城(会津若松城) 13 白河城(白河小峰城)

②関東・甲信越  茨   城 ; 14 水戸城

           栃   木 ; 15 足利氏館

           群   馬 ; 16 箕輪城  17 金山城

           埼   玉 ; 18 鉢形城  19 川越城

           千   葉 ; 20 佐倉城

           東   京 ; 21 江戸城  22 八王子城

           神奈川 ; 23 小田原城

           山   梨 ; 24 武田氏館  25 甲府城

           長   野 ; 26 松代城  27 上田城  28 小諸城  29 松本城  30 高遠城

           新  潟 ; 31 新発田城  32 春日山城

③北陸・東海   富   山 ; 33 高岡城

           石   川 ; 34 七尾城 記事 35 金沢城

             福   井 ; 36 丸岡城  37 一乗谷城

           岐   阜 ; 38 岩村城  39 岐阜城

           静   岡 ; 40 山中城  41 駿府城  42 掛川城

           愛   知 ; 43 犬山城  44 名古屋城  45 岡崎城  46 長篠城

           三   重 ; 47 伊賀上野城  48 松阪城

④近畿       滋   賀 ; 49 小谷城  50 彦根城  51 安土城  52 観音寺城

           京   都 ; 53 二条城

           大   阪 ; 54 大阪城  55 千早城

           兵   庫 ; 56 竹田城  57 篠山城  58 明石城  59 姫路城  60 赤穂城

           奈   良 ; 61 高取城

           和歌山 ; 62 和歌山城

⑤中国・四国   鳥   取 ; 63 鳥取城

           島   根 ; 64 松江城  65 月山富田城  66 津和野城

           岡   山 ; 67 津山城  68 備中松山城  69 鬼ノ城  70 岡山城

           広   島 ; 71 福山城  72 郡山城  73 広島城

           山   口 ; 74 岩国城  75 萩城

           徳   島 ; 76 徳島城

           香   川 ; 77 高松城  78 丸亀城

           愛   媛 ; 79 今治城  80 湯築城  81 松山城  82 大洲城  83 宇和島城

           高   知 ; 84 高知城

⑥九州・沖縄   福   岡 ; 85 福岡城  86 大野城

           佐   賀 ; 87 名護屋城  88 吉野ヶ里  89 佐賀城

           長   崎 ; 90 平戸城  91 島原城

           熊   本 ; 92 熊本城  93 人吉城

           大   分 ; 94 大分府内城  95 岡城

           宮   崎 ; 96 飫肥城

           鹿児島 ; 97 鹿児島城

           沖   縄 ; 98 今帰仁城  99 中城城  100  首里城

 


松阪の城 順位

2017-02-11 10:13:59 | 松阪の城

松阪市にある城・館を68件巡ったところで順位付けをした。

採点項目は

① 郭・井戸

② 堀切

③ 土塁・石塁

④ 竪堀・空堀・水堀・池

⑤ 土橋・虎口

⑥ 切岸

⑦ 石垣

⑧ 歴史

各10点満点×8項目=合計80点満点

合計点数毎の星の数

0~9 ☆

10~19 ☆☆

20~29 ☆☆☆

30~39 ☆☆☆☆

40~49 ☆☆☆☆☆

50~59 ☆☆☆☆☆☆

60~69 ☆☆☆☆☆☆☆

70~79 ☆☆☆☆☆☆☆☆

80    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆

松阪市の城、館 順位及び星数表

      得点
順位 城 名 合計
7 1 松坂城 65
4 2 阿坂城 36
4 3 伊勢寺城 33
3 4 大河内城 29
3 5 八田城 25
3 6 下滝野城 22
3 7 天花寺城 21
3 8 坂内城 21
3 9 滝之川城 20
3 10 小原城 20
2 11 神山城 18
2 12 青田城 18
2 13 矢倉山城 16
2 14 岡ノ谷城 16
2 15 釜生田城 16
2 16 岩内城 16
2 17 黒米城 16
2 18 和田丸城 15
2 19 矢下城 15
2 20 上小川城 14
2 21 脇谷城 13
2 22 柚原城 13
2 23 九十九曲城 12
2 24 峯城 12
2 25 七日市城 12
2 26 富永館 12
2 27 堀ノ内城 11
2 28 白山城 11
2 29 船江城 11
2 30 赤桶城 11
2 31 有馬野高城城 11
2 32 高城 10
2 33 須賀城 10
2 34 谷野城 10
1 35 泉ヶ久保城 9
1 36 上山城 9
1 37 赤城 9
1 38 山室城 9
1 39 滝野城 9
1 40 波瀬城 8
1 41 松ヶ島城 8
1 42 立野城 8
1 43 森城 8
1 44 浅堀木城 7
1 45 枳城 7
1 46 尾岳館 7
1 47 森本城 7
1 48 坂内氏館 7
1 49 田引城 7
1 50 上の原館 7
1 51 久米城 6
1 52 五輪山城 6
1 53 西野城 6
1 54 大石館 6
1 55 園館 6
1 56 戸垣内館 6
1 57 天保館 5
1 58 佐藤氏館 5
1 59 達磨城 5
1 60 星合氏館 4
1 61 宮野城 4
1 62 福本城 4
1 63 筒野砦(東・西) 3
1 64 黒田城 3
1 65 六呂木城 3
1 66 小川城 3
1 67 曽原城 2
1 68 霧館 1

点数がイコール・ロマンスのボリュームとも云える。

但し、得点数は今後も多少の変化がある。

 

 


伊勢上野城・川北城・安濃城

2017-02-10 12:39:21 | 古城巡り
城名 伊勢上野城
住所 津市河芸町上野曲輪
築城年  天文17年(1548)の記録に分部氏から三間氏にこの城が預けられたと記されているのでそれ以前に原型は築城されている。
築城者 織田信包-分部光嘉(織田信包の指示で分部氏が築城した)
形式 平山城
遺構 郭、土塁、井戸、堀切
規模 東西230m×南北120m(本丸 80m×80m)
城主 小田信包-分部光嘉-光信
標高 38m
比高 35m
歴史  永禄11年(1568)信長の伊勢侵攻のとき、弟信包がこの一帯を抑え、分部氏は信包に仕えた。翌永禄12年(1569)津城の仮城として分部信光に築城(修築)させた。
   この頃、お市と娘三姉妹がこの城にいたと言われている。お江は0才から7歳までこの城にいた。
   天正8年(1580)信包が津城に移ったので出城として再び分部(光嘉)氏が上野城を守った。
   文禄3年(1594年)に信包が近江へ改易になると、光嘉は豊臣家家臣として城主に任ぜられて独立した城となった。
   分部氏はその後秀吉、家康に仕え加増を重ね大名まで出世した。
   慶長6年(1601)11月、安濃津城の戦いで脇腹に負った傷が元で分部光嘉が死去すると養子光信が継ぐ。
   しかし元和5年(1619)分部氏は紀州藩の成立によって近江へ転封となり伊勢上野城は廃城となった。
環境  東に伊勢湾を一望する比高35mの丘陵端にある。
一族  長野工藤氏、兄;細野藤敦(安濃城主)
   分部氏、三間氏は長野家与力
現地  旧伊勢街道を眼下に見ることができ海と街道を監視できる。
考察  大河ドラマで一時有名になりそうな気配があったが思ったほど賑わうことは無かったようである。少し見応えに欠ける遺跡の状況であることが原因かもしれない。
感想  東南側にある土塁は当時を忍ばせる落差のあるいい形が残る。
地図  https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&authuser=0&mid=1sE7i85-3qeA10HRT1ZDejbj3Ddw&ll=34.791885918418885%2C136.5424767067284&z=18
その他  

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城名 川北城
住所 三重県津市大里川北町
築城年 一期;文永11年(1274) 二期;文明2年(1470)~永徳3年(1491)
築城者 川北氏(注1)
形式 山城+居館
遺構 無し
規模 城郭;南北150m×東西120m 居住区;南北80m×東西120m 
城主 川北式部少輔
標高 23m
比高 16m
歴史  一期(盛期) 鎌倉時代、文永11年(1274)
   暦応2年(1339)~貞治5年(1365)北畠VS高師秋の戦いに長野氏も参加していた。
   康安元年(1360)川北城VS高師秋+土岐頼義の戦いで落城した。
   1414年、仁木氏(足利幕府方)と長野氏が阿坂城(北畠氏)を攻める
   1428年、北畠氏と長野氏が岩田川で幕府軍と合戦
   二期(再建) 文明2年(1470)~延徳3年(1491)の頃に川北城は再建された。(落城後110年後)
   応仁の乱(1467~1477)東軍に属した長野氏らと共に失地回復。
   明応9年(1500)川北内匠亮が川北道場(後の久善寺)を開く。
経緯  S53年に発掘調査。
   堀と土塁で区切られた郭を多数配し、その中に建物を建てた計画性の明らかな城である。
   構成は溝と土塁と建物から成る。
   溝は1.5m~2m巾、深さ1m位でV字形断面をし、大きく区画をする。
   更に溝に直交する土塁を築き区切る。
   土塁は広いもので基底5mある。
   建物は44棟あり、小型のものと大型のものに分けられる。
   遺物としては山茶碗、山皿、天目茶碗、磁器類、中国製青磁・白磁があった。
   結果;13世紀後半に築城され最盛期は13世紀末から14世紀中頃であると判明した。
勢陽五鈴遺響  川北砦址;「安濃郡長野工藤分家川北式部少輔居セリ及後裔今ニ居ス」とある。
現地  伊勢別街道と市登茂川に面する台地上の斜面に土塁、空堀、郭を築き背後の丘陵に居館を配して全体では約7,500坪の面積に及ぶ。現地公園に碑、説明版がある。
考察  城郭と居住区が分割された明確な例。
   伊勢別街道との距離は有視界距離である。
感想  今となっては団地の造成の中に埋もれてしまっているが見晴らしは当時を忍ばせる。発掘報告書だけが頼りである。
注1  川北氏とは=長野氏の六代目式部大輔経藤の子内匠頭藤照が分家して名乗った。
地図  https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&authuser=0&mid=1sE7i85-3qeA10HRT1ZDejbj3Ddw&ll=34.77092666738542%2C136.50315552257007&z=18
 

 

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城名 安濃城
読み あのうじょう
住所 津市安濃町安濃細野
築城年 弘治年間(1555~1558)
築城者 細野藤光
形式 城郭の中に館を設けた珍しい形態。規模も大きい。
遺構 郭、土塁、堀、櫓台、井戸
規模 東西450m×南北350m
城主 細野藤敦
標高 30m~59m
比高 40m
経緯  細野藤光は細野城を築いていたが安濃城を築いて移った。
   その子藤敦の時に拡張している。
歴史  永禄11年(1568)織田軍は安濃津城をほとんど無抵抗で手中に入れた後安濃城に攻め囲んだ。
   細野九郎藤敦 VS 滝川一益 =安濃城の戦い
   安濃城を守っていたのは工藤一族の分家、勇将細野藤敦であった。
   背後の丘に旗指物を並び立て、夜はかがり火で偽兵を使い、自ら野駆けを繰り返し逃げると見せかけては大手に敵をさそいこみ、たちまち弓矢を浴びせ、敵方の後ろに回って攻め立てるなど、散々に織田方を打ち悩ました。
   滝川一益も攻め立てたが城はびくともしない。日を改めて攻撃に出るが落とせない。織田方は焦る一方であった。
   弟、分部光嘉の策により織田信包が細野氏の本家長野氏の養子となったが、安濃城主細野藤敦はこれに従わず、天正8年(1580)についに長野信包によって攻められ自ら城に火を放って落城した。
   これにより信包が長野氏の当主となり長野一族は織田信長の配下となった。細野藤敦はその後蒲生氏郷、豊臣秀吉に仕え西軍に属し領地を失い京都にて64才で没した。
書籍  伊勢国盗り物語
環境  安濃の丘陵部を北西から南東に下る長さ450m、巾150m~100m程の尾根を階段状に整備した巨大な連郭群である。
一族  長野氏
現地  阿由多神社が主郭に祀られている。
地図  https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&authuser=0&mid=1sE7i85-3qeA10HRT1ZDejbj3Ddw&ll=34.77650289423616%2C136.45584403775638&z=17

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三行城・黒田城・秋葉城

2017-02-07 14:50:56 | 古城巡り
城名
 三行城
読み
 みゆきじょう
別名
 御幸城
住所
 三重県津市河芸町三行
築城年
 元亀年間(1570~1573)
築城者
 伊藤助重
形式
 平山城
遺構
 郭、消滅遺構(土壇、土塁、堀切、櫓台)
 消滅郭(Ⅰ(主郭)・Ⅲ・Ⅳ・Ⅴ)  
 郭Ⅱ;現存
規模
 現在)東西60m×南北90m
 当時)東西200m×南北120m
城主
 伊藤助重(注1)
標高 31m 比高 10m
書籍
 三重の中世城館 伊藤家古文書 津の城跡50選
環境
 田中川が南に蛇行したその中央部の丘頂に城は造られた。三行の狭い盆地状地形や田中川を見おろす。
 城は三行集落の北裏山で丘陵頂部全体を階段状に加工、五つの郭群として築かれた。
 25m四方の台地を中心にその西寄りに一段高い6m四方の櫓台を築き西・北・東の三方に帯郭が取り巻き、東側の尾根続きには堀切があった。
 南側の一段低い帯郭には井戸もある。下方には更に郭が巡っている。南東下方には城主の菩提寺である長寿院(注2)跡がある。
 土塁を伴わず階段状の削平地で構成されるこうした城郭は田中川流域の黒田城、秋葉城にも共通していてこの地域の城郭の一つの特徴である。
現地
 明治の頃、堀切から古銭が見つかり五千文あったというが後に散逸したらしい。
注1
 伊藤氏=工藤祐経も末裔の工藤親光の子・光種が改姓して伊藤氏を名乗る。光種の子・助重はこの三行に隠居しているのでこの時に築城されたと思われる。
 その子内蔵助重坊は元亀2年、信長の伊勢攻めには信孝の幕下に属した。
 翌元亀3年に老齢のため領地を上野の分部左京亮光嘉に譲り、名を茂右門尉茂坊と改め神職になった。
注2
 上野城主の菩提寺円光寺の末寺でもある。
地図


 

 

 

 三行城・黒田城・秋葉城のコラボスライド

城名 黒田城
読み くろだじょう
(別名) 川瀬城、城屋敷
住所 津市河芸町北黒田
築城年 康正年間(1455~1457)
築城者 川瀬宜光
形式 平山城
遺構 小学校建設により遺構は無いがその広さは300坪程あったと言われる。
城主 黒田左衛門 川瀬氏(宜光、宗光)後 岡性に変わる(岡隼人、、、)
標高 13m
比高 5m
経緯①  伊勢国奄芸郡黒田庄より起こる。平家物語に「黒田の後平四郎、日野の十郎、乙部の弥七とて、これらは皆 伊勢国の住人なり」と。北黒田村の川瀬城は、黒田左衛門の居城なりしと云う。
経緯②  康生年間に川瀬宣光が地頭となって築城した。
   織田信長伊勢侵攻の時、信雄に敗れ次男宗光が再興をはかったが成しえなかった。性を岡と改めて黒田村で農業に従事した。
現地  今は記念碑の柱が建つだけであるがそこからは南の眼下に街道が見える位置関係だけがその存在を立証しているようだ。
   西に丘があるが17m高さである。見張り台であろうか。
引用  土塁を伴わず階段状の削平地で構成されるこうした城郭は田中川流域の三行城、秋葉城にも共通していてこの地域の城郭の一つの特徴である。
考察  平家物語は物語なので事実ではないかも知れない。それを踏まえて思い計ってみる。経緯が複数あるが時代が異なるのでシリーズで考えてよいのではないだろうか。歴史の深い黒田村である。
地図  https://www.google.co.jp/maps/@34.7886509,136.5202021,427m/data=!3m1!1e3!4m2!6m1!1s1sE7i85-3qeA10HRT1ZDejbj3Ddw

 

城名 秋葉城
読み あきばじょう
住所 三重県津市河芸町南黒田
築城年 天正年間(1573~1591)
築城者 高橋氏か
形式 山城
遺構 郭、堀切、土塁
城主 黒田 左衛門
標高 22m
比高 13m
書籍  勢陽五鈴遺響に「伊勢平氏党黒田左衛門居セリ」とある。黒田城と同じく、古くは黒田氏が支配していたと思われる。
引用  土塁を伴わず階段状の削平地で構成されるこうした城郭は 田中川流域の黒田城、三行城にも共通していてこの地域の城郭の一つの特徴である。
 織田信長伊勢侵攻のとき、蒲生氏郷がこの辺を焼き払ったという。この地方には、親が子に「ガモウ、ガモウ、ガモウガクルゾ」といさめる時に使ったという。この地に残ったのは女、子供だけだったという。当時の恐ろしい様子が代々伝えられてきた。
現地  一見、段々畑に見えるが土塁があり、堀切があり、竹藪の中は郭の切岸と思われる部分がり城として見ると疑いない。
考察  黒田城と共に信長の伊勢侵攻時に滅せられたようだ。
地図

 https://www.google.co.jp/maps/@34.784102,136.50777,427m/data=!3m1!1e3!4m2!6m1!1s1sE7i85-3qeA10HRT1ZDejbj3Ddw


山田野城

2017-02-05 12:03:38 | 日本の城

山田野城

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城名 山田野城
  やまだのじょう
住所 津市白山町山田野
築城年 天正年間
築城者 長野左京進
形式 山城
遺構 郭、堀切、竪堀
規模 東西55m×南北65m
城主 長野左京進
標高 164m
比高 85m
一族 長野氏
歴史  長野左京進は北畠の家臣で永禄十二年(1569)大河内城の戦いでは籠城し日置らと共に大奮戦している。九月八日の信長軍の夜討ちに対し、反撃して高名をあげた(勢州軍記)。
経緯  その後は、北畠家を継いだ信雄に従い、天正四年(1576)十一月の北畠一族粛清の時、三瀬にて具教を槍で一突きし殺害した。(勢州兵乱記)
   その後も信雄が不利と見るや秀吉とよしみを通じ蒲生氏郷方に内応し戸木城の合戦に参加した。
   同じ氏郷方に内応している小倭の岡村(家所)修理允とは日ごろから仲悪く、遂に津の半田山で殺された。
書籍  北畠物語、勢陽雑記
環境  白山町山田野の北西にある比高約85mの山頂にある。
現地  本来は薬師堂の西辺りから尾根伝いに攻めるべきだが各種地図情報により開発された分譲地の道路から攻めることにした。
   青山高校の進入路に入りその脇を抜け開発分譲地の道路を東寄りに進む。道路は元は舗装路だったがかなり痛んでおり慎重に進めた。
   道路網のほぼ東端辺りが探索地になるが最後は道路状況が最悪で車の進入は不可能になる。手前に車を止めて徒歩で200m程で道路の突当りに着くと左手が城郭である。
   やや平坦な山頂に一段高く台地を作り堅固な土塁で四方を囲み屋敷を作った。南に主郭虎口を設け馬出様の小さい郭が付属する。
   主郭の土塁はしっかり残っている。櫓台は無いようである。
   主郭西側にⅡ郭と考えられる広いスペースがあり低いがほぼ全周に土塁が巡っている。その西側は緩く傾斜して下がっていく。防御性としては弱点かもしれない。
   北側には大きな堀切がひとつ備わっている。その先は尾根に繋がっている。
   東側は一段下がって帯郭になっているが途中に二つ縦堀が見うけられる。その南は平削地でⅢ郭になるようだ。
   主郭の北西側のⅡ郭との間に溝が始まり北の端に窪地がある。珍しい構造物である。
考察  長野左京進は北畠家臣から信長方になったが、よく働いたのか滝川勝利ら信雄の老臣らと肩を並べていたらしい。更に秀吉側に寝返るなど主君を三度も変えた。それだけ敵も増えただろうし、それに相応しい家臣団を擁していたと考えられ、城も堅固なものであったと思われる。
感想  小振りだが各種機能を備えた合理的な城だと思った。東側など切岸の高低差もあり見応えがある。
地図  地理院地図
   https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&authuser=0&mid=1sE7i85-3qeA10HRT1ZDejbj3Ddw&ll=34.64503183294201%2C136.31378620170062&z=19

家城城

2017-02-04 18:00:34 | 古城巡り

家城城

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城名 家城城
  いえきじょう
住所 津市白山町南家城
築城年 正中年間に修築
築城者 家城主水正
形式 山城
遺構 郭、2重堀切、3重堀切
規模 70m×70m
城主 家城主水正(北畠家臣・騎馬大将)
標高 130m
比高 60m
経緯  家城主水正は北畠家臣で槍の名手として天文年間、鷺山合戦や、永禄12年の大河内城の夜戦で竜蔵庵口の主将を務めた武将である。北畠具親が挙兵したとき川俣谷の戦いで討死した。
環境  家城の平野部を西に見下ろす山頂にある。現在は林道で近くまで行ける。
一族 紀氏
現地  城の南側辺りを林道が通るので近くまで車で行ける。小さい車なら余白に駐車でき入口も近い。
   直ぐに3重の堀切が現れる。堀切は大中小であるが明瞭に確認できる。東から勾配のきつい主郭の下斜面を周回していくと小さい帯郭の出っ張りがある。そこを廻り込むともう一つ傾斜がきつくなる斜面に出る。
   足元を確保してから周囲を見回すと切岸とその北にある2重の深い堀切が圧倒的である。そこからは少し東に折れる。少し長い自然地形の尾根を進むと下に別の郭が見下ろせる。この辺の様子は古い縄張図に載っていないがどういうことだろうか。
   北側に廻り込み西進すると自然地形か人工加工か判断できないが竪堀の様子が伺える。どちらにしても機能はしていたように思える。
   北西側は帯郭や出郭が数多くあるようだ。西方面を見下ろすのには都合がよさそうだ。堀切のあたりから主郭に登る。
   主郭は結構な面積を有する。一段高い部分があるが狼煙台と云われている。その大きさ・高さなどや小石が周辺に散見できる様子は松阪市の矢倉山城で見た例と酷似している。
   北から西へ廻ると帯郭が続き元の3重堀切の所へ戻る。途中、崖状も見受けられた。こじんまりした城だがメリハリがあって形もよく残っている。
感想  2重と3重の堀切が見どころ。縄張図より帯郭等が多く見受けられ面白い。主郭の狼煙台も見逃せない。
地図  https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&authuser=0&mid=1sE7i85-3qeA10HRT1ZDejbj3Ddw&ll=34.62455510774033%2C136.3253277470917&z=18

三ケ野城

2017-02-04 10:08:25 | 日本の城

三ケ野城

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城名 三ケ野城
  みつがのじょう
住所 津市白山町三ケ野
築城年 不明
築城者 満賀野氏かも
形式 山城
遺構 郭、堀切
規模 東西50m×南北90m
城主 満賀野甚九郎かも
標高 140m
比高 70m
歴史 小倭七郷小倭七党に満賀野氏が数えられるので関係者かも知れない。
環境  三ケ野川が東に流れその両方に狭い平野部が張り付く。その光景を三ケ野城の主郭から遠望で来た位置関係にある。
一族  北畠家臣に満賀野甚九郎の名があることから城はこれに関係しているのではと考えられる。
現地  三ケ野地内を南北に走るグリーンロードに迫る西側の山塊がその一帯である。石屋さんにお願いして駐車場の端に車を止めさせてもらう。その南に谷へ入る小路があるので一旦下る。あとは主郭までまっすぐ進むのみである。
考察  最初に東側の尾根に堀切があるのが見つかる。背後に主郭が見え登り始めるが粘土質の土に足を取られて三歩も進めない。諦めて北側に廻る。
   北へ続く尾根には3連の堀切がある。その先の尾根の頂部は加工されていないようだ。堀切3連はいまだきれいに残る。
   こちらからは木々を取っ手にして主郭へ登れそうだ。足場は落葉と土で状況が悪い。底のすり減った靴では登れない急傾斜だ。
   主郭は相対して狭く一巡で全体を把握できる。見るべきものは少なく直ぐ南側の郭へ降りる。やはり急勾配である。
   一瞬足を取られ上体が下り方向へ傾く。左手は木の幹を捉えたようだが右手に持ったカメラ付きの一脚が私を後ろから引っ張るようだった。
   もうこうなるとコントロール不能だ。諦めて地面に向ってぶつかって行く。頭から行くのではなく下半身が先だったのでまだ怪我をするところまではいかなかった。衣服と、カメラが泥まみれになった。下の郭に降りきって体制を整えた。カメラも何とか持参の湿ったレンズ拭きで掃除で来た。
   郭は上段と同じ方向に続く下段の二つである。郭は合計して3つになる。そこから最初に見た堀切に向って東の斜面を横切る。
感想  この山塊はどこから登っても急斜面のようである。それだけ要害の地である。構造は簡単で主郭も狭く守りは堅固だが実用的では無いように思う。
地図  https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&authuser=0&mid=1sE7i85-3qeA10HRT1ZDejbj3Ddw&ll=34.681921701024734%2C136.36674105428165&z=18