三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

西山城

2014-05-30 16:32:33 | 古城巡り

西山城

にしやまじょう

城名 西山城
住所 多気町西山字上奥尻
築城年 不明
築城者 北畠家臣・中西図書頭
形式 山城
遺構 郭、空堀、
規模 東西100m×南北110m
城主 中西図書頭
標高 55m
比高 20m
書籍・経緯  三重の中世城館; 西山集落南方の丘陵頂部にある。西は谷が入り、東に佐奈川を配す。北と南は低い丘陵が続く。
   伊勢名勝誌には 「北畠氏の臣中西図書頭(ずしょのかみ)之に居るまた清次兵衛、八兵衛外記進あり」とある。35×40mの方形の台状地がある。西側に巾約5mの堀がある。
   多気町の歴史散歩;中世の砦にはふさわしい位置にある。
   永禄12年(1569)具教は信長の率いる5万とも7万ともいう大軍の攻勢を迎えて大河内城を要に戦うこととなった。具教は諸城へ使いを走らせて守りを固めさせた。西山の砦は中西図書守であった。
   長谷城は長井帯刀(たてわき)、篠山城は野呂越前守、三瀬谷砦は長野右京進である。
   この時中西清左衛門、中西清兵衛は船江城に籠った本田勢に加わっていた。戦況固着と見た具教は、各地の諸城に一斉夜襲を指令した。
   中西清兵衛はこの大河内攻防戦で戦死した。中西図書守らはその後も西山村に住み、現在も中西性の家が残っている。
   西山の墓地へ参ると古い板五輪や五輪塔が奥の方に祀られていて歴史をひもときながら城をしのぶのにふさわしい。
環境  五佐奈の平野部西端の低い丘陵地にあり足元を佐奈川が櫛田川に向って位置する。4Km先のその櫛田川にはこ神山城がある。
一族  中西清左衛門、中西清兵衛、中西八兵衛
考察  東1.4Kmに矢田城があり、その先1.5Kmに笠木御所跡がある。これらの城館と多気御所との通行途上に西山城があり関係を想像させる。
感想  佐奈川と五佐奈の平野部を目の前にし、さらにその前方には矢田城を見る位置関係から矢田城の背後を守る役目でもあったのではないだろうか。
地図  https://www.google.co.jp/maps/@34.4907557,136.5584156,3552m/data=!3m1!1e3!4m2!6m1!1s1sE7i85-3qeA10HRT1ZDejbj3Ddw

 


片倉氏館

2014-05-29 16:48:38 | 古城巡り

片倉氏館

かたくらうじやかた

城主;片倉小十郎か

築城時期;不明

住所;三重県多気町四神田

遺構;なし

経緯;西から北に佐奈川、南と東に小川を廻らせ堀代りにしている。

   郭は三段になっていた気配がある。三重の中世城館によると、

   仙台藩主伊達氏の家臣片倉小十郎の旧宅址であろうとしている。

感想;言われなければ素通りしてしまうほどなんでもないところである。

   しかし敷地の片隅に片倉家の墓があり紛れもなく片倉氏の館跡である。

地図;https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zMB0lt7eZPVw.kfXn7gkwAAkU

 

 


有爾中村城

2014-05-28 14:36:50 | 古城巡り

有爾中村城

(うになかむらじょう)

城主;初代=北岡師光

    七代=北岡光房

築城時期;

住所;三重県明和町有爾中(うになか)

遺構;35m×35mの単郭、土塁

経緯;七代目有爾中村城主、北岡光房は天正四年(1576)十一月二十五日田丸城で

   討死した。子の七右衛門尉光久は城を出て上村(上村城)に移りそこに隠遁した。

感想;北岡師光の出生は岩内御所の分家にあたるらしい。岩内御所は西方3Kmにある。

   城跡は土塁がよく残っている。標高31m、比高11m、単郭から想像すると館に重

   きを置いた城ではないだろうか。

地図;https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zMB0lt7eZPVw.kfXn7gkwAAkU

 

 


中村城

2014-05-28 12:30:51 | 古城巡り

   

中村城(なかむらじょう)

別名;下御糸中村城(しもみいと、、、)

城主;北堂左京大輔

築城時期;不明

住所;三重県明和町中村

現地案内板より

   北畠具教が織田信長に謀殺されてからのち豊臣秀吉の命により城郭を

   廃して中村と改めて帰農した。さらにのち姓を城と改めた。(略)

感想;台地における平城を形成していたと思われる。道路と小川は当時の地

   割と同じかもしれない。又垣根に残る年輪を重ねた木々は当時の様子を

   見ていたかもしれない。垣根の足元には更に年輪を重ねた古木の株だけ

   が残っていた。

地図;https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zMB0lt7eZPVw.kfXn7gkwAAkU

 

 


志貴城(湯浅館)

2014-05-28 09:28:22 | 古城巡り

志貴遠望

志貴城(しきじょう)

別名;湯浅宅、湯浅館

住所;三重県明和町志貴

由来;三国地誌

詳細不明;明和町教育委員会へ出向いて最新情報を得ようとしたが残念ながら 

   平成26年5月現在では進展はなかった。今後に期待したい。

感想;この辺りの集落の地割は古くから変化していない、とのこと。遺構こそ無いが

   雰囲気は残っているはずだ。しかし残念ながら探せなかった。

地図;https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zMB0lt7eZPVw.kfXn7gkwAAkU

 


上村城

2014-05-28 08:43:02 | 古城巡り

上村城(うえむらじょう)

城主;北岡光久

築城時期;天正四年以降(1576~)

経緯;有爾中村城主、北岡光房は天正四年(1576)十一月、織田信雄のために田丸城で

    討死した。

    この時、子光久は有爾中村城を逃れて上村に退きここに住んだ。

感想;西方の岩内城まで600m余、父の最期を知り有爾中村城を捨てかつて岩内御所と

    呼ばれた城山の麓に退いてきた子光久の心境は推し量れないほど重いものであっ

    たと思う。三瀬で北畠具教が惨殺され、北畠家が終焉をむかえるときである。

    北岡家の益々のご発展をお祈り申し上げます。

住所・地図;省略

 

 

 

 

 


斎宮城

2014-05-26 22:34:25 | 古城巡り

斎宮城

さいくうじょう

築城;野呂三郎(または野宮三郎)

築城時期;弘治元年(1555)

住所;三重県明和町斎宮字牛葉

遺構;なし

経緯;弘治元年(1555)十二月、斎宮の住人野呂三郎と飯高郡鎌田の住人豊田

   五郎右衛門尉は南伊勢の流浪人数百人を動員して徳政一揆を起こした。

   一揆団は斎宮城と智積寺城で立てこもり対抗する。

   国司北畠材親は船江城主本田美作守に一揆討伐司令官を命じ、家臣の

   中西清右衛門尉と高嶋次郎左衛門尉に鎮圧させた。

   *注;智積寺城=鱗尾城

遺構;なし

感想;歴代の斎王が600年の長きにわたりお祈りを続けた場所として斎宮という

    地名は今やメジャーになりつつある。

    斎宮城の位置は斎宮そのものの中にあったのでは、との考えもあるらしい。

    しかし、城の遺構は全く無く思いを馳せるしかない。

地図;https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zMB0lt7eZPVw.kfXn7gkwAAkU

 

 


池村城

2014-05-26 21:34:42 | 古城巡り

池村城

いけむらじょう

築城時期;大永年間(1521-27頃)

城主;黒坂主計亮長兵衛(北畠旗本)

住所;三重県明和町池村字世古

経緯;永禄十二年八月二十九日、織田信長の南伊勢侵攻の大河内城の戦いで

    池村城主、黒坂主計亮は大いに奮戦し高名をはせた。

    北畠氏の滅亡によりわずかに城郭をささえ、江戸時代には地侍として家老

       沢野氏と共に明治時代まで永続した。

感想;本丸跡、二の丸跡、馬場跡など遺構が明確で観察の意気も上がる。

    再訪したい城跡だ。

地図; https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zMB0lt7eZPVw.kfXn7gkwAAkU

 

 

 


鱗尾城(智積寺城)

2014-05-24 00:56:08 | 古城巡り

鱗尾城(ひろおじょう)

城主;智積寺三郎左衛門尉(大河内家与力)

築城時期;天文年間か

別名;智積寺城、智積城

住所;三重県明和町平尾字志田

経緯;弘治元年十二月、飯高郡の豊田五郎右衛門尉と多気郡の野呂三郎は数百人

    を動員して徳政一揆をおこした。一揆団は斎宮城と城主が留守のところを奪っ

    た鱗尾城で智積寺氏の妻子を人質に立てこもり対抗する。北畠材親は船江城

    主・本田美作守に討伐を命じ、その家臣中西清右衛門尉と高崎次郎左衛門尉

    に討たせた。

感想;城主智積寺氏の妻子は無事だったのだろうか。平尾の村落の西南200m辺り

    で県道沿いはこの辺ではなかろうか。志田山は開墾され平坦地となり緑いっぱ

    いである。

地図;https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zMB0lt7eZPVw.kfXn7gkwAAkU

 

 

 


佐田城

2014-05-24 00:01:55 | 古城巡り

佐田城(さたじょう)

城主;初代=佐田左兵衛少将具郷(北畠教具の三男)

    二代=佐田治部少輔具英

    三代=佐田丹後守忠英

    四代=佐田丹後守定勝

築城時期;文明年中

住所;三重県明和町佐田

経緯;天正四年十一月二十五日主君北畠具教の変を知り忠英は三瀬の御所に馳せ参じ、

    自害して果てた。

    更に具教の弟・具親が再興の旗揚げをした時、定勝も之に加わり戦ったが敗退し、

    毛利氏を頼って中国に逃れ遂に佐田城は亡んだ。

遺構;城があったと推定される処は良田となり何も残っていない。

地図;https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zMB0lt7eZPVw.kfXn7gkwAAkU