三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

上出江大権現 行者

2020-10-07 21:13:46 | 古里の歴史

施設名
 大権現 / 行者
住所
 多気町上出江
形式
 単郭
遺構
 削平地  腰曲輪
規模
 15×20m
標高 131m  比高 56m
環境
 北から南へ大きく櫛田川が湾曲する要因となる舌状丘陵地の側面を形成する一連の山塊の一つである。
 側面側は急峻で反対側は緩やかに平坦地へつながる。側面側の視界は本来は良好で上出江・片野の集落や和歌山別街道に繋がる間道を俯瞰する。
 小さいが側面側には腰曲輪が認められる。
現地
 権現さんや行者さんの祭事場である。維持管理された状態と見受けられる。
考察
 出江地区は小祠が点在する。山神、金毘羅、弁天、浅間、明神、薬師堂、大日、庚申、地蔵、荒神、秋葉などがある。(勢和村歴史地図)
感想
 山頂の削平地を城郭とする根拠は見出せない。
 北に存在するひよどり城から尾根伝いに出曲輪、小さな峠を越えてこの削平地と、一連の動線を仮定することも確立の極めて低いこととなる。
 
 権現、行者さんの祭事場の施設としては面積が相当より大きいとも感じられる。
 あるいはひよどり城、五箇篠山城、出江城よりは低位にあってそこまで防備されなかったのか。
 何しろ五箇篠山城を巡る戦は何度かあった訳で、その膝元のこの場所が手を付けられづにいることは考えにくいのである。
地図

 

勢和村の諸信仰
○ 観音信仰
 観音様を祀り、厄年参詣、安産祈願を行う。
○ 薬師信仰
 薬師如来を祀り、病気に御利益がある。特に目の病に効くとされる。薬師堂を持つ寺もある。
○ 大日信仰
 大日如来は牛の神様という。
○ 地蔵信仰
 庶民の苦しみや悲しみを救う仏様。子安地蔵、延命地蔵、六地蔵、道祖神など様々で信仰の様子も異なる。
○ 不動信仰
 不動明王を祀る。修験者が崇め、火渡りの行をし、無病息災を祈る。
○ 庚申信仰
 庚申講を組織し、南無阿弥陀仏を唱え、話に夜を更かした。
 朝柄の庚申堂は耳の病に効くとされた。櫛田川で穴の開いた石を拾って糸を通し、庚申堂の前に吊るすと良いといわれた。
○ 山の神
 伊勢の国のムラの入口近くに、山の神の石碑を見ることが多い。
 山を護る、子宝、ムラの守護神、田ノ神など村人の求めは多種多様であった。
 丹生では、「山の神さんは子供がお好きでオイエもコイエもご繁盛山の神チョウサヤ」とうたう。
○ 浅間信仰
 田植えが終わった田に水が潤い豊作を祈る。上出江では櫛田川で水垢離を取り、当番家で精進料理をいただき、大きな幣を付けた青竹を持って山に登る。上出江は二組あるので2本の幣が揚がる。山を下ると再度、水垢離を取り、夕食に素麺をいただく。
○ 伊勢信仰
 伊勢講とか参宮講を組織する。田や畑を持ち金を貯え、一泊二日で古市に泊まって参宮する例がある。
○ 大峰信仰
 行者講、山上(さんじょう)講、行者待ちなどがある。「ザンゲザンゲ六根清浄大峯八大金剛童子」などとうたう。
○ 秋葉・愛宕信仰
 共に火災や災害の神様。愛宕大権現。
○ 稲荷信仰
 ムラの守護神。屋敷神は会社などによく見られる。
○ 弁財天信仰
 池の神として弁天を祀るところは多い。下出江の山口池の弁財天。
○ その他、ムラの小詞
 乳母咳(うばせき)の神さん。百日咳の神様。臼岩さんという場所があり、1.8m位の岩に文字が刻まれる。
 水をいただいてきて粥を炊いて食べると乳が出る。片野のチチンバさんも同じ。
 夜泣きの神さん、そうしんさん、明神さん等々、名前、所在がはっきりいている小詞は20カ所以上を数える。

 


樋ノ谷遺跡

2020-10-04 13:22:42 | 古里の歴史

遺跡名
 樋ノ谷遺跡
読み
 ひのたにいせき
住所
 大紀町(旧大宮町)神原566
時代
 縄文早期(7000~8000年)前
形式
 竪穴式住居跡
遺構
 復元モデル
規模
 2棟(一棟は現在閉鎖中)
標高 79m
歴史
 県内屈指の古い時代の住居跡
経緯
 畜産環境整備事業に伴って昭和57年秋、1か月に亘り1000㎡を対象に県教育委員会文化課によって発掘調査された。
 平成の初めころ復元が行われたが、風雨の影響などで傷んだ。令和2年夏に一棟の再復元が完成した。
 町文化財調査委員の中瀬氏は「多くの人に見に来てほしい」と言われている。
書籍
 現地案内資料 夕刊三重
環境
 宮川中流右岸の河岸段丘上にある。神原集落の西側を南から北の宮川へ向けて小支流の樋ノ谷が小さな扇状地を形成しながら開いている。
感想
 今でこそ道路によって短時間で行くことが出来るが、周辺の地勢や環境から当時を察すると、「よくここにたどり着いた」というところである。
 宮川流域特有の深い河岸段丘が当時は浅かったのか、どうだったんだろうと心配する。
地図

三重県内屈指の古い時代の竪穴式住居跡。

自由に中に入れます。


多気御所を取巻く七つ峠踏査の計画

2020-09-27 22:34:12 | 古里の歴史

津市美杉町多気に北畠氏の本拠地、多気御所の跡地がある。

館跡と共に霧山城砦の遺構が中世の当時を忍ばせる。

ここを中心に北畠氏は240年程の権勢を振るっていた。

この本拠地は美杉の山中にあり、周囲を険阻な山々が取巻いている。

行き来できる峠道は限られた数しかない。それが七つ峠と言われているところだ。

ここは津市が「史跡多気北畠氏城館跡保存管理計画」として、

その保護を目的に、発掘調査、整備事業などを行っている。

 

同計画の資料の一部に下表がある。

七つ峠がその対象にリストアップされている。

 

この七つ峠については以前より諸氏によって取り上げられている。

代表例が下図である。

原図は樋田清砂氏作成とある。

この中の峠の部分だけをズームアップしてみる。

峠が御所を取巻いて、北畠氏の本拠地を守る上で重要な要素であったということが、

作者の意志として感じることが出来る。(樋田氏は8カ所としている)

この内の一つ、白口峠については訪れたことがある。

峠のピーク付近に削平地が3~4段並んでいた。

これらの七つ峠について横並びで調べてみることが、意味があるのではないかと考えるようになってきた。

どの峠に力を注いでいたのかとかが見えてくるのではないだろうか。

 

早速、場所を地図に落とし込んでみた。

実際は、訪れるのが困難な所もありそうで、全ヶ所の踏査は出来ないかもしれない。

或いは、現在でもこれらの峠は地勢上、重要な地点であって大幅に改変が行われている可能性が高い。

目標は半数ぐらいだろうか。訪れてみたい。

 

地図の右上隅には七つ峠以外の”八頭峠(仁王峠)”がある。

ここにも番所跡らしき削平地が複数確認できる。

 

地図の6番右の上小川町に七つ峠以外の”中峠”があり、その様子が下の写真である。

写真は峠の道を中心に写したもので削平地を狙ってはいないが、写真左側の一段高い

段の上は、削平地が幾つかの境界線で仕切られ存在している。

多気を中心とする山中には、七つ峠以外の峠にも番所が設けられていたのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 


松阪の城50選 第4刷販売中

2020-08-25 17:53:16 | 古里の歴史

 

松阪の城50選が好評につき、3刷(1800冊)が7月末で売り切れとなりました。この度4刷目の販売を新たに開始しました。これまでの皆様のご支援に感謝申し上げます。松阪山城会の会員が総力を結集して完成させました珠玉の一冊です。ぜひ、お手元に一冊お買い求めください。


御渡寺趾 探訪

2020-08-03 23:34:28 | 古里の歴史

   

👆 御渡寺のある山裾

 

遺構名
 御渡寺跡
読み
 ぎょとじあと
住所
 松阪市嬉野上小川町
築年 築造者 不明
遺構
 削平地3段
規模 50m×50m
標高 380m 比高 23m
参考書籍
 嬉野史・嬉野町史
歴史
 長慶天皇(注1)が在所された時期があるという。御渡寺という名はそのことを現しているのかも知れない。
経緯
 嬉野史文化財考証の項に御渡寺趾という一項がある。短いので全文を記す。
 「上小川、花園垣内にあり山の中腹の平地を云う。           
 長慶天皇が多気より下られたときの御在所であったと伝えられる。」
 以上である。
 この場所を探索するにあたり、花園垣内という場所がキーポイントとなる。
 花園における小字名を確認するが”垣内”という名称を見出すことはできない。
 この記述における”垣内”の意味合いは小字名としてではなく”花園の地区内”という広義の意味で捉える方がふさわしいのではないかと考えるようになった。
 そのようなある時、現地で犬と散歩する婦人に会い、経緯を話すと裏山に平らな所があると貴重な情報を聞くことが出来た。
 婦人のご厚意により、そのご主人の案内で裏山へ登り、平地にたどり着くことが出来た。

現地

 大きくは3つの曲輪から成り立っている。

 上段曲輪;3つの曲輪の中で一番高いところにあり、一番狭い曲輪となる。小さいながらも削平感の質は高いと見受けられる。礎石などは表面上見当たらない。

 中段曲輪;上段曲輪よりやや大きく面形状は自然地形を優先したようでいびつである。削平感の質は高い。礎石などは表面上見当たらない。

 上段、中段の曲輪は狭い敷地でも可能な鐘撞堂や見張台などの建物があったと思われる。

 下段曲輪;南北の長さは40m~50mほどある。東西の幅は15m程でそれほど広いとは感じさせない。石による構造物が何点か散見される。地面に加工された石を並べたもので一つは1m位の正方形、もう一つは1×1.2m位の長方形をしたものである。枯草や雑草に覆われた下には他にも痕跡があるのかも知れないと思わせた。

 ご主人の説明の住宅があったという証拠のタイル貼りのおくどさんやコンクリートでできた洗面場がある。これらは昭和の匂いを嗅がせるがそれ以外は時代を想定させるものはない。

 一つ気になるのは下段曲輪の周辺を施している石垣である。その石垣は14世紀のものとは考えにくいという点である。

 花園地区はほとんどの家が斜面にありその境界を石垣で施し、頑強さを維持し宅地を確保ているようだ。その村内の石垣の様子と、下段曲輪の周辺の石垣の様子と見た目には相違が無いように思える。
 
 もう一つの視点として、上段曲輪と中段曲輪を形造る境界には石垣が無いという点だ。下段曲輪を生活の拠点にするために頑強に施された多量の石垣に対して、上段曲輪と中段曲輪は住民の生活と縁がなかったということで何も施されず、14世紀の姿を残しているのではないだろうか。
 下段曲輪の石垣がもし御渡寺の時代の石垣なら、上段曲輪、中段曲輪の周囲に石垣の片りんでも残っていても良さそうなものである。
 上段曲輪と中段曲輪は14世紀の姿を現し、下段曲輪は14世紀の遺構を再利用した極近世のものではないだろうか。
感想
 改変が多い下段曲輪からは御渡寺の痕跡を探すのは発掘調査をしない限り分からないだろうと思えた。
 逆に、上段曲輪と中段曲輪はひそかに14世紀の様子を物語っているように思える。この遺構を考える場合は上段・中段に注目するべきではないだろうか。
 上段曲輪の更に上には自然地形の尾根が残るが、そこには祠を祀ったような痕跡が2カ所ほどある。恐らく、村人がこの地のいわれを代々引き継ぎ、大切にするために祀ったものと考えた。
環境
 花園の名称が語るように春は桜の谷となるようだ。7月末にヤマユリの群落に彩られるが、聞くところによると維持管理は大変なようだ。
考察
 寺が御渡寺というある種のいわくを考えざるを得ないような名称であることから、長慶天皇を迎えるためにあらかじめ用意されたものではないかと考えることが出来る。
 中世頃の山岳寺院の様子が参考になると考えられる。
注1
 長慶天皇;1343-94 (興国4・康永2-応永元)(52歳没)
 第98代に数えられる天皇。在位1368-83年。南朝第3代。後村上天皇の皇子。
 1368年に践祚(注2)後、南朝不振のころで吉野,河内国天野山,大和国栄山寺等に移った。

 生誕から崩御までの事蹟を整理した” 長慶天皇の事蹟を追う ” 御参照ください。

注2
 践祚(せんそ)天皇の位につくこと。

同行者 松阪山城会 会員2名

地図

👆 上段曲輪 右の大木はカエデ

上 中段曲輪

👆 下段曲輪 奥の石垣は14世紀のものではないのではないか

👆 下段曲輪に散在する石 草にまみれて全体像は把握しきれない

👆 下段曲輪の際を支える石垣

👆 下段曲輪を道路側から見る

👆 尾根にある祀られた杉

👆 その下に祀られていただろう祠の痕跡

👆 祀られたカエデの前の祠の痕跡

 


寺屋敷跡

2020-05-03 10:31:10 | 古里の歴史

 

遺構名
 寺屋敷跡
読み
 てらやしきあと
別名
 倭寺屋敷
住所
 津市白山町上ノ村
建立年
 12世紀(1150年頃か)
遺構
 土塁
規模
 30m×20m
標高 340m 
歴史
 津市広報・歴史散歩(5)によると、”昭和24年布引の滝に滝見台を建設する際、経塚・銅鏡3枚・刀子が出土した。滝見台周辺には、かつて大きな寺院があったという伝承がある。
 この経塚は青山経塚、あるいは倭(やまと)寺屋敷経塚と呼ばれ、12世紀頃、平安時代のものと考えられている。出土品は市指定文化財で白山郷土資料館に保管されている。”
 とあった。
経緯
 平成10年(1998)、市指定文化財(4点)に指定
資料
 津市広報・歴史散歩(5)https://www.info.city.tsu.mie.jp/www/contents/1001000012677/simple/rekishisanpo05.pdf
環境
 車道を付ける際にどれくらい改変されたかは、分からないが土塁側は当時のものとみてよいのではないだろうか。
現地
 距離にして400m程下りると、飛竜滝や大日滝の様子が見られる。
感想
 滝とは反対方向の植林の中に一筋の土の高まりが見える。ハイカーの視線外であり、興味の無い人には全く気付かれないほどの規模の小さなものだ。
 それでも、そこにあるのは不自然な構造物と違和感を抱いた。土塁の一カ所は切り込まれている。
 800数十年前の土塁にしては崩れも少なく形よく残っている。4~5世紀前の中世城郭の遺構研究にも貴重な資料となるのではないだろうか。

布引の滝がある谷に下りると、

 

飛竜の滝

ミヤマキケマン

地図


阿坂城のろし実験パネル展示 ②

2020-03-16 15:41:26 | 古里の歴史

阿坂城のろし実験のパネル展示会場が移動した。

カリヨンプラザの期間を終了し、二つ目の会場「百五銀行松阪支店」に移動した。

スペースを提供していただいた百五銀行松阪支店さんにお礼申し上げる。

 

小学生の力作を一人でも多くの人に見てもらえるとありがたい。

 

”松阪の城50選”の見本も備えた。

こちらは売れると有難いのだが!

 松阪の城50選入手方法

 

 

 

 

 

 

 

 

 


阿坂城のろし実験 パネル展示会の準備

2020-03-02 16:18:17 | 古里の歴史

 2月6日に行われた松阪山城会による「のろし実験」の写真や、小学生の絵、文章などが松阪市市民活動センターにおいて展示される。

 先駆けて本日展示作業を行ってきた様子を紹介する。

 

センターの入り口に案内の表示をする。 👇

 

午前中に「森林公園」でパネル作りを行い会場に持ち込んだが多少のアレンジが必要となる。 👇

 

阿坂城と白山城、そして近隣の城跡をしるした地図(松阪の城館25カ所が分かる) 👇

 

現場に合わせて調整できるのは経験豊かな会員の実力! 👇

 

中原小学校4年生が制作した「白米城ののろしを見よう」という作品。👇

 

松阪市立大河内小学校6年生の「松田さんへ ありがとうございました」という作品 👇

 

伊勢寺小学校5年生の「山城会の方々へ」という作品 👇

 

松尾小学校6年生1組、2組の作品 👇

👆 生徒たちの素直な気持ちが読み取れて清々しい気持ちになります。関係者の反省材料や今後の指針になるような気がします。

 

大人が撮影した写真の部。 👇

各地から撮ったのろしの様子。👆

 

作品の展示を確認する会員。 👇

机の上にもたくさんの写真が並び、準備万端整いました。👆

 

皆様、お誘いあわせの上見に来てください!!

松阪山城会では会員の募集を行っております。お気軽にお知らせください。

 

「松阪の城50選」販売中!残りわずかとなりました。

松阪市市民活動センターのブログにも紹介されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


櫛田川流域の中世城館

2020-02-14 20:44:34 | 古里の歴史

 第6ブロック自治会長研修会において、テーマ「櫛田川流域の中世城館」について講演とデスカッションが行われた。

 

 

 中世城館、山城とは、(概念図)

  

櫛田川中流~下流域の中世城館(グーグル提供)

 

 矢倉山城  詳しくは「松阪の城50選」にて。

 

 御麻生薗浅間砦(注:仮称御麻生薗城は不適と思われる)

 

 櫛田川流域はは古くより道や川の活用により繁栄していたと考えられる。奈良の都と伊勢神宮や関東への発着点・大湊等により物や人の移動が盛んであったとも想像できる。

 物や人の流通が盛んであるということは、城砦が発生する要因になったのではないだろうか。

 

 


のろし実験大成功!?

2020-02-06 21:46:45 | 古里の歴史

8時50分、合図の旗を揚げるが強風で一人では飛ばされてしまう!

大の大人が二人で踏ん張る。

 

発煙筒1本では線が細い。来年は2本に!

 

それでも5Km先の白山城からは知らせののろしが経由したようだ。

 

早速、夕刊三重に各地の情報が寄せられた。

成功と言っていいと思う。