三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

片野館

2017-10-26 22:15:51 | 古城巡り

かたのやかた 

👆 東から入る

👆 北側 土塁

👆 北西隅 堀                👆 北西隅 土塁

👆 西外から見る館跡            👆 西 外堀

👆 南西 堀                👆 南 虎口

👆 南 土塁                 👆 南 土塁と堀

👆 敷地                  👆 かすかに区割りの溝

👆 神社の様子               👆 片野館跡 南東より遠景

城名
 片野館
住所
 津市一志町片野
形式
 居館
遺構
 土塁、空堀
規模
 東西50m×南北100m
標高 12m 比高 0m
歴史
 古代、この地に交野物部氏(かたのもののべうじ)が居住したことが、『旧事紀(くじき)』の天火明命(あめのほあかりのみこと)天降(あまくだり)の条に記されており、神明神社は交野物部氏の創建でその氏神であったと伝えられている。
経緯
 伊勢 国司北畠教具(とものり)の母(細川高国の娘)の館があった。また北畠家代々の別荘地であった。
情報
 一志町歴史語り部の会
環境
 縄文時代から室町時代までの多量の遺物とともに、集落の一部が検出されている一志町最大の遺跡があり、大和と伊勢を結ぶ交通の要所にあたり、いち早く先進文化が取り入れられたところ。浄泉寺跡・班光寺跡・天花寺廃寺・一志廃寺・上野廃寺・嬉野廃寺など古代寺院が集中していたところである。
現地
 雲出川右岸に位置し、雲出川の南を流れる支流・波瀬川との合流点付近からほぼ南へ約0.8kmにあたる標高12mの中位段丘上にある。初瀬街道から100mの地点にあり、現在は住宅地が接近し遺構の一部は改変されているようである。
考察
 居館跡で空堀(水堀かも知れない)が三方向に2重に施されている例を見るのは珍しい。またそれが現在でもほぼ推察できる程度に見られるのは貴重である。
感想
 1500坪(50m×100m)の敷地周囲を2重の空堀と土塁で囲った施設を想像するとやはり国司の別荘地として立派だったと思われる。
地図



西ノ城

2017-10-10 06:53:32 | 古城巡り

 

スライドデジブック   ヤマレコ山行記録

城名
 西ノ城
住所
 多気町津留・鍬形
築城年・築城者・城主 不明
形式
 山城
遺構
 郭、堀切(西に2か所、東に4か所)
規模
 東西30m×南北20m
標高 210m 比高 150m
経緯
 近津長谷城は貞和三年(正平二年・1347)楠木正行の挙兵に呼応し外宮禰宜の度会家行らが兵糧米・具足をととのえ構えたと「外宮禰宜目安案」に記されている。田丸城・一之瀬城とともに北軍をおおいに悩ました伊勢における南朝方の拠点の一つであった。
 その近津長谷城の「西の城」という説がある。尾根伝いに2100mほどの距離でそれほど困難なルートではない。
書籍
 三重の中世城館
環境
 丹生と楠田川の両面をを見下ろす急峻な山城である。
現地
 どこから攻めるにもまずは急峻な傾斜を攻略しないと近寄れない。尾根に取り付いても主郭までの距離がいずれのルートも十分ありこれも防御上有利である。
考察
 近津長谷城の縄張りと比較すると単純である。見張台や虎口や井戸など付属施設の種類も少ない。
感想
 城郭の形態は単郭プリン型で堀切は充実しているが土塁は見られない。帯曲輪の完成度も低くどちらかというと古いタイプの特徴がある。近津長谷城が本城とするとこの城の特徴から西を守る砦と考えられる。
地図

 

城域図

 

 


ひよどり城

2017-10-09 21:24:57 | 古城巡り

 

城名
 ひよどり城
別名
 五箇篠山羅城
住所
 多気郡勢和村上出江
築城年・者 城主
 不明
形式
 山城
遺構
 郭、土塁、堀切、出郭(主郭の南 370m・標高210m)
規模
 65m×95m
標高 266m 比高 190m
書籍
 三重の中世城館 日本城郭体系 勢陽五鈴遺響
環境
 小片野、片野、出江の平野部を眼下に見ることができる位置にある。
現地
 ひよどり城は五箇篠山城の北2.7Kmに位置し、その視線上の尾根に出郭がある。出郭の完成度は低く、見張台程度のものであるが意味はひよどり城の存在意義をを左右するものなのではないだろうか。
 五箇篠山城の遺構と類似点が一か所ある。郭群の中に極小プリン型で造られた郭がそれぞれ一つある。まるで橋を支える橋脚のようなこの形状は北畠氏に関係する城郭の中でも見られないものでそれが偶然かこの近接する二つの城郭にある。
 五箇篠山城とひよどり城が同年代、同目的で造られた城と考えると分かり易い。
考察
 勢陽五鈴遺響によると「天正十年(1582)本能寺の変に乗じて北畠具親が五箇篠山城に再挙した時、織田勢の手により篠山城攻撃用として築城された」という。
 日本城郭大系の解説によると「縄張りの構えから篠山城に対するというよりは反対側の東方に向けられており、織田勢の篠山城攻撃用の一時の城というよりはこの地に勢力を張っていた北畠家臣波多瀬氏の出城ということができよう」とある。
 筆者は後者の意見に賛同するが理由はさらにある。それは先述したひよどり城主郭から南に370mの所にある郭の存在である。
 その郭はひよどり城と五箇篠山城の視線上にありひよどり城から五箇篠山城を監視するには不都合な場所にある。ならばこの郭を重要視しもっと完成度が上がると考えられるが見る限り単なる見張台程度である。
 つまりひよどり城から五箇篠山城を攻撃する気配は日本城郭大系の理由に加えて感じられないのである。
感想
 むしろ五箇篠山を支える支城の一つと考えた方が納得出来る。波多瀬城の支城という説を唱える人もいる。
 また、朴ノ木館の詰城に該当するものは現在まで比定されていないことから朴ノ木氏の詰城説の可能性を全く否定することはできないと思う。
 小川新九郎の覚書・天正10年の具親蜂起の際のこの近辺での戦いの記述によるとひよどり城に関するものは出てこない。また、この時の制圧期間は2日間でひよどり城を使うひまもなかったと思われる。これを前提にすると「羅城説」否定される。
地図

 

 

 

 

 


愛宕砦

2017-10-09 13:50:02 | 古城巡り

 

 

👆 護国廟山門              👆 境内にある登城口

 

👆 郭上段にある虎口           👆 郭下段の更に下にある確かな凹部(井戸跡か?)

  

👆 郭上段(手前が土塁跡のふくらみ)   👆 同郭上段

 

👆 祀られている石碑(愛宕社の跡?)   👆 土塁の片鱗

 

👆 東側の谷(砦周辺の様子)       👆 後方が田引城、手前が愛宕砦

 

城名
 愛宕砦
読み
 あたごとりで
住所
 松阪市飯高町田引
築城年・築城者・城主
 不明(田引城主と考えられる(注1))
形式
 山城
遺構
 郭(2段)、土塁
規模
 東西20m×南北25m
標高 260m 比高 50m
環境
 田引城の東170mで尾根先端。眼下に和歌山街道と櫛田川を見ることができる。
現地
 護国廟が麓にあり登城口も境内にある。
 紀州の城主が参勤交代の折り高見越えでこの地を通ったとき、護国廟の前で籠を降り手を合わせたという言い伝えが残っている。
考察
 愛宕社(注2)が祀られていた場所へ砦を造ったのでこの名称があると考えられる。今は明治時代に合祀して八柱(やはしら)神社へ移って石碑だけが残っている。
感想
  田引城の郭は狭く人数の配置が難しいこともあって尾根筋は違うが行き来に便利なこの地を確保したと想像される。又位置的には下流からの前衛位置となる。
注1
 田引城参照
注2
 愛宕社とは主に火の用心の神様
城数の解釈
 愛宕砦と名称が存在することを尊重して田引城とは別に城数にカウントすることにする。

地図


 


朴ノ木砦 発見ならず!

2017-10-06 23:23:48 | 古城巡り

 

👆 西尾根道分岐                👆 西のピーク(人の手が入った様子無し)

 

👆 尾根に見つけた堀切の埋まったもの      👆 同かすかな凹部(両方にある)

 

👆 東のピーク(人の手が入った様子無し)    👆 看板(天竺山!?)

 

👆 尾根にある切通               👆 登山道入り口にある切通

 👈 近くにある「乳母山の神」

👆 朴ノ木砦があると仮定した小片野町にある山(標高298m)

 

 以前から気になっている山があった。松阪市小片野町にあり国道166号線辺りから見て形のいい山である。高からず低からず小片野の平野部とのバランスまでいい。
 ただそれだけで気になっている訳ではない。この山のふもとには山際遺跡朴ノ木館跡、花ノ木館跡の歴史を裏付ける名称が残る。
 また、織田信雄軍と北畠具親軍が朴ノ木砦で戦いを行ったという言い伝えも残る。記録としても近くの鳥羽見峠の戦いは歴然と古文書に残されている。
 ところが朴ノ木砦は山麓周辺ではその候補地としてもなさそうであるというのが通説のようだ。
 そこで連想したのがこの山であった。朴ノ木館跡は伝承の石があることで比定されてもよいと考える。
 
 館の直近の山には詰城を造るのが妥当な考えである。しかも山城にするのに形のいい山である。
 この山城を発見するために当初は関係者を巻き込んでと、考えていた。だがあまりに根拠に乏しい内容であることに気が付いた。
 犠牲者になるかも知れない人数は小さい方がいい。リスクを負って下調べに登ろうと決めた。
 もし、山城としての証拠になるようなものが見られれば検証のために複数の人を案内すればいい。
 
 2017年10月4日 決行
 国土地理院の地図に登山道として記されているので案外不安感は無かった。
 ところがその印の根拠はいつの時代のものなのか。現地は荒れていた。途中で道が無くなったのは一度や二度ではなかった。
 登坂の最中、午後から登り始めたことを後悔した。低い山とはいえ初めての所は念には念を入れるべきだった。朝から登るべきだ。
 下山はこの道を避けるべきだと決心していた。西か東の尾根道を下ることにしようと考えた。
 それでもとにかく尾根にたどり着いた。
 
 まずは西のピークを観察。ピークはすぐに判明した。目印になるようものは何もない。尾根がほぼ南北に分かれてあった。ここは人の手は入っていないと判断した。
 東西の尾根を東に向かってもう一つのピークを目指す。
 途中、堀切のようなものはないかと念入りに探す。
 一か所それらしきところがあった。深さは浅いが尾根から両方の山腹に向かって切れ込みが少し見られる。ただ堀の真ん中に大木があって深さが埋もれている。
 これだけでは堀切と判断するのは心もとない。
 ピークに着く。西のピークより広さは倍ほどある。一部シダで覆われて地表が観察できない部分もあるがこちらも人の手が入っているようには見られない。
 削平地がない以上は堀切らしいものがあっても山城とは言えない。
 この地点で山名を表す木製の看板が掲げられているのを見つけた。「天竺山」と解釈していいのだろうか。看板をよく見ると見たことがない漢字であった。竹の下がエになっている。多分「天竺山」でいいのだろう。
 尾根を観察するために更に東に進むが自然地形が標高を落としていく。その内大き目の切通に出る。そこは峠で道が何本かに分かれていた。
 後は南側の道を選択して下るだけである。
 
 結論;小片野町のこの山は「天竺山」というらしい。
 山城は無かった。朴ノ木砦はこの山には無かった。

 TさんやMさんには期待を裏切ってしまって恐縮だ。この穴埋めはいずれどこかできっとしますから今回はご容赦!。

ヤマレコ 山行記録

https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1279379.html