城名 |
矢倉山城 |
住所 |
松阪市八太町・阿波曾町・射和町、矢倉 |
築城年 築城者 城主 不明 |
形式 |
山城 |
遺構 |
郭,堀切、竪堀、のろし台 |
規模 |
主郭;東西約30m×南北約30m 不整円形 |
城郭部;東西170m×南北100m |
門から城郭部までの尾根部長さ;280m |
標高 164m 比高 北側120m、南側140m |
書籍 |
伊勢の中世182号 松阪遺跡地図 |
環境 |
西麓の旧熊野道を見下ろす位置 |
櫛田川の近くにあるが直接川との関係はないと考える。 |
現地 |
西に走る街道から尾根伝いに登るが最初に見ごたえのある二股の土塁と間の堀部に出くわし驚く。 |
尾根の途中に堀切、土橋があり最初に完成度の低い郭が出現する。虎口とも思える構造物も見られる。西の守りの重要さが感じられる。尾根を進むと直ぐ主郭だ。 |
城跡は松阪市射和町、八太町、阿波曾町の境、標高164mの山頂に立地する。射和・阿波曽集落との比高差は約140m、八太集落との比高差は120mである。城の西麓には八太・蛸路から射和への街道が通る。(注1) |
城の中心には、東西約30m、南北約30mの主郭(A)がある。主郭の西から南にかけて帯郭(B)が廻る。主郭と帯曲輪の間には急な切岸が施され、比高差は西側で約6mもある。主郭と北西裾には深さ約50cmの溝状の遺構がある。帯曲輪の西側には段差や竪堀(C)が掘られる。帯曲輪の南側にも竪堀がある。帯曲輪はさらに東にも続いている。 |
主郭の東には大規模な堀切(D)がある。堀切の深さは曲輪内側で約2.5m、外側で約1.5mである。さらに30m程東には堀切(E)がある。堀切の深さは内側で約2m、外側で約1mである。これらの堀切は城の背後を固めるために構築されることが多く、築城主体は東側(射和側)を背後と考えていた可能性がある。(注2) |
考察 |
矢倉山城の防御遺構は、主郭とその周辺の切岸、竪堀を持つ帯曲輪、堀切から構成されている。このような組み合わせを持つ城跡は、伊勢国中南部の雲出川流域(旧一志郡)、櫛田川流域(旧飯高郡、飯野郡、多気郡)の山間部に多く分布している。阿坂城跡の南郭など北畠氏が関与していたと考えられる城跡にも採用されている。矢倉山城跡もこれら一連の城郭群に属すると考えられる。 |
防御遺構の配置から、城は西麓の八太・蛸路から射和・櫛田川流域に向かう道を正面とし、東の射和側を背後としている可能性がある。このことからその性格は八太・蛸路から射和への街道を抑えるためのものと考えられる。 |
感想 |
西麓にある城への入口は他の城では見られない独特の形状をしている。伊勢の中世182号が指摘しているようにこの城が西麓の街道を抑えることが主目的の城だと位置づけると、この入口の独特の形は当時の関所の施設や風景を連想させる。 |
推察 |
熊野道の監視と併せて神山城の西に位置し、のろし台があることから ネットワークも目的とした城ではないかと推察する。また北麓の戸垣内館の城主の詰城ということも含んで考える方がいいかも知れない。 |
城の北・上蛸路町にある真生寺は当時大倉山中腹にあり北畠家の祈願所であったが永禄十二年(1569)の織田信長の大河内城攻のとき兵火にかかり焼失した。又下蛸路の真福寺も罹災したという。このことから同時期に矢倉山城が攻められたか焼かれたかしたと想像するのは易くあながち間違いではないだろう。 |
(注1)熊野道の旧道と思われる。 |
(注2)更に尾根の先80mには小型だが堀切が施され東の守りを固くしていることが分かる。 |
地図 |
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