三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

岡本城と萩野城

2017-11-27 23:04:42 | 古城巡り

二つの城の距離は200m、しかしその歴史は200年の差。

そして、第三の郭群。

一体、どうなっているんだろうか!?

 👇 南から遠景(合成写真)

 

位置関係を軌跡で見ると 👇

 

 スライドショー

城名
 岡本城
住所
 津市芸濃町岡本
築城年
 13世紀初め
築城者 城主
 岡貞重
形式
 山城
遺構
 曲輪、土塁
規模
 東西120m×南北60m
一族
 若菜五郎盛高に属する
標高 50m 比高 10m
歴史
 若菜五郎らと元久元年(1204)に乱を起こし落城した。
経緯
 平家残党は20年の雌伏を経て、将軍後継問題で揺れる幕府の動揺に乗じて建仁3年(1203年)12月、若菜五郎盛高が軍勢を率いて伊勢国の守護である山内首藤経俊の舘を襲撃し反乱の兵を挙げた。(三日平氏の乱(鎌倉時代))
書籍
 三重の中世城館
 岡本の岡八郎貞重および若菜五郎ら平家の一党が元久元年(1204)に乱をおこしここに立てこもり、京都守護の平賀朝雅の軍により、一党80人が切られた。口伝によればここより落ちて間道伝いに高野尾の三月田に出て自殺したという。
 芸濃町史・上巻(P238)
 岡本城は岡本の集落の北西方、萩野との境に近い丘陵ににある。「勢陽五鈴遺響」によれば、元久元年の三日平氏の乱の際、平氏の一党、岡八郎貞重父子などがたてこもった城という。城跡は、安濃川左岸の丘陵地帯の中で沖積地に近い標高55mの比較的小さな丘陵の頂部に立地する。中央に東西にのびる土塁が残り、やや間をあけて南にこれに直行する方向の土塁がある。これらの土塁によって区画された四つの郭が遺存している。
感想
 三日平氏の乱(鎌倉時代)の城
 西方の萩野城は15世紀の城、この岡本城は13世紀の城、築城時期は200年程の隔たりがある。しかし、時を超えて距離感だけで想像するとやはり二つの城は有機的な繋がりがあったと考えるのが自然である。

 両城の中間位置よりやや東方に第三ともいえる郭群がある。これがその解を解く手掛かりになるのかもしれない。他の山城では見かけない、三点関係のここだけの風景になっていることが注目である。

 

 

城名
 萩野城
住所
 津市安濃町萩野
築城年
 応永年間(1394~1427)
築城者
 萩野氏
形式
 山城
遺構
 郭、虎口、削平地
規模(三重中世城館)
 60×50m 面積は650坪 城跡は106.5m×20mの地と、25m×28mの広さの地を、巾1mの土塁で囲み、その中の中央に18×11.4mの地を土塁で囲んだ地などが残されている。
城主
 萩野弥左衛門
一族
 北畠氏家臣
標高 70m 比高 30m
歴史
 応永の頃(1394~1427)、萩野弥左衛門がここに居住し、北畠氏に属していたが其の後、廃せられた。又一説には、永享年間(1429~1440)に国司北畠満雅が兵を起したとき、関の一党が一味して、ここに立てこもったという。
書籍
 三重の中世城館 芸濃町史
 芸濃町史・上巻(P236)
 萩野城は「伊勢名勝志」によれば応永年間に北畠の臣、萩野弥左衛門が居た所とされ、萩野字大屋垣外にあり面積650坪で周囲に石塁をめぐらしているとされる。しかし、同所にそのような遺構は遺存しない。地元の古老によれば安西神社東方の標高約70mの丘部頂主郭周辺に所在したという。現在は削平されて忠魂碑の建つ広場となり遺構は遺存しないが地形的にも納得でき得る場所である。
環境
 安濃の平野部の真ん中にある丘陵の北方に位置する。同じ丘陵にはやや南東に安濃城があるがこの時期にはまだ出来ていない。そして直近には岡本城と接する位置にあるが関係を明らかにすることはできない。
現地
 公園として改変されているが大きくは城郭を想像する事ができる。主郭には虎口と見張台があったようだ。登城道の左右には削平地があり郭として機能していたと思われる。主郭背後の高まりは遺跡とされている。
考察
 特筆すべきは萩野城と岡本城の位置関係である。背中合わせの位置にありながら関係は明らかでない。
感想
 北畠満雅反乱の時代の城
 東方の岡本城は13世紀の城、この萩野城は15世紀の城、築城時期は200年程の隔たりがある。しかし、時を超えて距離感だけで想像するとやはり二つの城は有機的な繋がりがあったと考えるのが自然である。
 両城の中間位置よりやや東方に第三ともいえる郭群がある。これがその解を解く手掛かりになるのかもしれない。他の山城では見かけない、三点関係のここだけの風景になっていることが注目である。
地図



霊山城

2017-11-26 12:44:52 | 古城巡り

れいざんじょう

 スライド 霊山城 霊山城

霊山城

 

 👆 グーグルマップにおける霊山城跡の表記

早速、訪れてみる。

そこは想像以上の場所。

9世紀の山岳寺院址。

16世紀、伊賀天正の乱。

僧兵は死力を尽くして寺を守ろうとした、と思う。

その瞬間、寺は城塞となった。

しかし、焼失。

後、麓に「霊山寺」は再建され、

山岳寺院址と霊山城伝承が残った。

 

 

 


野呂氏館

2017-11-21 21:33:47 | 古城巡り

 

野呂氏館  スライド

城名
 野呂氏館
住所
 津市芸濃町椋本
築城年
 時期は、出土した常滑焼大甕の特徴によって16世紀後半のものと考えられる。
築城者
 野呂氏
形式
 居館
遺構
 郭、土塁、空堀
 蒸風呂の燃焼部と考えられる炉遺構は県内でも初めての発見。
規模
 東西80m× 南北90mほどの方形(三重の中世城館)
 東西300m×南北200m(日本城郭体系)
城主
 野呂民部少輔
一族
 雲林院出羽守の家臣
標高 80m 比高 15m
歴史
 雲林院氏を亡ぼすために織田信包が謀って、天正8年(1580)に雲林院氏によって野呂氏は滅ぼされた。
経緯
 雲林院氏の家臣であった野呂氏の居館とされるが、詳しいことは不明
書籍
 三重の中世城館 日本城郭体系
環境
 椋本の河岸段丘の縁に築かれた。南に安濃川と安濃の平野部を望み、西に城主、雲林院氏の居城を望む。
開発前の様子(三重の中世城館より)
 館は低い台地にあって、深い堀を廻りにめぐらし、更に内堀を巡らしている。現在は、西に巾3mの堀があり、東は巾6m、深さ5mの空堀となっており、北側にも空堀がある。北西部は宅地化され、館跡は高さ2mの土塁にかこまれ、その部分の面積は360坪で、畑となっている。
開発前の様子(日本城郭体系より)
 この館は最西部の郭には巾10m、深さ5m近い外堀を伴い、また、中央部の郭には見張台状のものもあって、丘城としての構えを見せていて交通の要衝を押える室町時代の土豪の居館にふさわしい規模のものである。
現地
 前出の開発前の様子より開発が進み、北側の土塁は削られ堀も埋められ見張台状のものは削られ、記述の様子は現地で確認することが困難である。
 開発が行われている西側地域より、東方向の藪の中に潜む郭、空堀、土塁などが現在でも確認することができるが、これらも野呂氏館に関係する遺構であると考えられ観察するに値する。
考察
 三重県で初めての蒸し風呂の発掘は、当時の有様を知ることになり中世武士の日常を窺う上で指標になるといえる。
感想
 「調査対象外の館跡中心部まで開発が進んでいったことで、堀や土塁の痕跡がほとんど残っていない状況となった。」こうやって、遺構はどんどん無くなっていく。
地図

 <!-- 野呂氏館 -->

            


椋本城

2017-11-21 14:03:24 | 古城巡り

 

椋本城  スライド

 

城名
 椋本城
読み
 むくもとじょう
住所
 津市芸濃町椋本
築城年
 「正道のWebサイト」を参照すると白河天皇の時(1072~1086)築城となると忍田城の築城時期と同じとなる。
築城者
 伊藤氏
形式
 山城
遺構
 郭、堀切、土塁、井戸跡
規模
 東西75×南北60
城主
 伊藤氏  後、野呂豊後守か
標高 110m 比高 40m
歴史
 「正道のWebサイト」参照
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=hiG3sbLVXIAJ&p=%E6%A4%8B%E6%9C%AC%E5%9F%8E&u=itohmasa.web.fc2.com%2F
 庵芸郡椋本城は白河天皇の時、伊藤貞好なるもの居る(五鈴遺響、勢陽雑記拾遺)と。
環境
 忍田城まで3.5km(有視界距離)
現地
 低く細長い丘陵地に南を睨むような縄張りで城はある。
 安濃川や関への街道を挟んで忍田城と反対位置にある。
 築城時期が同じということを考えに入れると両城は安濃の平野北部と関への街道を守る同じ機能を持たせた城ということになると思われる。
考察
 時の政権が忍田城の忍田氏と椋本城の伊藤氏にこの地を治めるよう命じ、両城は有機的な関係を持って存在したのではないだろうか。
感想
 史料が少ないが城自体はまだ形をある程度保っているので訪城はするに値すると思われる。
地図

 


忍田城

2017-11-21 10:41:43 | 古城巡り

 

忍田城  スライド

城名
 忍田城
読み
 おしだじょう
住所
 津市芸濃町忍田
築城年
 白河天皇の時(1072~1086)
築城者
 忍田入道
形式
 山城
遺構
 郭、土塁、堀切、井戸
規模
 東西110m×南北80m(北方の堀切を含むと200m)
城主
 忍田氏の居城。
標高 200m 比高 50m
歴史
 忍田入道が白河天皇の時(1072~1086)にここに築城し、歴代が居住した。その後裔は美濃守、また平左衛門尉と称す。のち平左衛門尉は藤堂藩に仕える。なお美濃屋神社の棟札に康和5年(1103)忍田地頭宗重とあるがこれも関係するのではないか(勢陽五鈴遺響)
経緯
 中勢の雄、長野氏の分家・雲林院氏が進出してくる以前からの地侍であったと思われる。しかし、この忍田氏と雲林院氏の関わりについて何も伝えられていない。
書籍
 勢陽五鈴遺響 三重の中世城館 日本城郭体系
環境
 安濃の平野部の北部を見おろす位置にある。また、関に抜ける街道を2Km東に見る。その反対側の東に椋本城がある。
現地
 城は山地の頂部を切り込んで三方を土塁とした主郭が最高部にあり、その背後にあたる北側には幅広い堀切がある。その北方へは狭い尾根が続き100mほど離れた所にも堀切があって背後を固めている。これより北方は自然地形となって人為的な構造物は無い。
 主郭から東へは尾根筋に30m程土塁が続き、その南側斜面には大小の郭が階段状に切り込んで造られている、山の南側麓を中心に帯郭状の削平地が取り巻いているがここまでが城域と考えら、頂部から山の裾まで全体が城郭を成すものと推定できる。
 所々に井戸跡が見うけられ水は城内で賄われたと見受けられる。一部コンクリート製の洗い場があるのでこれは考えから除外する。
考察
 規模は大きくはないが郭、土塁、堀切、削平地などキメ細かな縄張りに思われる。戦国時代より古い時代の創設という解説があるが残り方の具合といい完成度の高さといい中世にリフォームされた可能性もあるのではないだろうか。
感想
 南に街道と安濃川を望み、南向きの斜面に順に郭を切込み、当時の忍田城の姿を想像すると南から東にかけての眺望良く、小さいながらも堅固で見ごたえのある城であったと想像する。
 主郭を取り巻く三方の土塁はこの城の見どころの一つと思う。
地図

 

 

 


2017 ノーマルカー4時間耐久シリーズ 第5戦

2017-11-20 23:24:31 | ダートの会

 

 

 

2017年 ノーマルカー・ダート4時間耐久レースシリーズ

第5戦 11月19日 天候;雨時々雹(最悪!)

第5戦のスライド

 

 21台中、15台完走、チームは3位。このレースは悪条件の中、許される結果と思われる。パンクが1回、おかまされたバンパー落下対策くらいがマイナス点。

 

リザルトhttp://b4.spline.tv/palmtown3/?command=GRPVIEW&num=2386

ポイントhttp://b4.spline.tv/palmtown3/?command=GRPVIEW&num=2387

 シリーズは6位という残念な結果となった。2017年はトラブルが多発、台風にも悩まされた。来年は一段と熾烈な戦いが予想されるがチャンピオン目指して頑張る!


払戸城

2017-11-11 09:02:48 | 古城巡り

👆 大洞さんを背景に払戸城

👆 切通の左手が城跡

城名
  払戸城
読み
 はらいどじょう
住所
 津市美杉町石名原
築城年 築城者 不明
形式
 山城
遺構
 郭、土塁
規模
 東西50m×南北50m
城主 不明
標高 370m 比高 10m
環境
 雲出川の支流、伊勢地川と伊勢本街道を北に30m程見下ろす舌状台地の先端に城はある。
 多気より西6Km程の所にあって街道を監視する拠点であったと思われる。
現地
 三多気の桜で有名な美杉町杉平の三叉路、進入路から東へ800mの道から入る。
 三叉路を左に曲がると植林の丘が見えるがこれが城跡である。害獣対策の柵が設置されているので慎重に出入りする。
 郭の一部は共同の墓地となっているので慎重に行動する。墓の領域には踏み込まない方が良い。
考察
 郭は大きく切り込まれた方式で2段から3段の郭が設けられている。
 隣の午王田城と同じく駐屯地のような性格の城であると思われる。
感想
 御嶽城を頂点とした午王田城、堂ノ谷城、払戸城のネットワーク的機能を持った同一の城主によるものでは無いかと想像してしまう。
地図

 

 


午王田城

2017-11-10 22:10:27 | 古城巡り

 

 

スライド   デジブック

城名
 午王田城
読み
 ごおうでんじょう
住所
 津市美杉町石名原
築城年 築城者 不明
形式
 山城
遺構
 郭、石垣、土塁
規模
 東西30m×南北45m
城主 不明
標高 360m 比高 30m
環境
 雲出川の支流、伊勢地川と伊勢本街道を北に30m程見下ろす舌状台地の先端に城はある。
 多気より西6Km程の所にあって街道を監視する拠点であったと思われる。
現地
 三多気の桜で有名な美杉町杉平の三叉路、進入路から東へ640mの林道から入る。平成29年秋現在では台風の影響で車の進入は不可となっている。
 林道を進むと平たい尾根に出るので右に折れて尾根を下る方向へ進むと直ぐに郭が目に入る。
 郭は2段から成り立っており要所要所に石垣や石積みが見られる。あるいはその下の方に削平地があるが近世の畑か当時の城郭か目視では判断できない。
考察
 はたして、石垣や石積みが当時の築城に伴うものなのか後世の改変で行われたものなのかは分からない。
感想
 よく似た舌状の尾根が数本、南から北に向かって、伸びているのでそれらに別の郭があってもおかしくない。
 200m西に午王田公園があり削平地や切岸を備えた出郭だったのかもしれない。
 津市の遺跡地図にて示されている午王田城。場所については信用できると判断した。石垣は当時のものなのか近世での改変によるものなのか。田んぼにしては水路が無い。城郭にしては防備が貧弱のように思われる。
地図

 <!-- 午王田城 -->