三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

五箇篠山城(ごかささやまじょう)

2020-09-22 10:26:42 | 古城巡り
城名
 五箇篠山城
読み
 ごかささやまじょう
旧名
 五ケ城
住所
 多気町朝柄/古江 城山
築城年
 不明
形式
 山城
遺構
 曲輪、堀切、土塁
規模
 270×115m
城主
 野呂氏(伝承) - 五箇景雅(伝承) - 野呂筑前守 - 野呂氏代々(伝承) - 安保大蔵大夫
一族
 北畠氏家臣
標高 140m 比高 75m
歴史
 史料に裏付けされた信頼性の高い情報を諸氏が文献としているものを時系列に記述する。
 「文献上の初見は、南北朝時代にさかのぼる。仁木義長が伊勢守護に任じられると1342年に田丸城や阪内城を相次いで陥落させ伊勢国での南朝方を一気に劣勢に追い込み、翌1343(康永2=興国4)年には、五ヶ城にも軍を進め攻撃している。その後の史料がなく合戦の結果は不明だが、五ヶ城もおそらく落城したものと考えられる。」(県史編さんグループ 小林秀氏)(落城1⃣)
 「1465年12月6日付けで、北畠氏による山田への攻撃の中止を求める訴状が宇治六郷神役人書状として、奉行所へ提出されている宛先に野呂筑前守(注1)の名がある。」(勢和村史)
 「1582年(天正10)、本能寺の変で織田信長が死ぬと、具親は安芸から再び伊勢にもどってくる。そして安保大蔵少輔・岸江大炊助・稲生雅楽助以下3000人で挙兵して五ヶ城に立て籠もる。
 西端の曲輪には土塁が巡らされ、虎口(こぐち)には、小さいながらも桝形も設けられ、また、一部には石塁も使われていたがこれらの防備は、北畠具親の籠城に際して設けられたことは明らかである。
 しかし翌年の1月1日に織田信雄は津川玄蕃頭・田丸中務少輔・日置大膳亮・本田左京亮等をつかわせて攻撃してきた。具親軍・安保直親は本田軍の中西帯刀などを討ち取る激戦を繰り広げたが、具親軍の敗色が濃厚となり、2日の深夜に松明を投げつけたり鉄砲をさんざん撃つという最後の抵抗を試み、翌日の早朝に城内に松明・鉄砲の火縄をつけたまま具親は密かに伊賀へ逃亡した。午前中に信雄軍が空になった城を落した。」(県史編さんグループ 小林秀氏)(落城 3⃣)
 
 その他伝承の域を出ない、ことがらや野呂氏の名前が散見されるものを時系列で記述する。
 「野呂氏は上野国から当地に移住してきて、ここに城を構えたのかも知れない。」(同時代の城に采女城や長野城がある。)(13世紀中頃(1260年±50年))
 「室町期 北畠氏被官、朝柄の土豪・五箇景雅が当地域を本拠地としたと考えられる。五箇氏は文明年間(1469~87)に北畠氏に背いたことで滅ぼされた。」(14世紀後半から1469~87年)(落城 2⃣)
 「五箇氏の後、野呂氏が入部したものとみられる。」
 「野呂三郎は多気郡の豪族。斎宮城、智積寺城を豊田五郎右衛門尉と共に奪うが本田美作守勢に敗北、討死した。」(1555年)
 「野呂左近将監;織田家との和議に応じるよう北畠具教に説得したが誅殺される。」(1562年)
 「野呂越前守実高、伊予守父子は北畠海賊衆。北畠家から離反した志摩海賊衆の討伐勢を指揮する大将。討死。」(1568年)
 「永禄12年(1569)信長の伊勢侵攻。五箇篠山城主野呂越前守源実は二見付近に出撃し、一族皆討死。」(1569年)
 
 伝承は篠山から粥見にも飛び火している。
 「篠山城から落ちのびて柳瀬に住まいした野呂兵庫守が持仏を埋めて大和に去り、云々。(飯南町文化財調査委員会)」
 「柳瀬には北畠の臣、梁瀬兵庫守が城を構えて城主となったという。(飯南町史)」(野呂兵庫守のことか)
 現在は粥見柳瀬(やなぜ)の茶畑の中央付近に門前・門坂という地名があり、一段高くなったところに削平地が残る。
 
環境
 城跡は標高140メートル、比高差にして約70メートル程の完全な独立丘陵の頂上にあり周囲の自然地形を巧みに利用して築かれている。麓には朝柄川、櫛田川、沼地があり要塞の要件を整えている。
 今に残る遺構は南北朝時代のものでなく戦国時代末期(1580年代か)に改修され北畠氏によって維持されたと考えられる。遺構の保存状態も良好で、県内屈指の山城跡である。なお、「五箇篠山城」の名称は後世の命名であり、当時は「五ヶ城」と呼ばれていた。
 縄張の中心は山上の尾根を東西に深い堀切で分断して築かれた台状の連郭群と、その周囲に配した帯郭からできている。曲輪は基本的には土塁はないが西端の曲輪のみ「コ」の字に取りまく低い土塁がある。虎口もこの曲輪に設けられており、恐らくここが主郭であったと考えられる。虎口の付近から川原石が出土しており一部で石塁が築かれていたようだ。
 防備施設の遺構分布は丘陵の北斜面は地形が単純で急峻なため少なく、南斜面は谷が多く独立した尾根を造っているので要塞の条件を備えており、遺構が高所に集中している。
現地
 神山城などとも同じだが意外と狭い山城である。
 また、近くには信雄軍が五ヶ城を攻める際に築いたという「ひよどり城跡」がある。
考察
 五箇氏や野呂氏を系統だって述べたものが未だ無いようである。一つ見えてきたと思われることは”野呂氏が長い間(3世紀位)ここ朝柄を本拠として納めていただろう”ということ。
 そして、北畠氏の臣下として幾つかの戦いに参加し、悲惨な局面に終始し、戦勝者の記録も残せなかったこと。
感想
 戦国時代に勇猛な武者の家を何代も継いできた土豪の悲哀な歴史がここにあった。
注1
 野呂氏では”越前守”が頻出するが別人と考える。
地図


 小さいが虎口は枡形である。またこの付近から川原石が出土しているので一部石塁が築かれていた。
 ②の郭(小さい)

 ③-④の間

 ④-⑤の間 

 南斜面、入らないほうが無難

 北にひよどり城のある山が見える

 北東に西ノ城のある山が見える

👆 柳瀬観音の説明看板”野呂兵庫守”の名前が見られる。

👆 飯南町史に記載される場所を推定すると”茶畑の中に削平地らしき場所がある”

初回投稿 2009年2月27日 

改定1 2020年9月22日 (文章の改定;野呂氏の情報整理 写真2枚追加)

 

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