城名 |
東ノ城 |
読み |
ひがしのじょう |
別名 |
鍬形城(再発見奥伊勢の城・伊藤徳也氏著) |
住所 |
多気町井内林/鍬形 |
築城年 |
1347年(貞和三/正平二)11月26日 甲子(きのえね) |
(新暦:12月28日) |
築城者 |
度会家行 |
形式 |
山城 |
遺構 |
曲輪、堀切 |
規模 |
東西44m×南北50m×2郭 |
城主 |
不明(渡会家行の一家臣と考えられる。東ノ城の東にある尾根の先端に「佐伯城」があり、麓に北畠家臣御旗本組頭佐伯権之進の名があることから推定される。 |
一族 |
上記より佐伯権之進自身又はその一族との推察も想起させる。 |
標高 北郭217-南郭222m 比高 同186-同191m(伊勢本街道より) |
歴史 |
近長谷寺にある「近津長谷城址」の看板に「貞和三年(正平二・一三四七)楠木正行に呼応し外宮禰宜の渡会家行らが兵糧米・具足をととのえ構えたと『外宮禰宜目安案』に記されている」とある。 |
多気町史では「貞和三年秋〈中略〉11月26日」と記す。新暦で12月28日となる。下記の経緯より楠木正行討死の約一か月前のことになる。 |
経緯 |
楠木正行は正成嫡男で、正時・正儀の兄。正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれるのに対して、正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれる。生年未詳であるが没年は 正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)。四條畷の戦いにおいて、幕府の総力に近い兵を動員した高師直と戦い、一時は師直を本陣である野崎から後退させるなど優位に立つも、追った先の北四条で力尽き、弟の正時を含めた26人の将校と共に戦死した(正行22才)。 |
書籍 |
三重の中世城館 多気町史 ウィキペディア |
環境 |
東ノ城は近津長谷城砦群の一つで本城の北西1kmにあり。高見峠を越えて吉野につながる和歌山街道と小片野で分岐した伊勢本街道及び櫛田川を抑えている。 |
現地 |
多気町立津田小学校南に走る県道421号線から「伊勢三郎物見の松といぼ地蔵」を経由し山中へ入る。池を超えると郷の集合墓の前に行きつく。付近の広場に駐車可能である。 |
集合墓の裏手尾根に取り付く。10分ほどで最初の平坦地だがここは小規模な円墳となっている。この山は古くから敬われていた場所と考えられる。 |
円墳から30分ほどで北郭手前の平坦地(恐らく城域の一部と考えられる)に着く。 |
遺構としては西側の斜面に竪堀か道かのへこみが見られる以外注目すべき場所はないようである。 |
更に登ると北郭に着き、北郭から尾根を南下すること数分・100mで南郭に着く。 |
考察 |
朝廷が南北に分裂して十数年後でまだ不安定、幕府も混乱する中、南朝方に組した渡会氏は北畠氏の臣下として、関西で幕府軍と戦っている楠木軍を援護するため、また幕府軍から南勢地及び伊勢神宮を守るために長谷の地にこれほどの城砦群(注)を造った。 |
兵糧や物資を南勢地から関西へ運ぶための流路を確保するため、又は幕府軍の攻撃に備えて伊勢本街道や櫛田川を抑えるためにこの長谷の地は渡会氏にとって最後の大きな拠点であったと考えられる。 |
感想 |
14世紀の山城。田丸城、神山城、一之瀬城などの次にできた城。1347年築城とすると約六百数十年前のこととなる。神山城や一之瀬城の遺構の残り方を見ると、東ノ城の遺構の状況が同じように良好であることが疑われるわけではないが、不思議で感慨深い。 |
同じ尾根に南北に分かれてあるのは、本城あるいは他の拠点との通信のやり取りを主眼としているからと考えられる。北郭、南郭それぞれの視界や視野があったと考えられる。恐らく間にある100m程の尾根は兵が走って連絡し合っていたと考えられその様子が想像される。 |
注 |
近津長谷城砦群は本城・近津長谷城に始まり、長谷城・東ノ城・佐伯城・西ノ城・茶臼山城・牧城などの支城が配置されている。このことからも渡会氏がこの拠点を重要視していたことが分かる。兵の総数は700人といわれる。 |