三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

梁瀬兵庫頭城跡

2022-02-15 14:33:32 | 古城巡り

松阪市飯南町粥見に史跡柳瀬観音がある。

入口の階段右側に案内の看板がある。

あらためて活字に起こしてみる。

「史跡 柳瀬観音

 中世末期の戦国時代、篠山城から落ちのびて、柳瀬の地に住んでいた野呂兵庫頭が

持仏を埋めて大和へ去り、元和三年村人が発見して深田金助らがこの観音寺を創建し

たと伝えています。

 現在は無住のため荒れ果てていますが、大正時代まで芝居小屋が假設され、しばし

ば興行されていました。附近には武将館ゆかりの地名がいくつか残されています。

                          飯南町文化財調査委員会」

である。

 中世城館ファンとしては見過ごせない情報が幾つかある。

 1、中世末期の戦国時代に篠山城から落ちのびて柳瀬の地に野呂兵庫頭が

  住んでいた

 2、附近には武将館ゆかりの地名がいくつか残されている

 以上9つのキーワードがみられる。

 

 飯南町史には以下の記述がみられる。

 1、柳瀬の北山麓には中世の山城らしき跡も残り、武将在郷のことも決して虚構と

  は言えないのである。(p, 1452 )

 2、中世期になると、北畠氏の支配下となり、末期となって柳瀬には北畠の臣

  梁瀬兵庫頭城を構えて城主となったという。その場所は観音寺より約500mほど

  東にある山裾の地と伝えられ、門前と呼ばれている。(p,246)

 3、また観音寺縁起に「当国粥見の祭主野呂兵庫頭平忠高(後、梁瀬兵庫頭)とあ

  り、粥見の支配者であったことをうかがわせている。(p,246)。

 4、出鹿の中山は、北畠の家臣中山三衛門義高なる者が、信長の北畠攻略後一族

  と共に立てこもった場所であると伝えている。(p,247)

 以上、またいくつかのキーワードがみられる。

 

 場所の確定

 カシミール3D(左図)、赤色立体地図(中央図)、Google空中写真(右図)から

ある地点を見出した。

 Google空中写真が茶畑を映し出している。この辺り一帯は南に向けての緩斜面とな

り、お茶の生育に好都合な地勢と思われる。

 その中の一カ所だけは他と異なる様相を示している。現地の風景からは判別しがた

いが、カシミール3Dや赤色立体地図からは他との違いが明瞭に浮かび上がる。

 念のためこの地点をカシミール3Dの断面図で確認してみる。

 黒い線の部分の断面図を西から順に下図に示す。

西側断面図☝

中央断面図☝

東側断面図☝

 上図から、中央の断面図にだけ水平な部分を見い出せることが分かる。この水平な部

分と同じ様相を示す場所はこの付近一帯には見受けられない。

手前から☝

この部分☝

 

他は傾斜地☝

また、この場所は観音寺から東へ400mのところにあり、飯南町史が指摘する500m

とは100mの差があるが、500m周辺にはそれらしき様相が無く誤差と考えたい。

 更に隣接する南の区画も、他とは異なって傾斜がほぼ無いといってよいと判断で

きること、道が付帯することから同じ城跡の一部かもしれない。ここを住民のご老人

達は「門坂」と呼んでいる。飯南町史は「門前」と記しているが、おそらくこの辺と

いうくくりでは間違いなさそうである。当該地の大きさは東西50m×南北100m

ほどである。他に遺構らしきものは見当たらない。

 案内看板では「野呂兵庫頭」であり、飯南町史では「梁瀬兵庫頭」とされている。

土地の名前を優先して「梁瀬兵庫頭城跡」とした。

 粥見には他に、白粥城と言う伝承もあり、また粥見神社の北側には別の山城遺構ら

しき場所(出鹿砦又は粥見城)もあり、まだまだ全体像を整理したとは言えない状況であ

るため、今後の整合性を予見して、武将名を冠した城名とした。

柳瀬兵庫守館跡 縄張図☝

尚、郷土史家小林孚(こばやし・かえし)氏が1982(昭57)年にこの地を訪れ結論として

「見聞をして後考の資としたい」と締めくくり『北畠国司縁城』に記している。

 

 

 

 

 



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