三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

小田御崎砦

2020-08-23 09:37:49 | 中世の歴史

城名
 小田御崎砦
読み
 おだみさきとりで
住所
 桑名市長島町西外面(長良川)
築城年
 天正年間
遺構
 消滅
規模
 不明
城主
 梅戸高実-高資
一族
 田光氏の後裔。
 北勢四十八家(八風街道の抑え-六角氏と縁組)の一家。
歴史
 長島の西の守備砦。
 ウィキペディアでは、1568年(永禄11)織田信長に攻められて滅亡した、とある。

 三重の中世城館(桑名史)では、1574年(天正2)7月落城とある。

 上記1568年は、織田信長第2回目の伊勢侵攻の時、下記1574年は、一向一揆3回目討伐の時である。
書籍・参考資料
 三重の中世城館・他
現地
 桑名市教育委員会文化財「「遺跡包蔵地検索」によると、光栄寺の西250m位の長良川の水中を示している。
 付近にある大智院には長島増山家六代藩主正賢(号雪斉)による、松尾芭蕉の「奥の細道」の旅後、大智院訪問百年を記念して、自筆による「蕉翁信宿処(しょうおうしんしゅくどころ)市指定有形文化財」の碑を寛政元年(西暦1789年)3月3日建立がある。
地図

輪中の石垣


長慶天皇の事蹟を追う

2020-08-10 21:15:21 | 中世の歴史

 ナゾの天皇と呼ばれる長慶天皇とは?

 【その所以】

 ● 即位の日が特定されず、式典の史料もない。

 ● 即位後、行在所が転々とし、明らかでない。

 ● 後亀山天皇への譲位の日も推定にとどまる。

 ● 譲位後、院政を敷いていたと考えられるが実態が明らかでない。

 ● 叔父の宗良親王の『新葉和歌集』にも、南朝の皇位は三代であるとの記事があって、後醍醐、後村上、後亀山天皇があてられている。

 

 三重県松阪市嬉野上小川町の花園地区に ”御渡寺趾” らしき遺構が認められる。嬉野町史によると ”御渡寺趾” は「長慶天皇が多気より下られたときの行在所であったと伝えられる」とある。

 この御渡寺跡に長慶天皇はいつごろ来ていたのだろうかという、素朴な疑問もある。

 以下に長慶天皇の生誕から崩御までの52年間に亘って、年ごとの事蹟を整理する。。

一覧表の拡大

 文末の記号は参考資料を表す。

 *1 国史大辞典 *2 日本大百科全書 *3 世界大百科事典 *4 四条畷楠正行の会 通信 *5 熊谷一哉氏ブログ *6 ウィキペディア

上記一覧表より、

 ● 1368年の践祚までの資料はない。

 ● 践祚の年から、天野山金剛寺→吉野→大和栄山寺と行在所を転々とする。

 ● 30才頃は和歌の最盛期、叔父の宗良親王と良好な状態と考えられる。

 ● 践祚以来、強硬派で推し進めてきたが、いよいよ穏和派の後亀山天皇の時代を認めざるを得なくなってきた。

 ● 1387年から崩御までの8年間は行方知らずで、南朝への支援を求めて全国各地の武将のもとを、渡り歩いていたという説もある。嬉野上小川町花園の御渡寺に在所したのもこの頃であろうか。

などが、推察される。

 

地図上で距離感を確認する。