三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

岩出城

2020-08-31 13:27:52 | 古城巡り

岩出城の移り変わり

古地図

昭和23年、米軍空中写真

現代

西

主郭辺り(周辺より一段高い)

 

城名
 岩出城
読み
 いわでじょう
住所
玉城町岩出
築城年、築城者
 延徳元年(1469)岩崎長官左近大夫安法
 又は、天正3年(1575)田丸中務少輔直息(直昌)
形式
 平城
遺構
 消滅、石碑
規模
 150×130m
標高 16m 比高 6m
歴史
 この地、岩出は往古(平安中期)の、神宮祭主大中臣氏岩出祭主家の500年にわたる館跡とも伝えられる。
 一説には延徳元年(1469)岩崎長官左近大夫安法が築城ともいわれる。
 又は、天正三年(1575)、織田信雄が田丸に三層の天守閣を築き入城の際、城主田丸中務少輔直息はこの岩出台地に城を築いて移ったのが岩出城の最初とされる説もある。
 その後、牧村兵部大輔利貞、稲葉蔵人道通が城主となった。
 慶長5年(1600)、家康は関が原の論功で2万石を加増して道通を田丸城主に取り立てたために、岩出城は廃城になった。
経緯
 記念碑は、太平洋戦争直後、食料増産のために、村人により人力で城地を開墾、農地に造成した時に建てられたものである。平成8年3月 玉城町
書籍
 三重の中世城館 宮川流域の遺跡を歩く(田村陽一著)
環境
 この城は台地に築かれて東北は断崖、東一体は断崖を隔てて宮川、西には坊主山、茶臼山などの山並みが南から北へ走って自然の要害となっており、南北朝時代から室町時代にかけての伊勢国司北畠氏一族が支配する田丸城の支城(砦)であったと伝えられる。
現地
 平成26年6月28日(土)再訪する。外郭は今も古図面のように存在する。特に北西から北にかけての線は当時のままだと思われる。恐らく高低差も見たままだと考えられる。
 古図面の本丸あたりに該当する現在地は他より少し高さが高く方形を維持している。
 現在石碑が建っている辺りは三の丸に当ると思われる。やはりこの辺りが搦め手になっていたのではと思われ、宮川へ通じていたのではないだろうか。
感想
 ある意味、特異な種類の城郭である。近世平城の原型と言ってよいのかも知れない。
地図


白山ヶ鼻城

2020-08-30 16:08:16 | 古城巡り

 

城名
 白山ヶ鼻城
読み
 はくさんがはなじょう(桑名市遺跡包蔵地検索より)
住所
 桑名市東方
形式
 平山城
遺構
 壊滅
城主
 近藤右京進
 標高 18m(改変前は25m程と考えられる) 
 比高(東側) 10m(改変前は17m程と考えられる)
歴史
 北廻城の出城。信長により落城。
経緯
 日本城郭大系に「室町期、近藤右京進の居城。小学校で遺構不明」とある。
書籍
 三重の中世城館 日本城郭大系(その他の城郭一覧)
現地
 桑名市立大成小学校
地図


桑名城

2020-08-30 13:03:49 | 名城リスト

 

城名
 桑名城
住所
 桑名市吉之丸9
築城年
 永正10年(1513)
築城者
 伊藤部左衛門
形式
 当初は不明 - 水城
遺構
 石垣、堀
規模
 400×550m
城主
本多 忠勝
系統
 伊藤氏は北勢四十八家
標高 1m
歴史
 永正10年(1513)に、関東より伊藤氏の伊藤部左衛門実房がこの地に城館・東城を築いた。
 天正2年(1574)織田信長が征し、滝川一益が配下に置いた。
 天正19年(1591)に一柳右近が桑名を領し、築城をはじめた。
 文禄4年(1595)伊勢神戸城から天守閣を移築した。
 豊臣秀吉の時代には、神戸信孝以降目まぐるしく支配者が入れ替わった。
 慶長6年(1601)、本田忠勝を桑名10万石に封じた。
 4重6階の天守をはじめ51基の櫓、46基の多門が立ち並んだ。
 元和2年(1616年)に忠勝の孫である忠刻は徳川家康の孫娘である千姫と結婚し、千姫は桑名城内に住んだ。
 元和3年に本多家は姫路城に移封となり、松平(久松)定勝が11万石の桑名城主となり、吉之丸・外朝日丸などを拡張した。
 寛永12年(1635年)に松平(久松)定綱が11万3千石の城主となり、宝永7年(1710年)には松平(奥平)忠雅が10万石の城主となった。
 文政6年(1823年)に松平(久松)定永が11万3千石の城主となって、幕末を迎えた。
資料
 桑名市桑名城の沿革より
現地
 九華公園となっている。蟠龍櫓が外観復元されている。三之丸の城壁が一部残っており、市内にある了順寺の山門は桑名城の城門を移築したものである。
地図


尾野山城

2020-08-30 12:45:13 | 古城巡り

城名
 尾野山城
読み
 おのやまじょう
別名
 小野砦
住所
 桑名市東方字岸西
形式
 平山城
規模
 100m×130m
城主
 尾野山正斎坊(小野神社の別当)
標高 25m 比高 19m
歴史
 永禄天正のころ、織田信長勢によって滅ぼされた。
 一説には、永禄年中に建部(又は渡部)掃部介が居城したともいわれる。(勢陽五鈴遺響)
経緯
 城域の北側が道路改良に伴う対象となるため、三重県埋蔵文化財センターにより、平成4年に地形測量、同6年に試掘調査が行われている。
書籍
 尾野山城跡発掘調査報告 三重の中世城館
現地
 現在は、小野神社の裏山になり、土塁が部分的に残存し、壇もみられる。
地図


大井田城

2020-08-29 15:53:30 | 古城巡り

 

城名
 大井田城
読み
 おおいだじょう
住所
 いなべ市大安町大井田
築城年
 永禄年中か
形式
 平山城(居館の集合体の行きついた結果の城)
遺構
 土塁、空堀、井戸、虎口
規模
 主郭 70×50m
 全体 350×240m
城主
 栗田(粟田)左衛門佐(員弁雑志)
 又は、印道信入道(桑名志)
標高 76m 比高 17m
書籍
 三重の中世城館 三重の山城ベスト50を歩く
環境
 北の宇賀川を防御にしている。
現地
 梅林公園となっている。
 居館に重きをおいた造りに伺える。
地図

 

 


山ノ城城

2020-08-29 15:49:59 | 古城巡り

城名
 山ノ城城
読み
 やまのしろじょう
住所
 桑名市下深谷部字山ノ城
形式
 平山城
城主
 深谷部監物
標高 38m 比高 23m
歴史
 永禄年中、織田信長の攻撃により滅ぼされた(伊勢名勝志)
 のち、飛鳥寺がおかれ現存している。
書籍
 三重の中世城館
現地
 立地は丘陵で、地目は畑となっている。土塁が部分的に残存し、壇もみられる。
地図

 


御園城

2020-08-28 15:10:31 | 古城巡り

 

城名
 御園城
読み
 みそのじょう
住所
 いなべ市員弁町御園字道南 
廃城年
 永禄12年(1569)
形式
 平山城
遺構
 不明。団地建設のため破壊とある。
規模
 不明。
城主
 渡辺八右衛門督
標高 66m 比高 10m
歴史
 永禄12年(1569)に滅ぶといわれるが(員弁郡郷土資料)、くわしいことは不詳である。
書籍
 三重の中世城館
環境
 員弁川によって形成された河岸段丘の突出した縁に城はあったようだ。
現地
 地目:宅地 立地:台地
 御園住宅団地建設のため破壊されている。(三重の中世城館)
地図


金井城

2020-08-27 14:54:09 | 古城巡り

城名
 金井城
読み
 かないじょう
住所
 いなべ市員弁町北金井字亀谷
築城年
 永正2年(1505)
築城者
 種村大蔵太夫高盛
形式
 平城
遺構
 土塁、空堀、土橋
規模
 60×120m
城主
 種村大蔵太夫高盛
一族
 近江源氏の流れをくむ佐々木家の一統六角高成の孫。
標高 58m 比高 13m
歴史
 永正2年(1505)に、種村大蔵太夫高盛が築いたとされる。
 大永2年(1522)、美濃の土岐大膳大夫が金井城に侵攻してきたが北勢諸家連合軍で撃退した。
 永禄11年(1568)、信長2度目の伊勢侵攻のとき抗戦したが、すぐ降服し配下となった。
 元亀3年(1572)、高盛死去。4男秀政、その長男秀信が継いだ。
 天正4年(1576)、秀信は滝川一益に不信を持たれ伊勢長島城へ出頭、切腹させられる。
 一族は城を放棄してちりぢりばらばらとなった。
書籍
 三重の中世城館
環境
 員弁川の河岸段丘を生かした築城。ここだけ河岸段丘が180度回り込んで、舌状の半島になっている場所に城はある。両脇を小川が流れている。
現地
 地目:山林 立地:台地 
 城跡は南北およそ120m東西約60mほどで、西側に幅約20m、深さ8m程の空堀をめぐらし、北と東側は深く落ちこんだ自然の渓谷に囲まれている。
 また南面は急坂の上に土塁を築き、下には田園が広がって約200mを隔てて員弁川が流れている。川は洪水のたびに流れを変えるので、当時は城の下を流れていたのかも知れない。
 当時としては攻めるに難く守るに易い、地の利を得た要害であったと思われる。
 昭和56年に、西方地区の川原で砂利採取作業をしていた際、土中から種村一族を弔ったものと推定される宝篋印塔の一部五基と、五輪塔二基が出土した。
 宝篋印塔は青川か山田川のものと思われる青石、五輪塔は花崗岩でできており、西方の円願寺に安置してある。
感想
 単郭でシンプルだが造りは骨太の感じがする。現状もかなりきれいに残って小さいながら見応えがある。
地図

 

 


下笠田城

2020-08-26 00:12:27 | 古城巡り

城名
 下笠田城
読み
 しもかさだじょう
住所
 下笠田字旭1550 
築城年
 天正年間
築城者
 多湖刑部左衛門か
形式
 平山城
城主
 多湖大蔵橘実元
系統・家臣
 北西四十八家 - 北畠氏 - 織田氏
標高  比高 
歴史
 建武年間(北朝暦で1334年~1336年) 南北朝のはじめころ、多湖刑部左衛門がこの付近を押領し、代代居住して付近に大きな勢力をもっていた。
 永正7年(1510)北畠氏が北勢地方に勢力を伸ばしたときは北畠氏に従う。
 永禄11年(1568)織田信長の北勢攻略(2回目)にあたっては織田に降服するなど、地方豪族の苦しみをなめている。
 天正17年(1589)11月、豊臣秀吉は小田原の北条氏に宣戦を布告し、諸大名に出陣を命令した。多湖大蔵介橘実元も小田原に出陣した。
 翌18年(1590)4月、秀吉軍は小田原城の出城を落として包囲網を完了したのであるが、この戦で多湖大蔵介は戦死した。41歳であった。
 多湖家は江戸時代に村庄屋となり、城跡を宅地として現在も続いている。
 墓は員弁町下笠田の北墓地にある。北墓地は現在笠田新田の多湖姓の家々の墓地になっている。
書籍
 三重の中世城館
現地
 地目:宅地 立地:台地
地図


松阪の城50選、刊行される。

2020-08-25 17:57:41 | 日本の城

12月7日の新聞記事で、”「松阪の城50選」が刊行”と発表されていた。

メールか葉書で注文する方法とのこと。

一先ず友人を頼って、チラシとポスターの紹介写真だけを手にした。

まだ、現物は手に入っていない。

市中では販売しないとのことである。

まさに地域限定、ローカル色の極めだ。

こういう人たちが地域を支えているのかも知れない。

 

50城を厳選されたようだが、実際は54城が掲載されているとのこと。

選別に悩まれた様子が伺える。

溢れた4城に興味がそそられる。

早速、注文を済ませた。

税込み1,000円とのこと。コスパは見てから判断しよう。

手に入ったら簡単に紹介と評価をしよう。

 

 12月12日、松阪の城50選 ゲット!