三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

上小川城

2018-01-26 21:20:39 | 松阪の城

 

 👆 上小川城想像図

 

改訂版(2018-01-26)(2019-07-07)

城名
 上小川城
住所
 松阪市嬉野上小川町城山他
築城年
 室町期
築城者 城主
 北畠家臣帳にある「大久保佐兵衛督、同源五左衛門」か。
 あるいは、小牧薩摩守の可能性も捨てきれない。
形式
 山城
遺構
 郭、堀切(巾14m深さ3m)、切岸(南と東)
規模
 主郭は17m×8m程の平坦地
標高 480m 比高 120m
書籍
  嬉野史 (平成26年6月 文化財センター)
 南と東に切岸を備える。北側には巾14m深さ3mの堀切がある。柚原に抜ける道を押える意味があったのではないだろうか。
 中川駅周辺区画整理事業に伴う発掘調査報告書Ⅱ
 上小川地区の中村川左岸の標高480mの比高120mの丘陵上で17m×8mの単郭の主郭が設けられ、北西方向に延びる細長い尾根部には幅14mの幅広い堀切が1か所設けられる小規模の山城である。
 城が築造された方向は中村川に面するのではなく花園、蘭の方向に向き飯高郡域から一志郡域を警戒する山城と想定される。
 出土遺物などは未確認のため時期は不明であるが室町時代の遺跡であると想定される。
 中川駅周辺区画整理事業に伴う発掘調査報告書Ⅱ 嬉野史
現地
 上小川から西に向かう多気に抜ける道がある。その道の東方向直線上の山頂に城がある。登城道は上小川から花園に抜ける峠道からだと思われる。傾斜はかなり急で足場も悪いが峠からの距離はさほどでもない。
 小牧谷の中ほどに萬福寺(注1)があり、小牧薩摩守館と上小川城の道のりの中間に位置する。
考察
 嬉野史には「柚原に抜ける道を抑える」とあるが、一方他の資料では白口峠の番頭という記述もあるので含めて考えたい。又松阪市嬉野中川町にも館を持っていることから中村川の上流から中流域を守っていた武将と思われる。守備範囲は全長で歩いて約20Km、移動に半日かかるほどである。
感想
 峠道から斜面を登る。最初の急な傾斜を登り切ると削平地が現れるが頂上ではない。おそらく「出郭」と思われる。一呼吸おいて又上を目指すとプリン型の郭が見えてくる。切岸の高さは十分ある。舌状の小さい郭が下にありそこから虎口へと入る。主郭は小さながらも余裕のある広さを有する。北へ回るとこの城の規模としてはスケール感たっぷりの大堀切が北からの尾根を遮断している。柚原城とスケール、形状などよく似ている。
注1
 萬福寺は浄土宗鎮西派、本尊は阿弥陀如来の坐像である。慶安元年(1648)湖誉和尚が私財を投じて創建したと伝え、上小川小牧谷より白口峠道と中村への本道との分岐点、小牧薩摩守の旧館跡に続く高台を背にした高石垣の上に建つ。境内には薬師如来を祀る薬師堂があり、ほかに観音菩薩、勢至菩薩をはじめ日光菩薩、月光菩薩、地蔵菩薩や十二神将などの仏像が安置されている。
地図

各遺構詳細

 

見張台(周辺に崩れた石が散乱している)

 

堀切(堀切があることからこちらが城の背後と思われる) 

 

竪堀(傾斜が急すぎて観察に降りるには装備がいる)

 

大堀切(上小川城の注目遺構、主郭背後の大堀切) 

 

主郭(石造物は江戸時代のものと思われる)

 

馬出(主郭西側のエプロン状の削平地)

 

馬出の土塁(その入口に土塁と思われる高まりがある。現状で30センチ

ぐらいで崩れてはいるが、馬出の形状を成している。)

 

腰郭Ⅰ (写真ではわかりにくいが周辺よりここだけ削平された様子が伺える)

 

腰郭Ⅱ(ここは尾根を切り込んだ跡がはっきりわかる削平地)

 

出郭Ⅰ(かなり完成度の高い削平地。広さも有り実用的だったと思われる)

 

出郭ⅡからⅢ(ここだけでも一つの城として成り立つぐらい。二つの曲輪と

間の堀切と土橋、周辺の切岸が城と峠の守りを固めている証と思われる)

 

土橋 (そう思わないと思えないが土橋と考えたい)

 

出郭Ⅲ(主郭と同等の広さを持ち、峠に一番近いことからこの郭の重要性が

浮き上がってくる。峠番の上級役人がいたのかも知れない)

 

小牧薩摩守館跡(植林で全体像の分からないのが残念な館跡。周辺は石垣が

多用され長期に渡って住まいしていたと想像する。)

 

 


蓮華寺城

2018-01-25 10:21:31 | 古城巡り

スライドデジブック

城名
 蓮華寺城
住所
 度会町棚橋

築城年(延元年間?)

築城者 城主 棚橋大納言僧隆経(北畠家臣)

形式
 山城
遺構
 郭、堀切
規模
 上の城 東西10m×南北80m
 下の城 東西30m×南北25m
標高 160m 比高 90m
書籍 追記分;北畠氏の研究(大西源一)
環境
 宮川に突き出た丘陵の頂にあり眼下の宮川や街道を監視するには絶好の場所である。
 西数百メートルの所の宮川縁には牧戸城があったとされる。又眼下の棚橋の西入口辺りには棚橋城があり、東西で蓮華寺城の守りを固めていた様子も伺える。
現地
 山全体がシダに覆われており遺構を確認しにくい。猪に出くわす可能性あり。
考察

 蓮華寺が力を持ち外敵から身を守るために城を必要とした時代があった。戦国時代以前の城かも知れない。

感想
 遺構は狭い曲輪と堀切で構成されている。古いタイプの様子である。
 二つも持たなければならなかったことが興味を引く。寺の僧の上下階層から必然的にできたものかも知れない。

地図

追記

北畠氏の研究(大西源一著)によると、

 延元二年(1337)足利尊氏が伊勢に兵を進め、4月1日は東黒部の浜で北畠軍・加藤定有と戦い、同2日は大口浜に進出している。これに対峙して北畠軍は愛洲氏棚橋大納言僧都ら数千の兵を率いて大口浜や、法田、立利縄手に進軍した。

 棚橋大納言僧都とは僧隆経で北畠親房と通謀し醍醐三宝院末寺である蓮華寺(大神宮寺法楽寺)を占領し、そこに城を構えていたのである。

と書かれている。

以上から築城時期と城主が浮かび上がってくる。

 

 

 


立岡城

2018-01-22 22:36:01 | 古城巡り

 

城名
 立岡城
住所
 度会郡度会町立岡
築城年
 室町時代
築城者 城主
 不明
形式
 平山城
遺構
 郭、堀切、竪堀、井戸
規模
 35m×75m
標高 67m 比高 20m
書籍
 三重の中世城館 日本城郭体系
環境
 宮川の河岸段丘に開けた立岡集落の西方で標高67mの狭い丘陵頂部を削平して主郭を成している。
現地
 立岡集落の墓地の西の山が城跡である。西に大河内谷池を従え東に谷を配す小規模だが理にかなっている適地である。南から東に水田や茶畑を一望する。
 主郭の北に一段高く基底幅の広い土塁を備えることや、その背後に城内で唯一最大の堀切を備えることから北の尾根からの防御を意識した主郭の造りである。
 3条の竪堀は小規模な城には不釣り合いなくらい完成度が高く規模も大きい。この竪堀は1Kmほど西にある長原城でも見られることから二つの城には何らかのつながりがあるものと思われる。
 主郭に取り付く坂状の土橋は岩を削り込んだもので主郭に向かって左側をⅡ郭に右側を井戸郭にしている様子は見事な設計である。
考察
 小規模な城だが防御の施設はそれぞれが完成度が高く先進的な思想によって造られている。宮川流域の中でも最も多くの防御施設を持った山城であり、模型やイラストのサンプルとしてもふさわしい、教科書的な山城である。
感想
 地元の人たちの整備によって見学がし易くなり山城の魅力が大勢の人たちに伝わるよいきっかけの城になっていくような気配がする。

地図

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矢下城(付記 もう一つの矢下城)

2018-01-09 21:54:14 | 松阪の城

 

 

 初回登録2017.08.07

城名
 矢下城
読み
 やおろしじょう
住所
 松阪市嬉野矢下町
築城年、築城者、城主 不明
形式
 山城
遺構
 郭、堀切、帯曲輪、2条竪堀
規模
 中心は30m×10mの主郭
一族
 矢下御所と謂れ、北畠一族と思われる。
家臣
 小川城・上小川城の城主小牧薩摩守が家老を務める。
標高 134m 比高 70m
歴史
 矢下御所という名称も資料に出てくる。
書籍
 松阪市遺跡地図 嬉野史 
 中川駅周辺区画整理事業に伴う発掘調査報告書Ⅱによると 「中村川の中流域の川が山麓から平野部に広がったところに位置する山城で、下流部の森本城跡との関係を有する城跡であろう。」とある。
環境
 北方向から中村川を遡って来る敵に対して有効な場所。
現地
 切岸の急斜面その下に帯曲輪、西側斜面に向けて2本の竪堀。南北の尾根続きに堀切。平成26年6月10日(火曜日)文化財センター、嬉野史より
 平成28年3月23日 訪城。
 この日は城直下より直登をしたが、北尾根の堀切と石組みの門跡のような形跡が虎口に関係する施設と思われるため、本来の登城道は尾根北側の東善寺方面からあったと考える。
感想
 この城がある山は小さいながら急傾斜で足場も緩く悪いため攻めにくい。舌状の先端にあり当時は木立が無いことを思うと360度見晴らしが効く。
 嬉野史や同遺跡地図によると、この城の対岸にある安楽寺の裏山にも出城又は砦があったと示唆している。多気への街道を南北両面から守っていたとも考えられる。対岸の様子を調べてみたい。
 その間の谷に矢下御所の由来となる館なるものがあった可能性もあると思う。館跡などの探索も興味がある。

もう一つの矢下城

平成28年8月31日 遠景撮影 この地は常に逆光の位置にあり遠景の撮影が難しい。
 
平成29年10月26日 上尾根探索
平成29年10月27日 下台地探索
 以前より興味のあった、矢下城の対岸に嬉野市や同遺跡地図にて示唆されている、もう一つの矢下城について現地を見ることにした。
 26日、他の城を探索した帰り道、時間の余裕をみて訪城した。
 地理院地図に記されている登山道を中心に尾根と周辺を探索した。
 早速、削平地が現れてくる。石垣もある。それらが複数混在する。尾根を横切るように道もある。道の脇には小石の集積場もある。これらの集まる場所から上に登ると下から続く登山道だけが残り削平地などは出現しない。
 登山道は深く掘れた所や幅広の所があり、単なる登山道ではないと想像される。恐らく作業用の荷車ぐらいの行き来はあったのではないだろうか。炭焼きとか燃料用の材木の切り出しとかが雑木林から想像される。
 歩き出してから400m、この尾根で一番広いと思われる小ピークに着く。これ以上の標高の所に城跡があるとは想像されがたいのでここが終着点となる。
 小ピークは削平地とは言えない自然地形で岩石も不揃いにあり城跡とは言えない。早々に引き返す。
 今日踏査した部分は近世の畑地の開墾跡と思われる。尾根筋の道は作業用の道であると思われる。この日は日没も近く不案内な土地ゆえ撤退することにした。
 翌27日。
 昨日時間切れとなったもう一つの矢下城探索を行う。今日は山に向かって左側の台地を探索する。嬉野遺跡地図にて正にその「矢下城跡」の活字が記されている場所である。
 昨日と同じ尾根に向かう道の入口を通過、昨日見た削平地や石垣がある一帯を右に見て左に折れて進む。
 すると明るい広い台地に着き、すぐに人の手が入った感触を受ける。
 台地の上側には堀らしき窪みが尾根を横切るように続いているのを見る。その右端の方には大きな丸い窪みを見る。この窪みで瞬間に思い浮かぶのが炭焼きの窯跡であった。堀跡は炭焼き窯や作業場を雨水から守るもののように見受けられる。
 その場所の前方、尾根の下側は広く一部は削平がなされてはいるが全体的には尾根の自然地形で兵が駐屯できるほどの平地ではないと判断する。
 
 昨日の尾根と本日の台地の踏査から中村川左岸・矢下集落北側のもう一つの矢下城は無いと判断した。
 しかし嬉野史が存在を示唆していることから別の場所に何らかの形で存在することは考えられる。
 矢下御所とまで言われた館跡の存在の可能性は高く、神社や寺、およびそれら遺跡と名家と言われる屋敷跡など探索すると今回の北側の位置関係と相まって浮かび上がってくるものがあるのではないだろうかと想像を掻き立ててくれる。
 又新たな情報収集について気に留めておくことにする。
 

上原城

2018-01-08 08:28:52 | 日本の城

 

住所;茅野市ちの上原

築城時期;文明元年(1466)頃

標高;978m

形式;根小屋式山城

主な遺構;曲輪、土塁、堀切、竪堀、虎口

主な城主;諏訪頼重---板垣信方

諏訪の歴史を紐解くうえで、上原城は不可欠な城である。諏訪地域、ひいては長野県内において城郭部分と居館跡がセットで構成されていることがわかる城は少ない。それらが良好に残る城として、上原城は貴重な城である。

参考文献;長野の山城ベスト50  戦国の城ドキュメント

地図