三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

多気御所を取巻く七つ峠踏査の計画

2020-09-27 22:34:12 | 古里の歴史

津市美杉町多気に北畠氏の本拠地、多気御所の跡地がある。

館跡と共に霧山城砦の遺構が中世の当時を忍ばせる。

ここを中心に北畠氏は240年程の権勢を振るっていた。

この本拠地は美杉の山中にあり、周囲を険阻な山々が取巻いている。

行き来できる峠道は限られた数しかない。それが七つ峠と言われているところだ。

ここは津市が「史跡多気北畠氏城館跡保存管理計画」として、

その保護を目的に、発掘調査、整備事業などを行っている。

 

同計画の資料の一部に下表がある。

七つ峠がその対象にリストアップされている。

 

この七つ峠については以前より諸氏によって取り上げられている。

代表例が下図である。

原図は樋田清砂氏作成とある。

この中の峠の部分だけをズームアップしてみる。

峠が御所を取巻いて、北畠氏の本拠地を守る上で重要な要素であったということが、

作者の意志として感じることが出来る。(樋田氏は8カ所としている)

この内の一つ、白口峠については訪れたことがある。

峠のピーク付近に削平地が3~4段並んでいた。

これらの七つ峠について横並びで調べてみることが、意味があるのではないかと考えるようになってきた。

どの峠に力を注いでいたのかとかが見えてくるのではないだろうか。

 

早速、場所を地図に落とし込んでみた。

実際は、訪れるのが困難な所もありそうで、全ヶ所の踏査は出来ないかもしれない。

或いは、現在でもこれらの峠は地勢上、重要な地点であって大幅に改変が行われている可能性が高い。

目標は半数ぐらいだろうか。訪れてみたい。

 

地図の右上隅には七つ峠以外の”八頭峠(仁王峠)”がある。

ここにも番所跡らしき削平地が複数確認できる。

 

地図の6番右の上小川町に七つ峠以外の”中峠”があり、その様子が下の写真である。

写真は峠の道を中心に写したもので削平地を狙ってはいないが、写真左側の一段高い

段の上は、削平地が幾つかの境界線で仕切られ存在している。

多気を中心とする山中には、七つ峠以外の峠にも番所が設けられていたのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 


五箇篠山城(ごかささやまじょう)

2020-09-22 10:26:42 | 古城巡り
城名
 五箇篠山城
読み
 ごかささやまじょう
旧名
 五ケ城
住所
 多気町朝柄/古江 城山
築城年
 不明
形式
 山城
遺構
 曲輪、堀切、土塁
規模
 270×115m
城主
 野呂氏(伝承) - 五箇景雅(伝承) - 野呂筑前守 - 野呂氏代々(伝承) - 安保大蔵大夫
一族
 北畠氏家臣
標高 140m 比高 75m
歴史
 史料に裏付けされた信頼性の高い情報を諸氏が文献としているものを時系列に記述する。
 「文献上の初見は、南北朝時代にさかのぼる。仁木義長が伊勢守護に任じられると1342年に田丸城や阪内城を相次いで陥落させ伊勢国での南朝方を一気に劣勢に追い込み、翌1343(康永2=興国4)年には、五ヶ城にも軍を進め攻撃している。その後の史料がなく合戦の結果は不明だが、五ヶ城もおそらく落城したものと考えられる。」(県史編さんグループ 小林秀氏)(落城1⃣)
 「1465年12月6日付けで、北畠氏による山田への攻撃の中止を求める訴状が宇治六郷神役人書状として、奉行所へ提出されている宛先に野呂筑前守(注1)の名がある。」(勢和村史)
 「1582年(天正10)、本能寺の変で織田信長が死ぬと、具親は安芸から再び伊勢にもどってくる。そして安保大蔵少輔・岸江大炊助・稲生雅楽助以下3000人で挙兵して五ヶ城に立て籠もる。
 西端の曲輪には土塁が巡らされ、虎口(こぐち)には、小さいながらも桝形も設けられ、また、一部には石塁も使われていたがこれらの防備は、北畠具親の籠城に際して設けられたことは明らかである。
 しかし翌年の1月1日に織田信雄は津川玄蕃頭・田丸中務少輔・日置大膳亮・本田左京亮等をつかわせて攻撃してきた。具親軍・安保直親は本田軍の中西帯刀などを討ち取る激戦を繰り広げたが、具親軍の敗色が濃厚となり、2日の深夜に松明を投げつけたり鉄砲をさんざん撃つという最後の抵抗を試み、翌日の早朝に城内に松明・鉄砲の火縄をつけたまま具親は密かに伊賀へ逃亡した。午前中に信雄軍が空になった城を落した。」(県史編さんグループ 小林秀氏)(落城 3⃣)
 
 その他伝承の域を出ない、ことがらや野呂氏の名前が散見されるものを時系列で記述する。
 「野呂氏は上野国から当地に移住してきて、ここに城を構えたのかも知れない。」(同時代の城に采女城や長野城がある。)(13世紀中頃(1260年±50年))
 「室町期 北畠氏被官、朝柄の土豪・五箇景雅が当地域を本拠地としたと考えられる。五箇氏は文明年間(1469~87)に北畠氏に背いたことで滅ぼされた。」(14世紀後半から1469~87年)(落城 2⃣)
 「五箇氏の後、野呂氏が入部したものとみられる。」
 「野呂三郎は多気郡の豪族。斎宮城、智積寺城を豊田五郎右衛門尉と共に奪うが本田美作守勢に敗北、討死した。」(1555年)
 「野呂左近将監;織田家との和議に応じるよう北畠具教に説得したが誅殺される。」(1562年)
 「野呂越前守実高、伊予守父子は北畠海賊衆。北畠家から離反した志摩海賊衆の討伐勢を指揮する大将。討死。」(1568年)
 「永禄12年(1569)信長の伊勢侵攻。五箇篠山城主野呂越前守源実は二見付近に出撃し、一族皆討死。」(1569年)
 
 伝承は篠山から粥見にも飛び火している。
 「篠山城から落ちのびて柳瀬に住まいした野呂兵庫守が持仏を埋めて大和に去り、云々。(飯南町文化財調査委員会)」
 「柳瀬には北畠の臣、梁瀬兵庫守が城を構えて城主となったという。(飯南町史)」(野呂兵庫守のことか)
 現在は粥見柳瀬(やなぜ)の茶畑の中央付近に門前・門坂という地名があり、一段高くなったところに削平地が残る。
 
環境
 城跡は標高140メートル、比高差にして約70メートル程の完全な独立丘陵の頂上にあり周囲の自然地形を巧みに利用して築かれている。麓には朝柄川、櫛田川、沼地があり要塞の要件を整えている。
 今に残る遺構は南北朝時代のものでなく戦国時代末期(1580年代か)に改修され北畠氏によって維持されたと考えられる。遺構の保存状態も良好で、県内屈指の山城跡である。なお、「五箇篠山城」の名称は後世の命名であり、当時は「五ヶ城」と呼ばれていた。
 縄張の中心は山上の尾根を東西に深い堀切で分断して築かれた台状の連郭群と、その周囲に配した帯郭からできている。曲輪は基本的には土塁はないが西端の曲輪のみ「コ」の字に取りまく低い土塁がある。虎口もこの曲輪に設けられており、恐らくここが主郭であったと考えられる。虎口の付近から川原石が出土しており一部で石塁が築かれていたようだ。
 防備施設の遺構分布は丘陵の北斜面は地形が単純で急峻なため少なく、南斜面は谷が多く独立した尾根を造っているので要塞の条件を備えており、遺構が高所に集中している。
現地
 神山城などとも同じだが意外と狭い山城である。
 また、近くには信雄軍が五ヶ城を攻める際に築いたという「ひよどり城跡」がある。
考察
 五箇氏や野呂氏を系統だって述べたものが未だ無いようである。一つ見えてきたと思われることは”野呂氏が長い間(3世紀位)ここ朝柄を本拠として納めていただろう”ということ。
 そして、北畠氏の臣下として幾つかの戦いに参加し、悲惨な局面に終始し、戦勝者の記録も残せなかったこと。
感想
 戦国時代に勇猛な武者の家を何代も継いできた土豪の悲哀な歴史がここにあった。
注1
 野呂氏では”越前守”が頻出するが別人と考える。
地図


 小さいが虎口は枡形である。またこの付近から川原石が出土しているので一部石塁が築かれていた。
 ②の郭(小さい)

 ③-④の間

 ④-⑤の間 

 南斜面、入らないほうが無難

 北にひよどり城のある山が見える

 北東に西ノ城のある山が見える

👆 柳瀬観音の説明看板”野呂兵庫守”の名前が見られる。

👆 飯南町史に記載される場所を推定すると”茶畑の中に削平地らしき場所がある”

初回投稿 2009年2月27日 

改定1 2020年9月22日 (文章の改定;野呂氏の情報整理 写真2枚追加)

 


ヤマビル対策

2020-09-17 09:47:24 | ローカル

ヤマビルが噂されている山に行くことになった。

チャボホトトギスを見に行くためだ。

 

対策の一つに考えたのがこれだ。

百円ショップで手に入れた”ヘアーバンド”を飽和食塩水に一晩漬けておいて、スパッツの下端に装着。

水分がしたたり落ちない程度に手で絞ったものを、スパッツ装着後、つま先からワンタッチで簡単装着。

多少は塩分が靴に付着する可能性があるのでその辺は気を付けること。

3人が同じように装着し、ヤマビルが目視されたところでチャボホトトギスを撮影したが全員無事であった。

まだ、一回の経験で結論は出せないが、これいい案かも知れないと今のところ自負している。

今後、経験値を積み重ねて様子を見ていきたい。

(塩、ボトルに入れた塩水も携帯)

2020.09.15 朝熊岳道にて

 


朝熊ヶ岳山行

2020-09-16 21:57:29 | ハイキング

 

三重県の絶滅危惧種Ⅱ類を見たくて朝熊ヶ岳に登る。

2002.09.15 晴

下調べから”ヤマビル”が多いという情報を得ていた。

いろいろな参考意見を尊重した上で、今回プラスαで新しいことを試みた。

 

下からくるヤマビル対策

スパッツは無条件で装着する。

その一番下端にヘアバンド(百円ショップ)を巻く。

このヘアバンドは昨晩から今朝にかけて、一晩、飽和食塩水に漬けていた、たっぷり塩分を含んだものだ。

スパッツの上なので体や靴に塩害は起こしにくい。

ゴムの伸縮が足首に程よい。

安い。洗える。取り付け取外しが超簡単。

 

チャボホトトギスが咲く湿気の多い切通しで立ち止まって撮影をした。同伴者が直ぐにヤマビルが動くのを見つけた。噂通りここはヤマビルの頻発出現地点。

山行の往復で同じように立ち止まったが、同伴者含む3人ともヤマビル被害は避けられた。

 

この方法、お勧め、と思う。

ヤマビルの噂がある所に行かれる方は一度やっても悪くないと思います。

小さなスプレーに塩水を入れたものと、塩を少量持った。

それぞれいろんな場面に対処できるように備えた結果です。

 

 

 


長谷城

2020-09-13 20:25:31 | 古城巡り

城名
 長谷城
読み
 長谷城
住所
多気町長谷
形式
 山城(独立山頂)
遺構
 曲輪、堀切、土塁、井戸
規模
 160×100m
標高 218m 比高 113m
城主
 度会家行か
築城時期
 南北朝時代
環境
 近津長谷城より南西へ(400m)派生する複雑な尾根の一つにある。
現地
 河川や街道からは少し離れた位置にある。現在は近長谷寺のための舗装路が整備され、近くに駐車場もあるので比高は気にしなくてよい。又城への入口も舗装路から簡単には入れる。
感想
 ロケーション、地勢からみると近津長谷城の支城と考えられる。近津長谷城は周辺に西之城、東之城、茶臼山砦、そしてこの長谷城と一大城砦群を形造っている。
 南朝の拠点としてその意気込みが伝わってくるようだ。
地図


多気町の城

2020-09-12 14:56:16 | 日本の城

笠木館

多気町笠木

平地居館

笠木御所
矢田城

多気町矢田

独立山頂

笠木御所の詰城?
野中浅間山砦

多気町野中

独立山頂

伊勢神宮が絡む
西山城

多気町西山

独立山頂

北畠家家臣
片倉氏館

多気町四神田

平地居館

伊達家家臣
黒田山城

多気町兄国/荒蒔

尾根先端

兄国氏の城か
高井戸城

多気町平谷

尾根先端

別名;佐奈城 
五桂城

多気町五桂、平谷の境界山上

独立山頂

砦が付属するか
近津長谷城

多気町長谷

尾根山頂

貞和3年に楠木正行と挙兵
長谷城

多気町長谷

尾根山頂

近津長谷城の支城
佐伯中浅間山城

多気町佐伯中

尾根先端

佐伯中浅間山で大日如来が祀られている
東之城    
西之城

多気町津留、鍬形の境界

尾根山頂

東西に連なる尾根上にある
牧城

多気町牧

尾根先端

北畠家家臣、具教と同時期に死去
丹生城

多気町丹生

尾根先端

新発見!!
ひよどり城

多気町上出江

尾根山頂

波多瀬氏の出城か
五箇篠山城

多気町朝柄

独立山頂

北畠家家臣
波多瀬城

多気町波多瀬

独立山頂

大永年間築城、波多瀬氏を称す

その他の遺構

大権現 行者

多気町上出江

独立山頂

山頂を城郭とする根拠は見出せない。

      

多気町の城所在地

 


高井戸城

2020-09-12 11:35:32 | 古城巡り

城名
 高井戸城
読み
たかいどじょう
別名
 佐奈城
住所
 多気町平谷
築城年 築城者 城主
 不明
形式
 山城(尾根先端)
遺構
 曲輪、土塁
規模
 50×25m
標高 76m 比高 32m
環境
 JR佐奈駅の北、街道、街並みの背後にある低い丘陵の先端に城はある。
現地
 曲輪は神社となり社が祀られている。卵型の狭い主郭に土塁はない。北側から南に向かって緩傾斜となる。
 主郭の東側に副郭となる広めの台地があり、中央に段差があって三番目の曲輪となるのかも知れない。畑地として改変されている。
感想
  佐奈の小さい盆地を北の丘陵から見下ろし、直下の街道と町を抑えるための城と言う雰囲気である。
地図


西之城

2020-09-11 20:56:11 | 古城巡り

城名
 西ノ城
住所
 多気町津留/鍬形
築城年・築城者・城主 不明
形式
 山城(尾根山頂)
遺構
 郭、堀切(西に2か所、東に4か所)
規模
 主郭、東西30×20m
標高 210m 比高 150m
経緯
 近津長谷城は貞和三年(正平二年・1347)楠木正行の挙兵に呼応し外宮禰宜の度会家行らが兵糧米・具足をととのえ構えたと「外宮禰宜目安案」に記されている。田丸城・一之瀬城とともに北軍をおおいに悩ました伊勢における南朝方の拠点の一つであった。
 その近津長谷城の「西の城」という説がある。尾根伝いに2100mほどの距離でそれほど困難なルートではない。
書籍
 三重の中世城館
環境
 丹生と櫛田川の両面をを見下ろす急峻な山城である。
現地
 どこから攻めるにもまずは急峻な傾斜を攻略しないと近寄れない。尾根に取り付いても主郭までの距離がいずれのルートも十分ありこれも防御上有利である。
考察
 近津長谷城の縄張りと比較すると単純である。見張台や虎口や井戸など付属施設の種類も少ない。
感想
 城郭の形態は単郭プリン型で堀切は充実しているが土塁は見られない。帯曲輪の完成度も低くどちらかというと古いタイプの特徴がある。近津長谷城が本城とするとこの城の特徴から西を守る砦と考えられる。
地図


矢田城

2020-09-10 21:45:47 | 古城巡り

城名
 矢田城
読み
 やたじょう
住所
 多気町矢田
築城者
 2説あり(以下参照)
形式
 山城(独立山頂)
遺構
 曲輪、土塁、堀切、虎口、櫓台
規模
 150×90m(主郭50×40m)
標高 129m 比高 77m
経緯
 以下は笠木館にある説明板の記述内容。おおむね各資料はこのような論調である。
 ①阪内氏の居館跡として断定されている。「神宮文庫」、寛正年間(約1460)頃より。平時には笠木御所に居住をして、有時(事)には1km離れた矢田城に立籠りの砦としていた。
 ②永禄12年(1569)10月4日、以降、具教・具房父子はこの笠木阪内の御所に退城したと「信長公記」に記されている。
 ③天正4年(1576)11月、北畠具教は三瀬の館にて謀殺され、当時の笠木城主阪内兵庫頭具義(国司の聟・むこ)も田丸城で鏖殺(おうさつ)された。
書籍
 『伊勢の中世/第75号(文責 成瀬匡章)』の築城に関する見解は異なるものがあるので要旨を記す。
 「矢田城の虎口は中勢地方ないしは、北畠氏配下の諸城にはない縄張である。
 割合発達した立岡城でも平入り虎口である。北畠氏の重要拠点であった阿坂城でもこのような虎口は見られない。
 一番類似したものとして、阿坂城の出城・高城が挙げられる。但し高城は織田氏の南伊勢侵攻時に織田方によって構築された可能性が指摘されている。(注1)
 虎口の形態を見る限り高城同様、築城に織田氏が関与した可能性が考えられる。
 そう仮定すると笠木館の詰城というよりは笠木館に対するもので、その時期は永禄12年から天正4年と限定することができ、南伊勢の政情をみるとき貴重な遺構である。」
感想
 この城の一番の見所は主郭虎口である。狭い山頂ながら虎口関係に占める面積比率は比較的大きい。
 気になるのは虎口の方位である。成瀬氏が指摘の笠木館に対するものだとすると、それよりほぼ正反対の方向に虎口及び虎口に付随する防御施設が備わっている点である。
注1
 山本浩之「阿坂城・大河内城と周辺城館について」『中世城館研究』第13号 中世城郭研究会 1999
地図


五桂城

2020-09-09 23:47:40 | 古城巡り

城名
 五桂城
読み
 五桂城
住所
 多気町平谷/五桂
築城年
 一概に言えないが堀切の竪堀化の傾向が見られないことから、在地の城跡として共通するよく似た、竪堀のある長原城より古いと考えられる。
 長原城の推定築城年は天文5年(1536)なのでそれ以前ということになる。
形式
 山城
遺構
 曲輪、堀切、土塁
規模
 主郭25×20m
城主
 不明
標高 220m 比高 163m
書籍
 ①三重の中世城館の記述を記す。
 「五桂の南西の標高220mの光度山から北東にのびる山地の尾根にある。佐奈谷を一望におさめる所で、東側は五桂池へ通ずる谷となり、西側は急斜面をなしている。尾根が小山状に盛り上がっているだけで、あまり遺構はみられない。北方の人家の付近には馬場と呼ばれる所がある。」
 「地目:山林、墓地 立地:山頂 住所:五桂字城山」
 ②日本城郭大系の記述を記す。
 「多気町五桂字城山 山頂に城山の地名。遺構・城主は不明。」
 以上2紙は場所を間違えている。今後のこともあるのでここで指摘しておきたい。(注1)
 ③伊勢の中世 第62号
 「五桂城跡は多気町の五桂の通称「城山」と呼ばれている光度山(標高229m)の山頂部に立地する中世城館である。
 ◎前記2紙の①と②は「城山」の位置を間違えていることになる。
現地
 山頂の主郭にあたる所には直径2m、高さ0.5mの古墳状の高まりがあり、石室があり小さい祠が祀られている。
 土塁は東の縁に高さ0.5mの小規模なものである。
 登城は東の谷から行った。中々厳しいのぼりである。しかし、山頂に来てから分かったことだが北東に道があった。その道は地元の小学生も遠足で来ているようだ。
注1
 2紙は五桂城の位置は間違えているが、その間違えた場所は本城に対する出城又は支城と考えても良いのかも知れない。
 尾根で通じている点、本城の北側にある点(注2)、削平地が何段かある点、見晴らしの良い点など出城、砦などとして好条件が揃っている。
注2
 この場所は北側から敵が来ることが想定できる。
地図

五桂城の支城かも知れない場所