我が家の足元、櫛田川の堤が整備された。写真は平成20年、工事完成間もなくの状況。
出来立ての堤を検査するラム君。(2008.5)
定例の多気町郷土資料館だよりが郵便で届いた。毎回ディープな内容が載ってくる。
そして今回は「水辺の景色・櫛田川 渡しの両側」というタイトルの記事が一面に載ってきた。興味津々である。何しろ自分の足元の事柄であるからだ。
貴重な記事と思い引用させていただく。
渡し舟は明治以降、橋がだんだんかけられるようになるまで、川に欠かせないものでした。
海住春彌氏の著作『櫛田川と多気町文芸史』に「中牧と広瀬、四疋田と阿波曾、兄国と中万の間には江戸期すでに舟楫の便があった。その後明治に入って北牧と御麻生薗、相場と庄、荒蒔と射和東端、上朝長と神山麓の間にも渡船が行われていた。」とあります。
、、、、、、大きな木の根元にこれも相当大きな立派な石碑が立っています。
高さ2m50㎝ばかりのどっしりした自然石です。、、、、、碑文を見ようと反対側へ回り込むと、、、、、、特大の「南無阿弥陀仏」、、、、、、、。
この六字名号碑については岡勝三郎さんという地元の方が昭和52年頃に書かれた『庄町郷土史』にありました。
この碑は江戸時代の広瀬の名僧天阿上人が建てた碑。中略
永禄12年(1569)、織田信長は北伊勢に続き南勢の北畠を討つべく久居から松坂方面へ侵攻します。この戦いでは大河内城の籠城が知られていますが南勢の北畠家臣たちとの抗争も各地であったことでしょう。この川辺では「北畠の武士六騎と多数の織田軍が戦い北畠方は全員戦死した所であるが其の後弔ふ人なきため天阿上人が大石碑を建て冥福を祈った」そうです。
舟楫(しゅうしゅう)
川側に回って表面を見ると、南無阿弥陀仏の大きな文字と判読困難な小さい文字が全面に刻まれている。
何故、崖っぷちの櫛田川の方を向いて建っている? 何か不自然な、、、。
思い当たる節は2点ある。① 北畠の武士六騎は織田軍により殺害され最後、櫛田川に投げ捨てられた、という言い伝えが天阿上人に伝わっていた。② この石碑が建立された当時はこの石碑と櫛田川の間に街道があり①を踏まえて通行人の弔いにも考慮した。
かすかな記憶だが数十年前にはこの石碑の前に古道らしきスペースがあったように思う。中学校の3年間は自転車で高校の3年間はバイクでこの石碑の傍の県道を走っていた。しかしそれから約50年程、月日は流れた。
県道は山側の松電の廃止跡にルート変更され、河岸は新規に堤が整備され石碑周辺の景色は趣もなくなり人の目からも遠ざかってしまった。
最近の様子を見ると、いつの間にか岸が削られ河岸が石碑の近くまで迫ってきているのではないだろうか。ややこの先が心配である。
PS 2008年にも同じようなことを書いているが内容が少し異なる。
2008年 神山城の戦い
2016年 大河内城の戦い
さて、どっちがいいんでしょうか?又宿題が出来た!
城名 | 北畠満雅陣地・大将陣山 |
住所 | 津市垂水 |
築城年 | 正長元年(1428) |
築城者 | 北畠満雅 |
形式 | 山頂平坦地 |
遺構 | 不明 |
規模 | 70m×70m程度 |
城主 | 北畠満雅 |
標高 | 42m |
比高 | 36m |
満雅の挙兵Ⅰ 阿坂城合戦 | |
応永22年(1415)満雅は幕府問責のため蜂起した。この頃の北畠家は中南勢は元より北勢、大和まで勢力を保ち一大牙城を形成していた。 | |
四代将軍足利義持の5万の軍との初戦は雲出川を挟んだ戦いであったが北畠軍は押され最後に阿坂城に立てこもった。 | |
幕府軍は水を絶つ作戦に出、城兵は喉の渇きに悩んだ。満雅の案で城の端に並べた馬に一志白米をどんどんかけさせた。遥か遠くから見る敵陣からはその様子を見て「この城落とすのにいつまでかかる?}と困らせた。白米城(阿坂城)の伝承である。 | |
応永23年(1416) やがて足利方に内紛が起こり満雅と和睦を結ばざるを得なくなった。 | |
満雅の挙兵Ⅱ 正長の乱、岩田川合戦 | |
歴史 | 正長元年(1428)、後小松上皇が北朝方彦仁親王を擁立することが確定的になると、満雅は小倉宮を奉じて同年8月再び挙兵した。幕府は慌てて土岐持頼を大将にして七千騎を伊勢に向かわせた。 |
決戦の火ぶたは雲出川で切られた。一万の兵を率いた満雅は伊勢平原に出、雲出川を渡り敵に肉薄した。鎧には折れ矢がささくれ立ち、馬も何度も乗り換えた。北畠勢の気迫で幕府軍は一歩一歩後退した。満雅はこのまま岩田川に追い落とせと最後の突撃に移った。 | |
その時伏せていた赤松、山名の軍勢が横腹をついてなだれ込んできた。勢いを盛り返して反撃に出た敵は執拗で北畠軍は大混乱に陥った。 | |
夜陰に乗じて一旦引き体制を立て直してということもできたのに満雅はそれを嫌って野崎垣内篠田の森という場所で生長元年12月21日自害した。 | |
永享2年(1430)、満雅の弟顕雅は幕府との講和をはかり、伊勢国司職は満雅の子教具(のりとも)に安堵され、没収されていた所領(飯高・一志郡)が返還された。 | |
書籍 | 三重国盗り物語(伊勢新聞社) |
環境 | 垂水の東雲寺裏手の丘陵端部に当たる、東端部の頂部が平坦であり、地元では岩田川合戦の時に満雅が陣を置いたとの伝承がある。 |
一族 | 北畠顕泰(父)---満雅(長男)---教具(長男) |
現地 | 平成28年8月現在現地は大規模工事中で草木が皆無なのでかえって土地の様子が分かる状態になっている。写真中央奥が伝承に伝わる場所・大将陣山と考えられる。 |
考察 | 垂水の陣地は満雅の挙兵Ⅱの時に使われたと思われる。理由① 挙兵Ⅰでは「雲出川を挟んだ戦い、、、北畠軍は押され最後に阿坂城に立てこもった。」 なので雲出川から北へは行っていない。 |
理由② 挙兵Ⅱでは雲出川から岩田川まで攻勢に出ている。満雅は岩田川に追い落とせと考えるまで北側に幕府軍を追いつめている。 | |
理由③ そして満雅終焉の地と言われている場所が岩田川の手前数百mの所であり、激戦の地は垂水の陣地から岩田川の間と考えられる点である。 | |
感想 | 垂水の陣地は満雅軍と幕府軍の壮絶な戦いの中の通過点であったと思われる。満雅はこの丘陵から幕府軍の様子を捉え更に決心を固め北に下ったと思われる。 |
その後もこの辺りは在地領主から要衝の地として注目を注がれ続ける。 | |
地図 | https://www.google.co.jp/maps/@34.6922497,136.505176,441m/data=!3m1!1e3!4m2!6m1!1s1sE7i85-3qeA10HRT1ZDejbj3Ddw |
垂水城
たるみじょう
城名 | 垂水城 |
住所 | 津市垂水町 |
築城年 | 天文18年(1549)頃 |
築城者 | 垂水祐厳法願 |
形式 | 山城 |
遺構 | 無し |
規模 | 東西70m×南北120m |
城主 | 垂水祐厳法願 |
標高 | 40m |
比高 | 10m |
経緯1 | 南北朝争乱の中、応安4年(1371)細川民部少輔満之らが伊勢国に出兵し中南勢を転戦している。この中で「垂水山」が攻防の舞台の一つになっており、同5年にも細川頼元が再び出兵していて「垂水山」で戦闘が起こっている・ |
このように「垂水山」が北朝方の攻撃の標的になっていることから垂水付近に南朝系の拠点が存在したと考えられる。プレ垂水城とも言えるような城の想定も可能である。 | |
経緯2 | 天文十八年(1549) 垂水城合戦がありその戦いに備えて城を強固に改修したと言われている。(発掘調査で判明) 垂水城は北畠氏系の城でありその場所が一志郡と安濃郡の境界に近い垂水であることから合戦の相手は当時敵対していた長野氏であったと思われる。 |
歴史1 | 北畠氏の一元的支配が始まる16世紀初頭以前では在地領主と国司との二重構造であったと考えられる。垂水氏が在地領主であった可能性は高く垂水城の築城主であった可能性がまた高い。垂水氏は塩や鉄釜を媒介として垂水御厨(たるみみくり)と関わりを持ち、現地管理人のような立場にいた可能性もある。長野氏の軍事的行為を受ける一因でもありそうだ。 |
歴史2 | 境目の城の性格が高まるにつれ改修が行われた。しかし16世紀後葉には城の機能は停止していたと考えられる。理由1、永禄年初に長野氏が北畠氏から養子を迎えている。2、永禄十年(1567)伊勢侵攻で役目を終えた。 |
環境 | 伊勢街道と伊勢湾を同時に監視できる段丘の東端にある。この段丘には南北2Kmの間に複数(垂水城・池の谷砦・小森上野城・小森城)の城があった。又、垂水城の南の丘陵には15世紀初頭、北畠満雅が岩田川の合戦で陣地を置いたという伝承が残る、守備や築城には好条件な一帯である。 |
一族 | 垂水祐厳法願は土豪層の一人。15世紀前半北畠氏被官となり奉公人として活動。側近の位置付け。16世紀半ばには重臣として重用されていたと考えられる。ところが、信雄が北畠の家督を継いだ天正四年(1575)以降には「信雄分限帳」などの史料で垂水氏の名は確認できない。 |
垂水釈迦坊、茶同頭・藤方家老 | |
書籍 | 垂水城跡発掘調査報告書(2000,3) |
現地 | 垂水町の玄関口を表すように商業施設が整備され背後の団地の住みやすさが想像される。今となっては交差点信号の角から北に向かって傾斜が続いていることだけが、かすかに垂水城をイメージさせるくらいである。 |
地図 |
三重県松阪市庄町地内、櫛田川左岸に現れた川湊の船着き場石列
矢野城
やのじょう
城名 | 矢野城 |
住所 | 津市香良洲町地家 |
形式 | 居館 |
遺構 | 消滅 |
規模 | 推定;東西60m×南北70m |
城主 | 矢野下野守 |
標高 | 5m |
歴史 | 矢野村は始め長野氏の支配であったが後に北畠氏の支配となった。 |
経緯 | 伊勢平野の中央を西から東へ分断するように雲出川が伊勢湾に流れ、香良洲の三角州で枝分かれするところに矢野氏の居館が築かれた。 |
正平7年(1352)10月4日、足利氏が阿坂城を攻めてきた。阿坂の従騎であった矢野下野守は中村口の戦いで戦功があったようである。 | |
延文5年(1360)5月、伊勢守護仁木義長が幕府に謀反を企て長野城に籠ったが陥落。また9月28日には近江葛木山に出陣し六角崇永と合戦し敗れる。この時矢野下野守も討死した。 | |
書籍 | 三雲村史 |
環境 | 伊勢湾を警護する船の港を守り、雲出川の舟運を握り、足利勢力とにらみ合う第一線にある。東に「堀田」南に「馬場」西に「エバグチ」「下馬屋敷」や「中門」の地名あり。 |
一族 | 北畠家家臣 |
家臣 | 阿坂の従騎、波瀬の与力 |
勢陽五鈴遺響 | 矢野城址;矢野下野守歴代居セリ |
現地 | 宅地 城跡は小字地家垣内、西方寺を中心とした地域と推定される。西方寺の周囲は堀跡と思われる道が取り巻いている。 |
感想 | 北畠勢力図の北の防御線を水上、海上を中心に担っていたと思われる。水上が主な活動域のため山城は持たず居館で対応した。云わば香良洲の三角州全体が城域と考えていたのかもしれない。 |
地図 | https://www.google.co.jp/maps/@34.6486915,136.5268037,4191m/data=!3m1!1e3!4m2!6m1!1s1sE7i85-3qeA10HRT1ZDejbj3Ddw |
茂原城
もばらじょう
城名 | 茂原城 |
住所 | 大台町茂原字木間瀬 |
築城年 | 享禄二年(1529) |
築城者 | 吉田悪才兵衛 |
形式 | 山城 |
遺構 | 郭、堀切 |
規模 | |
城主 | 吉田悪才兵衛(城代、木馬瀬勘解由---兼房---兼貞) |
標高 | |
比高 | |
書籍 | 勢陽五鈴遺響 |
同処ニアリ吉田悪才兵衛尉居セリ北畠家の被官ナリ今ソノ裔住シテ歴代連綿セリ | |
伊勢名勝志 | |
享禄二年(1529)北畠の家臣吉田兼行始めてこれを築き下士木馬瀬勘解由をして守らせる。北畠氏が滅びた後はその子兼房、兼貞に至る。 | |
三重の中世城館 | |
茂原の集落東方、南から宮川へ向けて張り出す山地で、昴学園の南側の山頂にある。山頂には削平地、南方尾根伝いにやや離れて堀切状のものがある。 | |
環境 | |
一族 | 北畠家臣 |
現地 | |
考察 | 今回は山頂まで行けていないので削平地を確認していない。今後の課題である。 |
感想 | 宮川を眼下に望む絶景である。訪れるなら季節感のある時がいい。 |
地図 | https://www.google.co.jp/maps/@34.3628314,136.3349728,1728m/data=!3m1!1e3!4m2!6m1!1s12rtCRcM3WvD-e6A-HOewok0dIso |