三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

佐伯中浅間山

2018-02-18 13:56:40 | 古城巡り

さいきなかせんげんさん

 多気町佐伯中に浅間山が祀られている山がある。

 櫛田川右岸の近津長谷城がある山塊から派生する一つの尾根の先端にある。

 現在は大日如来座像が円形削平地の一部、高まりのあるところに鎮座している。

 近津長谷城から派生する尾根は長く1.3Kmを測る。櫛田川や伊勢街道を目視するには近津長谷城からでは遠すぎるので尾根の先端が必要だったのであろうか。

 現在は浅間山を祀るために、或は山仕事に入るために改変が行われていると思われるが曲輪と堀切+竪堀と土塁の存在は山城(砦、見張台)と考えてよいと思う。

 北西方面から見た佐伯中浅間山を山城と仮定しての想像図

 佐伯中には佐伯権之進という武将がいた。またこの付近では射和の井上丹後守、国分三河守、富山権太夫、中万の堀木九之進、広瀬の久保三河守、茅原の高柳儀平、兄国の大西大蔵太夫、その他多数の武将が守りを固めていた。

 この辺り、櫛田川の両岸地域で織田軍と北畠軍は数回の戦があったという。その内の一か所が庄町の川岸と考えられている。そこには南無阿弥陀仏の名号石が建てられている。

 

 

 


2018 高見山 エビのしっぽ

2018-02-15 17:09:24 | ローカル

2018 高見山 エビのしっぽ

       

        

スライドⅡ

 

 

高見トンネルから大峠まで車で行きつけるかどうか心配だった。

圧雪の厚さは10センチ程度、状態は一様で無くアイスバーン、シャーベットと色々である。

結局、スタッドレスだけで大峠にたどり着くことができた。

登山道は積雪数十センチ、状態は道路と同じで色々。

アイゼン無しで頂上まで登れる。下山も問題ない。しかし、

登山靴もタイヤもシャーベットには弱い。

歩き方、走り方で何とかなったが、

登山靴もタイヤもチェーンがベストチョイスと思えた。

中央下が船戸集落

2018年2月14日現在

 

 

 

 

 

 

 

 


本郷浅間山

2018-02-03 16:00:40 | 古里の歴史

 松阪市御麻生薗(みおぞの)町本郷に本郷浅間山がある。標高249m、比高140m程である。附近での山塊比較では大明神山(標高399m)に次いで大きく、櫛田川の行く手を大きく南側へ蛇行せしめている山である。

 頂上には本郷浅間神社が祀られている。曲輪の広さは東西、南北それぞれ20m弱程である。社の基礎や祠(大日如来坐像)の造作は石組で行われている。頂上からは西の展望がよく根木峠(2Km)や大明神山(2.7Km)が良く見える。

 櫛田川を挟んだ南側の山頂には西之城(1.7Km)、東城(1.9Km)が連なるが現在は木立によって見ることはできない。

 登城道の入口には上山城がある。上山城の形態が居館であることを加味すると浅間山はいざという時の詰城という解釈も成り立つように思える。

 この曲輪にたどり着く90m手前に尾根を遮断する堀切がある。堀切は西に向かって竪堀となって斜面を落ちている。山城としての遺構らしきものはこの堀切と曲輪だけである。

 神社を守るために必要とされた堀切なのだろうか。堀切と云えば山城には付き物である。山城を想定すると一番攻められやすい尾根を断ち切るためにはこの堀切は必要であったと思われる。

 本郷浅間山を大明神山方面から見た山城の想像図。直下に庄浅間山、川向かいに佐伯中浅間山が見て取れる。

 本郷の集落より一つ下流の庄集落にも浅間山があり、同じように堀切をもっている。庄浅間山は複数の曲輪を持っているが規模は小さく、どちらも似たような浅間神社と言える。

 堀切の存在に注目して、これら浅間神社の前身が山城であったと仮定するならばそう不思議でもない気がする。単郭、ないしはそれに近い小規模な曲輪群と一つの尾根を遮断する堀切とそれに続く竪堀が主な遺構であるが山城としての最小条件としては成り立つところである。

 隣同士の集落ということでよく似た山城仕様、施工技術であり、手法であると言える。

 これらが山城とした場合は、伊勢国司北畠氏との関係はどうなんだろうか。

 薄いように思われる。北畠本体、または臣下の城というよりは、集落同士のいさかいや争乱などの詰の城という位置づけがふさわしいのかも知れない。

 あるいは近津長谷城のような本城のネットワークとしての見張台であったのかも知れない。櫛田川流域に山城が点在していることは既に知られるところであるが、未だ確定されていない山城遺構があっても不思議ではない。

 少し想像が過多になってきたところで纏めとしたい。この二つの浅間山にある神社は前身が山城であったかも知れない。又は神社と山城を併用していたのかも知れない。神社だけの為に堀切を造り込んだわけではないと考える。史料で城、あるいは砦などの記述が見つかれば積極的に山城と表現してもよいが、今のところは想像の域を脱することはできない。

 

ヤマレコ記録

https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1372127.html

 追記;

 多気町佐伯中に浅間山があり、大日如来坐像が祀られている。このことも今後おおいに注目したい。

 


庄城

2018-02-03 13:52:56 | 古城巡り
城名
 庄城
読み
 しょうじょう
別名
 庄浅間城
住所
 松阪市庄町
築城年
 元亀~天正始めか
築城者、城主
 岡小四郎か
形式
 山城
遺構
 郭、堀切、竪堀
規模
 東西10m 南北40m
一族
 岡氏か
家臣
 北畠家臣
標高 175m 比高 130m
歴史
 永禄12年の織田信長、大河内城攻めの時牧城も戦いに敗れ岡小四郎らは櫛田川の対岸の庄に逃れた。
 庄町郷土史によると年代が判明せぬが、庄町の櫛田川河畔で北畠の武士六騎と多数の織田軍が戦い北畠側は全員戦死したとある。今その場所に南無阿弥陀仏の名号石が建つ。
考察
 牧城で一度敗戦をした岡小四郎は北畠具親の要請を受けて庄に城を築いたのかも知れない。
書籍
 庄町郷土史
環境
 背後の山は標高が249mの本郷浅間山である。同じように浅間神社が祀られ、やはり尾根には堀切が備えられている。

現地
 松阪市庄町の浅間神社は集落を見おろす北の山の頂、標高175m、比高130mにある。
 西は広瀬・御麻生園集落・根木峠、東は射和、相可集落まで見通しのきく、少し山塊から飛び出した舌状で好位置にある。
 登頂の道のりは紀師神社駐車場から0.5Km程度で30分ほどで着く。
 その途中には切通・峠と思われる場所や切岸とも思える周囲とは傾斜の異なる場所、または虎口とも思える場所があるが何れも山城遺構とするには確証がない。
 尾根に上がり切るとほぼ水平移動になる。しばらくすると水平の尾根を遮断するように堀切が現れる。堀切は南側へ竪堀となって続く。その寸法は堀巾が6m、底巾が2m、長さが15m以上を測る。竪堀のすぐ脇には崩落した跡がありまるで2条の竪堀を演出しているようだ。
 この堀切及び竪堀の存在から山城を推定しないわけにはいかない。この先の浅間神社の曲輪の存在は神社の為のものというよりは、曲輪を神社に転用したのではないだろうか。神社に堀切は必要ないのではなかろうか。
 曲輪について整理すると堀切からの距離が30mの所にあり、曲輪はほぼ円形を成す。
 その大きさは東西が9m、南北が7m程で小さい。その西側に舌状に6mのテラス形状の曲輪がある。
 南側には巾約2mの帯曲輪が付属している。その縁は石積みがされている様子が伺われる。
 円形の主郭に対して西、南に付属する小さい曲輪があり狭い尾根の面積を稼ごうとしている。
追記;
 庄町に「庄町郷土史」がありヒントになるような記述がある。しかし、史料としての価値については定かではない。
 それによると、多気町牧に「牧城」があり城主は岡小四郎と言われている。信長の侵攻の時戦いに敗れ住まいを追われ松阪市庄町に移住した、とある。
 牧城の主郭部は単郭で舌状の平坦地と尾根側に堀切をもつ単純な山城である。また、庄城も単郭と堀切で主な構造を成している。
 この二つの城は近辺の北畠氏の関係城跡では類似の形態である。一概に限定することは危険が伴うが推理の一つとして同人物が 関係した城であると考えてもよいのかも知れない。
 庄町の字名に陣出、武士ケ谷、馬場が残る。

  庄浅間山を東南から見る山城想像図

 庄城縄張り図

  

 ヤマレコ記録

https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1371988.html