三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

矢野城

2014-10-22 15:41:56 | 古城巡り

矢野城

住所;三重県津市香良洲地家

城主;矢野下野守

肩書;北畠家臣、阿坂の従騎、波瀬の与力

遺構;消滅

現状;宅地、立地;平地、

   城跡は小字地家垣内と推定される。東に「堀田」南に「馬場」西に「下馬屋敷」の記述

  があることから現西方寺を中心とした地域と思われる。

位置づけ;伊勢湾を警護する港を守る。雲出川の舟運を掌握し、足利勢力を迎え撃つ

  第一線の位置にある。南に星合城がある。

概要;正平7年(1352)10月4日、足利氏が阿坂城を攻めてきた時、阿坂の従騎であっ

  た矢野下野守は中村口の戦いで戦功があったようだ。

   延文5年(1360)5月、伊勢守護仁木義長が足利幕府に謀反を企て長野城に籠っ

  たが陥落。また、9月28日には近江葛木山に出陣し六角氏と合戦し敗れる。この

  時、矢野下野守は高嶋次郎兵衛尉らとともに討ち死にした。

地図;https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zMB0lt7eZPVw.kfXn7gkwAAkU

 

 

 

 


今徳城

2014-10-09 13:48:01 | 古城巡り

今徳城

こんどくじょう

住所;三重県津市安濃町今徳北出

築城時期;応永年間

城主;奥山常陸介

  今徳城は北の長野藤定と南の北畠具教の勢力圏の中間地点にあり、北畠氏の家臣

 である奥山常陸介はここで防衛し今徳城は北上戦の最前線であった。

  永禄元年(1558)北畠具教の次男を養子・具藤とし一旦和議が成立した。後、長野

  氏の家臣が養子・具藤を追放し織田信長の弟・信包を養子に入れた。同時に織田軍は

 津田一安を伊勢侵攻の先鋒とし今徳城を攻めた。

  津田一安と長野軍、対して奥山常陸介と北畠軍の戦いになったが今徳城は陥落しな

 かった。

  永禄12年(1569)、60日に及ぶ大河内城の戦いであったが再び和睦が成立し信雄

 が北畠に養子に入った。 奥山常陸介は織田信雄に仕えることになった。

  天正4年信雄は奥山常陸介ら重臣に具教暗殺の密命を指示、常陸介は領地3千石

 加増の朱印状を受け取ったが悩んだ。主君の命令は絶対だがかといって長く仕えた具

 教卿を討ちとることなどできるはずがない。常陸介の出した結果は仮病を使い朱印状を

 焼き、今徳城を破却し遁世するというものであった。

   真盛上人開山の西来寺を頼りその辺りに庵を構え国司家の菩提を弔ったという。

 地図;https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zMB0lt7eZPVw.kfXn7gkwAAkU

 

  

 

    

  


須賀瀬城(赤堀山正法寺)

2014-10-08 09:44:03 | 古城巡り

赤堀山正法寺

前提;赤堀山正法寺と須賀瀬城が一致する確証はない。

仮定;須賀瀬城が現正法寺域にあったと仮定する。

住所;三重県津市須ケ瀬町

城主;渡辺筑後守(子=甚右衛門、孫=太郎右衛秀)

肩書;北畠家臣・侍大将、木造家家老

築城時期;不明

位置付け;一志平野のほぼ中央、初瀬街道と雲出川を抑える重要な位置。

 ここに渡辺筑後守が館を築き北畠氏を守った。又多気御所では丹生俣の西程に

  屋敷を建て住まいした。雲出川の対岸に牧城、川方城がある。

由来; 永禄8年(1565)渡辺筑後守は北畠氏の勘気に触れ一時引こもったが

 国司から北勢の赤堀氏を討てば勘気が許される旨の仰せ付けがあった。

  筑後守ははかりごとをもってその首級をあげて国司に差し出し許された。

  その後、筑後守は赤堀入道をあわれみ永禄11年(1568)念仏堂を建立し冥福を

 祈った。またその子甚右衛門が父筑後守の菩提をも併せ祀り赤堀山正法寺と称した。

遺構;現在遺構は無いが正法寺の東出を馬場と呼んでいる。また屋根瓦の家紋は

 三つ丸の渡辺紋になっている。

余談;赤堀氏の羽津城近くに正法寺という寺がある。(三重県四日市市羽津山町)

  戦国乱世のあわれを思い現地のお墓に手を合わせた。

地図;https://www.google.co.jp/maps/@34.6595809,136.4665339,1772m/data=!3m1!1e3!4m2!6m1!1s1sE7i85-3qeA10HRT1ZDejbj3Ddw