三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

長谷砦

2017-09-28 22:48:39 | 古城巡り

 スライドデジブック

👆 竪堀が連なる長谷砦

城名
 長谷砦
読み
 ながたにとりで
別名
 井生城(いうじょう)
住所
 津市一志町井生長谷
築城年
 不明
形式
 山城
遺構
 曲輪、帯郭、竪堀
規模
 東西 70m×南北 80m
城主
 馬場土佐守
標高 179m 比高 127m
書籍
 津の城跡50選では「、、、戦闘に巻き込まれることを恐れた近隣村民が最後の避難場所として築かれた可能性もあるものと思われる。」と記している。
環境
 一志平野から多気御所へのルートを直下に見る、南北に鋭い傾斜を持つ山上にある。
 大仰城を北1Kmに見、視界は効く。
現地
 曲輪はプリン型単郭だが切岸は高く険しい。周囲に帯郭を持ち帯郭から竪堀が城を取り囲むようにつながる。
 帯郭には水を貯めるような凹部や竪堀につながる空堀や少しの広さを持つ削平地が組み込まれている。
 主郭頂部は片側と背後に土塁構造や高まりとなった部分と一段下がった平面の2段構造となっている。
考察
 城の位置や郭の高さや竪堀の数から防御性に重点を置いた城のように思える。
 笹遺跡発掘調査報告において「信長の時代に岸和田代官松浦(まつら)宗清が一万石を転封され、井生を治める。居城は豊臣、徳川方の勢力が伯仲したなかでは築けなかったらしく現在確認することはできない。」とある。
 その後、松浦宗清が移封され、従兄弟の松浦伊代守久信に城主は代わったが城跡は確認されていないとのことなので井生城主といえども長谷砦主ではないということである。織豊政権による支配より以前、北畠氏統治時代の城である可能性が高い。
感想
 未だ見たことがない種類の珍しい城である。
地図


登り口は南口と東口がある。

<!-- 長谷砦 -->


乙部城

2017-09-19 20:43:55 | 古城巡り

 

 

 👆ここは乙部山潮音寺      

👆乙部藤政の守護仏が伝えられている

👇そして、こちらは地蔵尊

 👇この地に乙部伊豆守の城があった

  

ここは中河原 

 

 👆石や木は見ていたのだろう

 

城名
 乙部城
読み
 おとべじょう
住所
 津市中河原
築城年
 永禄年中
築城者
 乙部伊豆守藤政
遺構
 無し
城主
 乙部伊豆守藤政
一族
 長野工藤氏
歴史
 永禄年中、信長の攻撃を受けてその子乙部兵庫藤政は居城を領内の渋見に築城しそこに移す。
書籍
 三重の中世城館
環境
 平城と考えられるほど平坦地である。

地図



家所城

2017-09-18 21:23:19 | 古城巡り

  👈 三河守の墓 

                        

 

 👆 つぶて石                  👆 大手門跡

 

 👆 土塁                    👆 本丸井戸跡

 

 👆 大手門石垣                 👆 祠への参道

 

 👆 抜け穴                   👆 土塁跡

 

 👆 見張台                   👆 土塁

 

 👆 空堀                    👆 土塁

 

 👆 土塁                    👆 空堀

 

 👆 虎口らしい                 👆 土塁

  

 👆 同、外から                 👆 侍屋敷跡

 

 👆 伝家所三河守の墓

 

城名
 家所城
読み
 いえどこじょう
住所
 津市美里町家所
築城年
 貞治元年(1362)
築城者
 家所祐歳
形式
 平山城
遺構
 郭、堀、石塁、井戸跡
規模
 東西320m×南北340m 兵500人
城主
 家所祐歳,祐房,祐長,祐則,祐友,祐藤,藤實,藤安
 八代目、藤安は元亀3(1572)織田信長との戦いで戦死した。一説に隠遁説もある。
一族
 長野氏与力
標高 114m 比高 23m
歴史
 この城は貞治元年(1362)に家所祐歳によって築かれた。
 家所祐歳は、長野城主工藤氏祐の第三子で、この地方の24ケ村を領知したという。
 その後、八代の間(約200年間)よく栄えたが織田信長軍と戦い、敗れ、城も荒廃した。
書籍
 三重の中世城館
環境
 家所盆地の中心に位置し、孤立した丘陵にあるこの城は、守るによい地形を利用している。
現地
 主郭は長方形で、土塁をめぐらし、各所に空堀、石塁や、井戸跡が残されている。
 北側には家所氏の菩提寺である什心寺跡がある。

地図


 スライド

 

 


太田城

2017-09-18 11:22:16 | 古城巡り

 

 

👆 城を二分する道路              👆 向かって左手山の階段を登る

  

👆 階段が急角度に曲がったところに        👆 Ⅱ郭の空堀と思われる

 

👆 空堀は半円状に長く続く           👆 道を挟んでもう一方の郭

 

👆 Ⅱ郭から空堀越に主郭を望む         👆 主郭

 

👆 主郭西奥の竹藪に削平地           👆 村の端から遠景

 

城名
 太田城
住所
 津市安濃町太田宮城・宮後
築城年
 永生年間(1504~1520)
形式
 平山城
遺構
 郭、空堀、土塁
規模
 東西40m×南北150m
城主
 平松通資 - (甥)道善
一族
 北畠家家臣。
標高 40m 比高 22m
歴史
 「平松家系図」によると兵乱の世の中に野盗から村を守るために、村人の要請により北畠材親平松六郎兵衛通資を遣わした。永生年間(1504~1520)にここに築城し、その後二代目の甥の平松通善などが居城したと伝える。詳細不明なところが多い。
書籍
 三重の中世城館 
環境
 安濃の穀倉地帯を比高20m位で西に見渡す丘陵にある。安濃川まで1.4Kmで見渡せる。
現地
 東西に長く郭が二分する。中央の道が後世のものかとも考えられる。
感想
 平松家系図による、村人の要請で国司家が役人を派遣して城を造り監視するなど、国司家も意気な計らいをしたものだ。戦国の世にあってホッとする話である。

地図

 <!-- 太田城 -->

 


前山城

2017-09-18 09:55:04 | 古城巡り

 

 

👆 西郭 土塁と空堀

 

 

                         👆 L字形が基本形

  

 

 

 👆 つぶて石!?                👆 東郭 藪で見学困難

城名
 前山城
住所
 津市芸濃町北神山
形式
 平山城
築城時期
 室町時代
遺構
 郭、土塁、空堀
規模
 東西200m×南北100m
城主
 駒澤権頭藤綱
標高 93m 比高 35m
一族
 雲林院家家老
環境
 雲林院氏の南の砦。経ヶ峰へ登る入口に当たる。
 見晴距離3Kmを180度見渡せる絶好の場所にある。
 安濃川を400m先に見下ろすことができる。
感想
 工業団地の開発から免れたことは大変良かった。しかし、城域の南側の様子は不明である。

地図


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


霧山城・北畠氏館・六田館(東御所)

2017-09-17 20:14:58 | 古城巡り

 

 


 

城名
 霧山城
住所
 津市美杉町下多気・八知・奥津
築城年
 康永元年・興国3年(1342)
築城者
 北畠顕能
形式
 山城
遺構
 郭、堀切、土塁
 本城と居館の間に詰城がある。
規模
 本城;東西150×南北270m
 詰城;東西60m×南北30m
城主
 北畠顕能-顕㤗-満雅-教具-政郷-材親-晴友-具教、
 天正4年の城代は北畠一族の北畠左衛門尉政成 政成は伊勢国司4代北畠教具の三男北畠政能の孫
本城;標高 560m 比高 237m
詰城;標高 411m 比高 88m
歴史
 興国3年(1342)伊勢国司北畠顕能(あきよし)が築いた。
 天正4年(1576)具教が三瀬御所で殺害されると信雄軍は白口峠、桜峠を突破し多気の城下に押し寄せ火を放ち、城にも登り霧山城は攻め落とされた。
 12月4日夕刻に城代・政成は櫓に火を放って、近親とともに自決し、壮絶なる最期をとげた。これによって多気御所と霧山城の武士80余人が討ち死に、玉砕した。
 兵火で焼失したが土塁などは往時のままで、峰を渡る風が歴史の悲歌をいまに伝えている。
経緯
 北畠顕能-顕㤗-満雅-教具-政郷-材親-晴友-具教、8代・240年間の本拠地。
書籍
 三重の中世城館
環境
 吉野へ65Km、伊勢へ40Kmに位置する美杉村下多気、標高570メートルの天険に残る北畠氏の本城跡。
 この城跡は、大和・伊賀・伊勢の国境に接する山間部ではあるものの、大和と伊勢平野とを結ぶ交通路上に位置する「多気(たげ)」の地に位置している。
一族
 北畠氏
現地
 多気の盆地の西山麓部、北畠神社に館跡がある。南の端には庭園が残る。
 川を越えた水田辺りは一族や家臣の居住区であった。六田(ろくた)の館跡はその境界線が良く残っている。
感想
 北畠8代、240年の本拠地の割には城の部分がひ弱な感じがする。麓の居住区に力が注がれていたのではないだろうか。公家の意識が強かったり、守り堅固の安心感があったり、戦いの少ないいわば平和な暮らしが長かったのではないだろうか。

 

城名
 北畠氏館
別名
 多気御所
住所
 津市美杉町多気
築城年
 康永元年・興国3年(1342)
築城者
 北畠顕能
形式
 居館
遺構
 庭園、石垣(埋め戻されている)
規模
 東西200m×南北420m
城主
 北畠顕能-顕㤗-満雅-教具-政郷-材親-晴友-具教、
 天正4年の城代は北畠一族の北畠左衛門尉政成 政成は伊勢国司4代北畠教具の三男北畠政能の孫
標高 323m 比高 5m
歴史
 天正4年(1576)具教が三瀬御所で殺害されると信雄軍は白口峠、桜峠を突破し多気の城下に押し寄せ火を放ち、城にも登り霧山城は攻め落とされた。
 12月4日夕刻に城代・政成は櫓に火を放って、近親とともに自決し、壮絶なる最期をとげた。これによって多気御所と霧山城の武士80余人が討ち死に、玉砕した。
書籍
 三重の中世城館 
環境
 吉野へ65Km、伊勢へ40Kmに位置する美杉村下多気、標高570メートルの天険に残る北畠氏の本城跡。
 この城跡は、大和・伊賀・伊勢の国境に接する山間部ではあるものの、大和と伊勢平野とを結ぶ交通路上に位置する「多気(たげ)」の地に位置している。
一族
 北畠氏
 田丸御所、大河内御所、坂内御所各兵一千(計三千)
 一志波瀬、岩内、藤方、木造各兵5百(計二千)
家臣
 軍兵15,000 
現地
 晴具の妻の父・細川高国が設計したといわれる庭園は貴重である。
感想
 8代、240年の伊勢国司の居館(注1)は今見ることはできないが敷地に限界が見えて何とも手狭である。
注1
 美杉故郷資料館において居館のモデルを見ることができる。

  

城名
 六田館
読み
 ろくたやかた
別名
 東御所
住所
 津市美杉町下多気
築城
 室町時代
形式
 居館
遺構
 郭、堀跡(堀田)
規模
 東西60m×南北80m
城主
 北畠政房(具教の子)
標高 322m 比高 0m
歴史
 一説には政成が自決した後、奥山信濃守(注1)が子の館に遁世して菩提を祀り「東御所金吾城」と称したともいう。
 また、雪姫(注2)伝説が伝わり桜と雪姫大明神と稲荷大明神が館跡にある。
環境
 多気城下古図の多くはこの辺りに家臣の屋敷を描いている。また、町の名前に職業名を付けたり遊女街があったり城下にはすべてのものがあったようだ。
 寺院の数も多く20か所の名が挙げられている。
一族
 北畠政房一族(左少将正義-政勝-政成)
感想
 堀の跡がよく残って他の城郭の見識に参考になる。
注1
 奥山信濃守;平氏金吾羽柴之末葉小森上野城主(北畠家臣団帳より)
注2
 雪姫;具教の四女で織田信雄に嫁いだ。

地図


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御嶽城

2017-09-17 12:17:36 | 古城巡り

 

 御嶽城、北斜面

御嶽城

 

城名
 御嶽城
読み
 みたけじょう
住所
 津市美杉村三多気
築城年
 天正
築城者
 御嶽氏
形式
 山城
遺構
 郭、土塁
規模
 東西100m×南北100m 城兵80騎
城主
 御嶽 左近進
標高 441m 比高 16m
歴史
 天正4年(1576)に具教が三瀬谷で暗殺された後も固守して降参しなかった。
 織田信雄は本田左京進、滝川三郎左衛門、木造左衛門佐らを攻めさせたが城を落とすことはできなかった。
 城兵はわずか80騎ばかりの小勢であったが急な斜面が守る山城は堅かった。
 そこでついに和睦を結び左近進は伊賀に退去して御嶽城は廃城となった。
書籍
 三重の中世城館
環境
 城域には桜が植栽されており「三多気の桜」の一部となっている。訪れる時は桜の季節がいい。
一族
 北畠家臣
現地
 急な斜面に設けられた城跡で桜が植えられ高台は残されている。
地図
 <!-- 御嶽城 -->

 三多気の桜

 


奥佐田城

2017-09-16 16:13:11 | 古城巡り

奥佐田城

城名
  奥佐田城
読み
 おくさたじょう
別名
 笹山城
住所
 津市白山町佐田味噌谷
築城者
 堀山氏
形式
 山城
遺構
 郭、土塁、空堀
規模
 東西90m×南北140m
城主
 堀山次郎左衛門(小倭・おやまと七人衆の一人)
標高 129m 比高 50m
歴史
 天正4年(1576)具親蜂起の時、七人衆として堀山もこれに一味して城に立て籠り反乱した。
 織田信雄は滝川、柘植、長野に命じてこれを抑えた。
 
 天正12年(1584)小牧長久手の戦いの時、秀吉軍の蒲生勢によって口佐田城、南出城が落とされ、奥佐田城も包囲された。
 具親は安保大蔵少輔をつかわして和睦させ堀山は城を明け渡して退いた。
 
 江戸期に蒲生家の家臣笹山小次郎がこの城を守っていたことから笹山城とも呼ばれる。
書籍
 津の城跡50選 三重の中世城館
経緯
 この地は小倭郷の中心地で小倭七人衆の主な人物が居住していた。(小倭郷=垣外、稲垣、上ノ村、南出、佐田など)
 阿坂城の支城群を構成し北畠家臣として格式が高かった。満賀野甚九郎(三ケ野)、新(上ノ村)、臼杵与四郎(谷杣)、吉懸三太夫(南出)、堀山式部少輔(奥佐田)、森長(口佐田)、稲垣実秀(稲垣)の性を名乗っていた。
 小倭七人衆を 稲垣氏 臼木氏 岡村氏 小泉氏 堀山氏 満賀野氏 吉懸氏とする説もある。

地図



口佐田城

2017-09-15 14:04:01 | 古城巡り

くちさたじょう

👆 城域にある蓮台寺

👆 この辺りが城域

👆 この段差が可能性高い

👆 北側に不思議な風景

👆 字をなぞったが解読できない

👆 年代も不明

👆 路傍の石仏

 

👆 地区を流れる大村川の風景

城名
 口佐田城
住所
 津市白山町佐田
築城者
 森長氏
遺構
 無し
城主
 森長越前守
標高 66m
歴史
 天正12年に小牧長久手の戦いの時蒲生軍と合戦。
 8月某日蒲生軍が攻め込んで来たとき、奥佐田城主の堀山氏と同じく最後まで抵抗した。
 蒲生軍方青地内匠助、後藤喜三郎、中村仁右衛門らが城を取り囲んだ。
 森長越前守は青地軍へ切り込み激戦となったが、敵の援軍が現れ攻めきることが出来なかった。
 激しい戦いの末城兵は多く討ち死にし、森長越前守は敗走した。
現地
 明治時代の頃までは城域がはっきりしていたという。
 現在は名残を見つけることは難しい。

地図



上ノ村城

2017-09-15 13:46:40 | 古城巡り

うえのむらじょう

👆 成願寺

👆 同本堂

👆 堀切

👆 同

 

👆 土塁上にある稲荷神社

👆 土塁から見る主郭

👆 主郭の土塁

👆 主郭の中央

👆 その他の郭

西の山中にある石碑群

西峯山頂にある鉄塔

 

城名
 上ノ村城
住所
 三重県津市白山町上ノ村
築城年
 明応年間(1492~1501)
築城者
 新長門守(にいながとのかみ)経成
形式
 山城
遺構
 郭、土塁、空堀、堀切
規模
 100×60m
城主
 新長門守(にいながとのかみ)経成
標高 105m 比高 17m
歴史
 戦乱で長男・次男を失いまた一族の菩提を弔うため 真盛上人に帰依し真九郎と称し成願寺建立の発願者になった。
 
 明応2年(1493)10月から翌年に掛けて成願寺が完成し真盛上人は当寺を拠点として各地で布教した。
 しかし、永禄・天正の頃になると小倭党の小泉氏領すと記されていることからすでに北畠末期には新氏の勢力は衰退していたと考えられる。
一族
 北畠家臣、3千石
現地
 成願寺の裏山に城はある。堀切は深くきれいに残っている。土塁も幅高さ共に大型である。
感想
 城は小型だが急斜面に囲まれ攻めにくい。

地図