三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

金山城

2022-03-26 11:12:53 | 日本の城

 

城名
 美濃金山城
読み
 みのかねやまじょう
別名
 兼山城
住所
 可児市兼山
築城年
 1537年
廃城年
 1601年
築城者
 斎藤正義
廃城者
 石川氏
形式
 山城
遺構
 曲輪、石垣、
城主
 森長可など
標高 280m 比高 185m
歴史
 森可成(よしなり)-長可(次男・ながよし)-忠政(六男)
経緯
 1601年石川氏によって解体、犬山城の改修に使用される。天守移築説は否定されている。
参考
 Wikipedia 他
現地
 石川氏が犬山に材料を持っていってから、江戸時代は尾張藩の山となり立ち入り禁止、明治時代は皇室の管理、昭和20年からは国有林となる。
 昭和28年住民に払い下げられた。長年にわたり利用できなかったことが当時の様子を残すことになった。
 破城の様子は全国のどこよりも生々しいと思った。
考察
 岩村城の六段壁に匹敵する石垣の様子が主郭の西側などに伺える。一時森長可や忠政が岩村城を接収していたことが関係しているのかも知れない。
感想
 木曽川を20kmほど下り犬山城に利用された金山城の古材は今生かされている。
 金山城は破城され、石垣だけが残り無残な景色となったがこれはエコなことなのかもしれない。

   

 


八田城

2022-03-20 20:28:16 | 松阪の城

八田城

城名
 八田城
読み
 はったじょう
別名
 霧ヶ城
住所
 松阪市嬉野八田町
築城年
 鎌倉時代か(注1)
築城者
 三浦盛時か
形式
 山城
遺構
 曲輪、土塁、堀切、横堀、井戸、見張台
規模
 100m×150m
城主
 三浦氏
一族
 三浦一族
家臣
 鳥羽氏(与原)
標高 58m 比高 34m
歴史
 1,鎌倉時代に相模から三浦五郎左衛門盛時が来て築城した。
 2,姓を大多和に改め十一代大多和盛成は北畠顕能に従い以来北畠氏に属した。
 3,永禄12年(1569)信長の伊勢侵攻の時、大多和監物が籠城した。秀吉は二手に分かれて攻めたが堅固で攻めあぐねた。
 4,折しも山手から濃霧が城を覆ったので八田勢が優勢であった。かくして秀吉は引き揚げた。
 5,大河内城合戦は和睦となり、下之庄へ土着し三浦姓と改めた。
参考文献
 三重の中世城館
環境
 麓に祖先の三浦義明の霊をまつる義明寺がある。
現地
 八田城山公園保存会が城跡の管理をされている。
考察
 鎌倉時代の築城が考えられるが、現在の遺構は戦国時代に増強されたものと思われる。
感想
 コンパクトだがパーツが多く備わり見応えがある。2021年4月には地元の情報から新たに長さ40mの堀切が主郭から100m離れた所に発見され城域が広くなった。
注1
 三浦盛時は建長4(1252)年、宗尊親王が鶴岡八幡宮参詣の際列席し鎌倉にいたと思われる。弘長3(1263)年、出家している。この前後に八田に住んだか。
 

位置づけ;北畠家臣団が中村川流域を守る城(天花寺城堀之内城小川城釜生田城森本城滝之川城・八田城)の一つで織田信長の南伊勢侵攻に備えた。

勢陽五鈴遺響に「永禄十二年大多和兵部少輔居ナリ」とある。又伊勢名勝志には相模・三浦氏の築城とある。

永禄十二年(1569)8月26日、早朝、木造城を出た織田信長は滝川雄利と柘植三郎左衛門たちを案内人として山際の道を南下、沿道に火を放ちつつ大多和兵部少輔の拠る八田城に向かった。

しかしこの朝、八田の在所は濃霧で見通しがきかなかったので信長は八田城の攻撃を中止した。また近隣の岩内城阿坂城に降伏勧告を出した。

感想;小さいながらも遺構がしっかりした形で残っている。訪れることも容易で観察することも行いやすく(地元の皆さんのご努力に感謝!)お気に入りの場所。

地図;


北東1Kmに堀之内城