三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

深野城

2018-03-22 00:15:38 | 古城巡り

ふかのじょう

深野城は伝承の城である。

 

松阪市深野町に來迎寺という浄土宗の寺があり、

宗祖は法然上人といわれ阿弥陀如来がご本尊である。

創建は治承三年(1179)だが、

永禄十二年(1569)には織田信長の乱入により焼失する。

 

地元の歴史家に聞いた話ではここに城があったという。

恐らく寺が建つ丘陵の先端にある凸状の台地がそれにあたると思われる。

 

大正15年8月に初代中條氏が記念碑を建てられた際に見晴らし台として

改変されているので城として断定できなくなっているのであろう。

 

 

 

 

 


仁柿城

2018-03-19 00:05:14 | 古城巡り

にがきじょう

城名
 仁柿城
読み
 にがきじょう
住所
 松阪市飯南町上仁柿
築城者、城主
 久世因幡守、周防守
形式
 山城
遺構
 郭、堀切
規模
  全体;東西260m、南北105m
 主郭;東西40m、南北16m
標高 290m 比高 90m
経緯

 北畠氏の家臣団配置図に武将の名称はあるが城塞の場所が確定されてないものが何か所かある。その一つが仁柿城である。探索するにもヒントが全くなかった。ある時、深野の郷土史家と話す機会があってそのことを質問するとおおよその場所が分かった。

 地元の人から話を聞くことが出来た。地元では”見張台”と呼んでいて、久世さんが殿さんと聞いていると話されている。ただ、書いたものが何も見つかっていないとのことで地元でも大きな声にはなっていなようである。

環境
 櫛田川から多気(たげ)に向かう国道368号(伊勢本街道)から山中に入る脇道がある。殆どの人が気づかない程のルートだ。少し小川沿いの道を走るとすぐ集落が見えてくる。そこは狭い谷間で里山の風景が坪庭のようにある。
現地
 個人宅前の登城道を上る。たまたま、その家のご主人と話すことができた。この道で間違いなさそうである。八幡さん(注1)を祀る場所を抜けて迂回すると本格的に斜面に取りつく。ここからは直登のようだ。
 たどり着いた尾根は自然地形である。主郭があるはずの右手に方向を変える。やや登りで尾根端部に向かって標高が少し上がる。上がりきった所が主郭である。
考察
 主郭と副郭を主な曲輪とする山城である。削平は一部自然に返りつつあり甘くなっているところがある。
 切岸はいまだに鋭さを保って今でも歩行は困難である。主郭に付随する入り口左手の曲輪はあまり手を加えてない自然地形を生かしたものであろう。
感想
 下山時、山腹に細長い曲輪を見つけた。山側に石が並べられている。何に使われていたのだろうか。
 尾根を西に進むと堀切がある。この城で唯一の堀切である。主郭より離れているので城外かとも思えるが、その距離は200mとそれほど離れているとも言えない。
 津の忍田城の北方堀切は主郭から120m離れている。水平から急斜面に代わる尾根の根元にあり、忍田城としては理由が成り立つことになる。
 仁柿城の場合は200m程で確かに主郭から遠いがこの位置にある理由が明確であると思う。

 東西に延びる尾根の南北に隣接する村落を結ぶ峠道がある。その峠道から主郭側に入った辺りに堀切が施されていること、またその内側には見張台とも思われる形跡が残ることから、峠道から来襲する敵方を堀切と見張台のセットで西の入り口で抑えようとする考えから成るこの場所であると思われる。

注1;少し前までこの村では年に1回、4月に八幡さんの祭りを行っていた。狭い曲輪で餅まきをしていた。残念ながら近年は人手不足で途絶えてしまった。

主郭から西の堀切

主郭から八幡神社

地図

 

 


相可に城跡が現れた!?

2018-03-10 23:31:52 | 古城巡り

 相可に裸になった山が出現した。近くの道路を走っていると自然と目に入る。変な形をしているし、よく見ると何か立っている。興味津々、準備して登ってみる。入口に「山の神」の石碑がある。又、「みえ森と緑の県民税市町交付金事業 多気町」の新しい看板が立てられている。つい最近の事のようだ。

 地元の人に聞いてみた。「この山は町のものだが、この墓に竹の枯葉が落ちて困っているので、竹を切って公園化してもらった。」「山頂にいろいろ祀ってあるよ。」「近くに古墳もあったから関係してるかも知れない。」城跡といううわさは無いですかと尋ねたが「知らない。」とのこと。竹を切ったので一気に目立つ山になったのだ。早速登ってみる。

 郭、土塁は確認できる。城かも知れない。縄張図にしてみる

 

 

 周辺は四方開発で改変されている。また道を付けるのに重機が山頂まで上がってかなり仕事した様子だ。

 端々は昔の様子が残っている。中央に一番標高の高いⅠ郭(10m円形)、1m程標高の低いⅡ郭は石仏や大日如来や神社が祀られている祭壇になっている。その東に小高く丸い丘があるが削平はされた形跡がないようだ。その東に三角の削平地がある、Ⅲ郭だ。ブルで造られた道の下にⅣ・Ⅴ・Ⅵ郭が裾まで続く。東の池方面を監視するように造られた感がある。南側の中腹よりやや下に一番面積を稼ぐⅦ郭がある。縁は2段になっている。人が休めるとしたらこの郭だろう。西側の一部には石が並べられている。城域の一番西側には土塁を伴ったⅧ郭がある。小さい社が置かれて周辺に小石が散らばっている。もっとも西側には低い土塁が城の端を形づくっているようだ。他にも削平地ないしは平地と思われるところが何か所かある。

 この土塁と主郭と思われるⅠ郭の存在で城跡だと考えたがいかがなものか。

 

 


黒田山城(仮称)

2018-03-06 15:59:49 | 古城巡り

 

城名
 黒田山城(仮称)
読み
 くろたやまじょう
住所
 多気町兄国(えくに)/荒蒔(あらまき)
築城年/者、城主 不明
形式
 丘城
遺構
 曲輪、虎口、切岸
規模
 東西80m 南北60m
標高 61m 比高 37m
環境
 櫛田川中流部右岸の平野部に北に向かって突出するように低い山が連なるその最北端に位置する。
現地
 西から東に走る伊勢本街道が黒田山を巻き込むように屈折する場所がある。まるで黒田山が外隅となって行く手をはばんでいるようである。
 相可の住宅団地や工業団地が開発されて想像が難しくなったが相可から伊勢に向かう最短のルートはこの黒田山の裾を回り込むのが最善である。
考察
 まさに伊勢本街道を掌握するにはうってつけの場所である。関所があったという記録はないのでただ、いざという時のために街道を掌握するための砦的な施設であったのかも知れない。
 兄国には古くより兄国氏という豪族が住まいしたようである。黒田山古墳群はそれら兄国氏の祖先の墳墓と考えられている。
 樋田清砂氏作成の北畠家臣団配置図にはこの兄国について大西太蔵太夫が所在しているとしているがその場所は特定されていない。あるいはこの黒田山城が関係しているのかも知れない。
感想
 城の造りから付近の神山城、矢倉山城のような戦闘的な形式ではないと考えられる。堀切や土塁の形跡は見受けられず、曲輪を最小限連結させた安易なタイプで、標高の低さをカバーするような意識は見受けられない。
 立地場所や城の造りから守りが固いとは言い難く、詰城的なものでなく、砦の詰所ないしは待避所程度の施設の様子であるとうかがえる。
 この山の東南部は黒田山古墳群として発掘調査されているが多くは開墾のために消滅している。
 この黒田山城も古墳群の一部である可能性はあるものの中世において古墳を城に改造したという可能性も捨てきれない様相である。
追記
 城の命名だが、山の名前から「黒田山城」を優先した。地元では「くろたやま」と古くから親しみ込めて呼んでいるようである。あと、地名の「兄国城」や武将の「大西城」が考えられるが櫛田川を挟んだ向かいの山頂に「矢倉山城」や「神山城」など山の名前が付いた山城があることから「黒田山城」がふさわしく思えた。

  


野中城(浅間山砦)

2018-03-02 21:51:56 | 古城巡り

👆 堀切から谷へ竪堀として続く

👆 郭間にある区画用の堀切(珍しい)

👆 竪堀

👆 竪堀に平行する竪土塁(珍しい)

👆 伊勢湾が望める

👆 東南から見る野中城

 

城名
 野中城
別名
 浅間山砦
住所
 多気郡多気町野中
築城年 築城者 不明
形式
 山城
遺構
 郭、堀切、土塁、竪堀
標高 139m 比高 96m
規模
 東西100m×南北80m
歴史
 延徳三年(1491)に伊勢神宮と、熊野の社家・僧兵がここで戦ったという。
環境
 野中集落の西方にある丘陵地で熊野・吉野・高野道を眼下に見下ろす位置にある。
現地
 高圧鉄塔が設置され大幅な改変があったが一部は良好に残っており当時の様子を垣間見ることができる。
 付近に「城腰(じょうのこし)」という地名が残っている。
考察
 伊勢神宮が所領した神三郡(渡会・多気・飯野)の縁ならではの争いがこの近辺で行われたのかも知れない。
感想
 付近は峻嶮な山もなく丘陵が断続的に存在する程度となる中でこの浅間山も付近に比べて秀一な山ではない。その街道が交差する立地が重要であったと思われる。
 「伊勢の中世」誌では「野中城」としているが別名、「浅間山砦」という表記も他の史料で見受けられる。
 浅間山と呼ばれているが現状では浅間山を祀る祠や石仏などは見うけられない。それらが麓に降ろされて名前だけが残ったのかも知れない。
地図