三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

長原城

2018-06-20 12:53:40 | 古城巡り

城名
 長原城
読み
 ながわらじょう
別名
 北山城
住所
 度会町長原浅間山
築城年
 天文5年(推定)
築城者 城主
 大崎玄蕃頭 弘治二年(1552)に没
家臣
 入り口の説明看板によると「大崎玄蕃某というのは、北畠関係かは明らかでないが、、、、」としている。
形式
 山城
遺構
 曲輪、堀切、帯曲輪、畝状竪堀
 主郭(15×12m)帯曲輪の比高差3~4m
 堀切(幅5m、深さ1.5m)
 防御の中心を東方向の谷に置いている。
 長原城の畝状竪堀群と2条の独立した竪堀は、この規模の城としてはかなり高い防御性を有するといってよい。
規模
 東西35m×南北30m
標高 95m 比高 50m
歴史
 入り口の看板より「この城の石垣は天保六年による池決壊の大修理に使われ現存しない。」
経緯
 入り口の看板によると「大崎玄蕃はここ北山の浅間山上に天守閣を構え20年余りを居城し弘治二年(1556)に没している。」とあることから 1556-20=1536(天文5年)頃の築城かも知れない。
書籍
 三重の中世城館 伊勢の中世史
環境
 国束山から南に派生する尾根の先端にあり長原の里と街道、宮川を見下ろす位置にある。
現地
 入り口の看板より「殿蔵屋敷、本陣、垣内、殿屋敷、籠建場、旦城などの地名が伝えられている。」
考察
 やはりこの城の特徴は竪堀にあり、中でも4条の畝状竪堀は秀逸である。隣の立岡城も畝状竪堀を備えるが、この付近では珍しい畝状竪堀が両城に備わるのは興味を引く点である。
感想
 入り口に設置されている城を説明する看板には詳しい話が記されている。大崎玄蕃頭の地元における業績や住民との触れ合いについて知ることができる。
地図

 

 


青木山城

2018-06-16 16:37:43 | 古城巡り

  

 

城名
 青木山城
別名
 一之瀬城・西の城
住所
 度会郡度会町脇出
築城年、者
 不明
形式
 山城
遺構
 曲輪(15m四方)、堀切、石垣(屋敷)
規模
 200m×50m
城主
 向井氏か
家臣
 北畠家臣
標高 122m  比高 50m
経緯
 城の東の麓には石垣を伴った屋敷跡がある。勢陽五鈴遺響によると「脇出殿屋敷に北畠の麾下、向井将監が住まいしたとある。さらに「向井将監は織田信雄の命により三瀬左京進を討ち同時に敗亡した」とある。
書籍
 日本城郭大系
環境
 地元、度会町ふるさと歴史館の展示では一之瀬城跡の内訳として東の城、西の城としている。
現地
 東麓に屋敷石垣が見られその間を通り突き当りを登る。尾根を東西に百メートルほど加工して、東に大手を付けて5段ほどの郭が連なり主郭前には二重堀切、主郭を越えて西には4連続堀切が連なり、その先80mには更に2条の堀切もある。
感想
 東の城に対して詰城の様相を呈している。近辺では珍しい4条の堀切が程度良く残る。これがこの城の見どころである。
 一之瀬城と青木山城の関係が解き明かせないが十分に強い関係性があったと考えられる。合わせて屋敷跡も含めて考えると中世の土豪の拠点のあり方の一つとして記憶に留めておきたい城郭である。

地図

 


一之瀬城

2018-06-16 14:00:59 | 古城巡り

 

城名
 一之瀬城
読み
 いちのせじょう
別名
 一之瀬御所
住所
 度会郡度会町一之瀬
築城年
 延元年間(1336-1340)
築城者 城主
 愛洲氏 - 田丸直昌(天正3年、1575) (田丸直昌は岩出城から転封。この時、”一之瀬愛洲の古城”といわれ、愛洲氏は五か所城へ本拠を移していて廃城となっていたらしい。この後、直昌と一之瀬城のことが気がかりである。)
形式
 平山城
遺構
 郭、櫓台、堀切、空堀
規模
 70m×190m
標高 88m 比高 14m
歴史
 延元元年~2年(1336-1337)、宗良親王が庇護され約一年間、一之瀬に滞在したが間もなく東国へ出立した。
経緯
 庇護していたのは土豪、愛洲氏であろうといわれている。愛洲氏は宝徳年間(1449-1452)の頃には五ケ所城に本拠を移していたといわれているのでほぼ100年の期間、ここを政所にしたと考えられる。
書籍
 三重の中世城館 日本城郭大系 宮川流域の遺跡を歩く(田村陽一著)
環境
 脇出という平地の中央に標高88m比高14mの丘陵があり現在は一之瀬神社となっているところが城跡である。三方を川が巡る。
現地
 一之瀬神社によりかなり改変されているが6m程の切岸を持つ主郭を中心に大きな空堀と二条の堀切などで防備している。南端の見張台は崖に直面した岩場で当時をしのばせる。
 西方400mには青木山城がある。 2016年4月に度会町史跡指定に際して、一之瀬城と青木山城は一体の城としてとらえることとなった。
考察
 一之瀬城については史料が少ないとされているのでまだまだ研究の余地がある。
感想
 築城時期は南北朝の初期で戦いの城かと思いきや守るに固いとは言い難いかわいらしい丘城である。おそらく一之瀬御所といわれるように愛洲氏の館と考えるのがよいのではないだろうか。
地図

 

詳しくは 👆 クリック!


近津長谷城

2018-06-15 22:17:41 | 古城巡り

 

 

城名
 近津長谷城
読み
 ちかつはせじょう
別名
 近長谷寺城(きんちょうこくじじょう)
住所
 多気町佐伯中・長谷
築城年
 南北朝時代
築城者 城主
 度会家行
形式
 山城
遺構
 曲輪、台状地、土塁、堀切、井戸3ヶ所
規模
 150m×160m
標高 290m 比高 195m
歴史
 貞和三年(正平二年・1347)8月、楠木正行(注1)の挙兵に呼応し外宮禰宜の度会家行(注2)らが宮川で兵糧米・具足をととのえ11月26日にはこの城に構えたと「外宮禰宜目安案」に記されている。このように早くから南朝方の拠点となっていて、田丸城・一之瀬城と共に北軍を大いに悩ましたと考えられる。
書籍
 日本城郭大系 三重の中世城館 多気町郷土史辞典
環境
 重要文化財の資材帳(注3)と十一面観音立像で有名な近長谷寺(きんちょうこくじ)の北東山頂にある。
 この城は、標高290mの城山に築かれ、北には櫛田川の中流域から遠くは伊勢湾を見渡せる。
 南北朝時代から室町時代にかけて築かれた山城としての特徴がうかがわれて、交通の要所を見おろし麓との比高でいえば100~200mに築かれている。
現地
 長さ45m、巾10m、高さ8mの台状地を中心とし、西側と北側の尾根は深い堀切で遮断している。周囲に平坦地、小台状地、土塁、堀切を組み合わせた複雑な構成を成している。
 近長谷寺の南西200mの山頂には、斜面を階段状に切り込んだ曲輪群があり別の城と考えられる。
考察
 この城より北東6.5Kmに位置する松阪市中万町の神山城と共に南北朝時代の城郭として残されている数少ない城の一つである。
感想
 ここに南北朝時代の城があったことは現地の遺構をみれば何とか想像することができる。しかしここの場合はそれ以上に仁和元年(885)と古くからある近長谷寺の様子を垣間見ることができることがもっと驚くことである。
 更に、御本尊の十一面観世音(重要文化財)は全国に約二百ヶ寺以上あるといわれる長谷型観音の一つでありながら右手に数珠をかけ錫杖(しゃくじょう)をそえる姿は日本唯一のものといわれている。
注1
 楠木正行(くすのきまさつら) 正成の嫡男、貞和四年(正平三年・1348)に四条畷の戦いで敗北し弟正時と共に自害した。(23歳)
注2
 渡会家行(わたらいいえゆき) 外宮禰宜でありながら北畠親房を支援し、南伊勢地区の軍事的活動にも挺身した。後醍醐天皇の吉野遷幸に尽力したほか、その神国思想は北畠親房の思想に大きく影響し、親房の師とされ、また他の南朝方にも影響を与えた。1256-1351(又は1362)と、90歳を超え長寿を全うしたらしい。
注3
 資材帳には「実録近長谷寺堂舎並資材田地等事」と題して、諸堂や所有地のことなどが詳記されており、平安時代に於ける南伊勢の土地の様子を知るには無二の資料といわれている。

地図

 


新城発見か!? 大阿坂城(仮称)

2018-06-03 22:24:41 | 松阪の城

 

 

城名
 大阿坂城(仮称)
読み
 おおあざかじょう
別名(候補)
 鳥丘城(とりおかじょう)
住所
 松阪市大阿坂町
築城年代
 南北朝時代(グループ内他説あり)
築城者 城主
 大宮氏か
形式
 丘城
遺構
 曲輪、竪堀、見張台
規模
 城域全体 東西200m×南北200m
 主郭 東西80m×南北70m
一族
  大宮氏は阿坂城城主である。(北畠大老)・大宮入道含忍斎、以下武蔵守(*1)、伯耆守、兵部少輔(*2)、大之丞(*3)、更に数名の名が北畠家臣帳に載る。
家臣
 北畠家臣
標高 60~90m 比高 30~60m
歴史
 この地は古くから中勢及び南勢を守る前衛地として重要視されてきた。それを証明するように歴史上の大きな戦いが何度も起きている。
経緯
  ① 1352年、南北朝争乱に初めて登場する。9月5日、細川元氏、伊勢国に入り南朝軍と戦う。10月4日、土岐頼康もこれに参陣し、阿坂城中村口に戦い南朝軍はこれを撃破する。
  ② 1415年、5月16日、室町(足利)幕府軍、北畠満雅が籠城する阿坂城を陥落させる。満雅が幕府軍を迎え撃った戦いで、兵糧を絶たれた北畠軍が山頂で馬の背に白米を流すようにして馬を洗う姿を演じて幕府軍を欺き撃退したことで白米城の異名を残す。後、和解が成立。
  ③ 1425年-1428年 満雅2回目の戦い 阿坂城で足利軍(室町幕府)に反旗をひるがえし、再び挙兵するが壮絶な岩田川の戦いで満雅討死。
  ④ 1569年、北畠具教のとき永禄12年の戦い。戦国時代、織田信長伊勢侵攻の攻撃により落城した。このとき大宮入道含忍斎、羽柴秀吉に討たれる。阿坂城は以後廃城となる。 
書籍
 周辺にある阿坂城、高城、枳城は市の発掘調査などによりたくさんの資料がのこるが、大阿坂城についての史料、資料はいまだ見つけていない。
 唯一、 「阿坂史跡マップ」(阿坂まちづくり協議会)の中に「鳥岡観音」とあり、それによると『明治地誌によると、、(永禄12年の戦いで亡くなった)大宮入道含忍斉の遺体を埋めた所で、鳥岡墓と称す』という一文がかすかなヒントを与えてくれている。
環境
  伊勢平野がくびれて細くなっている中勢部に位置し、南進する敵勢を迎え撃つにふさわしく、また多気に向かう中村川の入り口を守るに好都合な地勢である。三渡川の源流部でもあり西から東の伊勢湾に流れる川が堀となって守りを固めている。
 この大阿坂城の西1.4Kmに阿坂城(白米城、椎ノ木城)、南西1.2Kmに枳城、北0.5Kmに高城を見る。ちょうど枳城と高城の中間に位置し、これら三つの出城が連携して本城である阿坂城を守っている位置関係にある。
 枡形山から東に派生する主尾根の先端部舌状丘陵地にある。枡形山に登る南登城道の入り口を抑えているようである。
考察
 本城の阿坂城、出城としてすでに認定されている高城と枳城、そしてこの大阿坂城はそれぞれがみな形を同じくしていないことが特徴とも言える。
 先述したように200年の間に歴史上の戦いが幾度か行われたことによって都度、増改築されたかも知れない時間差による異なりなのか、あるいは大宮氏の多数の親族が北畠氏を守るためにそれぞれの特色を生かして親族ネットワークにより築城した結果なのだろうか。
 まったくの逆説として、本城の阿坂城を攻めるための羅城、つまり織田軍の陣城であるかも知れない、緊急的に造られた城かも知れない。そんな守りには強くなさそうな駐屯地としてだけの城なのかもしれない。
感想
 「高城」は大きく平らな曲輪を中心に周囲を高土塁で防御する居館形式であり、「枳城」は単郭プリン型で標高とその位置を生かした見張台的山城形式である。
 本城である「阿坂城」はその標高を生かした山城形式である。白米城の単郭プリン形と一方虎口や土塁を持つ椎ノ木城とは築城時期が異なるという説もあり、本城としての威厳を保つ。
 そしてこの「大阿坂城」はそれらとはまた違った形式で造られていると思う。城と決定づけるに必要な山城の必須オプション「堀切」「土塁」の姿は薄い。標高の低さもあって、とても守りに固いとは言い難い造りである。にわか造りの気配さえ感じる。
 また単郭プリン形のように単純明快ではなく、あちらこちらに施設が分散し、防御を集中させる意向は希薄でその点からも守りが固いとは言い難い造りである。
 東西に延びる丘陵の西側と東側の2か所に何段かの削平地を連ねた曲輪群を持ち、それがまるで人間が両腕で間の谷を抱えるようなロケーションとなっている。
 その城域は曲輪の配置から北に向かって防御をしているようにも見受けられる。
結論
 限りなく城に近い構造物であるが、とても素人の手に負える案件ではない。
追記
 平成30年6月5日 ある造園業の方にご同伴を願いこの城に入った。
 北の竪堀の途中にある大木の樹齢を推定していただくためである。
 結果は、樹種;椎木 樹齢200年から250年 実生 状態;肥沃な土壌で現在も健康な樹勢である。
 思惑の樹齢450年などの推定には至らなかった。竪堀が造られてから200年~250年後に実生で生えた椎木であると考えられる。
*1 下図、樋田清砂氏作成の「北畠氏家臣団配置図」によると、「阿坂政所・大宮武蔵守」と表示され、居城所在地不明となっている点、研究のヒントになりそうである。政所の表現からは居館風の施設が想像される。大宮武蔵守は家臣帳では大宮氏の2番目の位置付けである。これらのことと、周辺4城、阿坂城・枳城・高城・本城との関係付けの整理ができればと期待する。
*2 大宮兵部少輔;軍奉行
*3 大宮大之丞は大弓を引かせたらこの上なく達者で力持ちで、秀吉が阿坂城を攻めるとき矢で太ももを射抜かれたといわれている。
 最終章
 ここが山城と仮定した場合、山城の研究材料として格好の物件ではないだろうか。阿坂城館群として、中南勢の歴史観が塗り替えられるかもしれない魅力的な物件と思われる。

 これが平成30年6月6日現在の状況と心境である。