三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

粥見井尻遺跡(かゆみいじりいせき)

2008-06-28 16:33:55 | 旅行
三重県松阪市飯南町粥見にある「粥見井尻遺跡」を訪ねた。


この遺跡は全国的にも非常に珍しい縄文時代の初め頃(約12,000~11,000年前)の竪穴住居4棟や土偶2点と共に、多数の土器や石器が発見されました。
空から住居跡を見る。丸く見えるのが住居の跡。直径4m~6m。穴の深さ60Cm位。



日本最古の土偶。全長6.8Cm


下の絵は粥見井尻遺跡の様子を想像したもの。森はドングリのなる落葉広葉樹を中心に針葉樹や常緑広葉樹も混じっていたようだ。櫛田川に面して1・2軒の家があり、数人から数十人が住んでいた模様。家のまわりの森は次第にひらけ、草地や広場ができてきたと思われる。森でドングリを拾い、水辺で保存の仕事をした。櫛田川ではサケ漁が行われ、土偶や土器を作っている。石器は目の前の河原や遠くから適した石を手に入れて作った。狩は弓矢が中心で槍も使ったようだ。しかし、主な食べ物は植物質であり、狩の獲物は時々手に入るごちそうだったようだ。


おいらの人生

2008-06-26 17:57:27 | 日記帳
 人生って何?

 人の幸せって何?

 59歳にして未だに分からないこのこと。

 今が不幸せなことはない。

 なのにこの問が頭をもたげるのはなぜなんだろうか。

 社会保障の進んだ西欧諸国に比べて日本のそれは見様見真似の未成熟の社会保障だ。
社会保障の進んでいる国はお金の面よりも精神面で成熟しているのだと思う。それに比べて日本はお金の面のみが先行して精神的な面で遅れをとっているように思う。

 私は社会保障を期待するものではない。本来富める国は社会保障が充実していていいだろう。万人の幸せを保証して欲しいものだ。しかし、その前に自分の保証は自分で出来るところまではやりたいものだ。世の中の仕組みが万全ならそれに越したことは無いがそれに頼りすぎてもいけない。

 全てはお金に換算される。反対の意見もあるだろうがお金がなければ生きていけないのも事実だ。現役でお金を稼いでいる間はいいのだが、何らかの都合で現役を退いたときから苦悩は始まる。

 現役を退いた人間がその後を幸せに生きていくにはお金をどれだけ持っているか、都合付けられるかに掛かってくる。最初の別れ際は年金だろう。年金をもらえるか否か、どれだけの額を手にすることができるか。その次に現役のときにどれだけの蓄えをしていたかどうか。

 年金の問題は今でも混乱しているように社会保障の体を成していないと思う。共済年金や厚生年金を受給できる人は良しとしても国民年金だけの人で収入が途切れる状態の人は悲惨だ。

 中には現役時代に蓄えをした人で悠々の人もいるだろう。そこからも都合の出来なかった人達が問題になってくる。

 彼らが悪いのかというとそうでもない。万全な制度があるわけでもないのでそれを見越して準備をしてこなかったのだからそういう人が悪いと言えるだろうか。

 日本の社会保障や民主主義が成熟するには私が生きている間はムリだろう。あと半世紀や一世紀は十分必要に思う。なら、現在をどう乗り切るのかだ。

 そんなことを考えると白髪が増える。


三瀬砦跡(みせとりであと)

2008-06-20 20:43:53 | 古城巡り
先日三瀬谷へ行った。

北畠氏の歴史が刻まれているところだ。

先日のブログにあるように北畠具教(とものり)の館跡がある場所は山裾だが、この三瀬の砦跡はそこから数百メートル下の宮川沿いにある。三瀬とはこの地の豪族・三瀬氏のことである。

砦西方より東方を望む。正面は高さ3メートルの土塁であり外周を造っている。

詳しくは説明板の記述を留めよう。

 三瀬砦跡は今から500年ほど前の室町時代~戦国時代に築かれた城砦である。城砦の範囲はおよそ2、500㎡、城塞の正面東側には田畑が広がり集落が一望でき、一方側面と背後は宮川の本流とその支流大谷川の合流点の、河岸段丘が岬状の断崖となる地の利を得た要害の地にある。城砦は大きく東西二つの郭の分かれ、さらに西に堀切で画された小郭がある。郭の周囲には高さ3メートルの土塁があり、東側の方形の郭は土塁の内側でおよそ20メートル×14メートルあり、井戸跡も残る。東の郭の東面と北面の一部には石垣や空堀があった。石垣は明治初期に取り外され、空掘も徐々に埋まってはいるが、保存状態は良好である。なお、城跡の内部には井戸があり、奥の土塁上の平坦な高台には武士の守護神でもある八幡社がまつられ、毎年3月には地元で祭事が行われている。
 当地は城砦の北側を通る旧熊野街道の宿場で、宮川の渡しや舟運もあり、さらに湯谷・相津などの峠を越え飯高・一志・吉野の通じる交通の要衝の地でもあり軍事的にも経済的にも重要な場所であった。
 この城の城主と伝えられる三瀬氏は北畠氏の家臣としてこの地を治め、永禄12年(1569)伊勢に侵攻した織田信長と北畠氏が戦った大河内城合戦でも奮戦し、北畠具教が織田軍と和睦し再起を秘めて当地の西方の上三瀬地区の三瀬館に隠棲したときも三瀬館守護の支柱となったと伝えられている。当城主の北方の慶雲寺は三瀬氏の菩提樹と伝えられ、三瀬氏の位牌や三瀬氏最後の武将とされる三瀬左京祐の木造が安置されている。
 当城砦跡は、伝承の真偽ははともかく、室町時代から戦国時代の地侍層の城砦の面影よく残す貴重な例として県の史跡に指定され、大台町教育委員会・下三瀬区三瀬砦保存会が保存・管理している。
 大台町教育委員会
 下三瀬区三瀬砦保存会

鳥居から砦中に続く道は苔むしている。

東面の土塁上から西方を見る。現在は杉に覆われているが中央付近に井戸跡、後方奥に八幡社があり往時を偲ばせる。

子安観音

2008-06-19 23:01:25 | 旅行
鼓ヶ浦の子安観音。

周辺では有名な観音さん。

始めて伺いました。

そして始めて見た花がありました。

沙羅の樹の花です。

説明文を書きます。

 お釈迦様が入滅された時、そのそばに二本の沙羅が生えていたという伝説から、沙羅双樹といわれます。
 ナツツバキの一種で初夏になると清楚な白い花が咲きます。
 この樹の花の生命は短く、平家物語の「沙羅双樹の花の色、盛者必哀のことわりをあらわす」の句で知られ諸行無常の理を説いています。

とありました。

白い花びらの周囲は細かいギザギザになっています。白はあくまでも白いです。

今日のところでは少しピークを過ぎていると思われます。

その横には三重の塔が建っています。

 






三瀬館跡(みせやかたあと)

2008-06-18 16:42:28 | 古城巡り
 ここは伊勢国司八代北畠具教(とものり)卿の隠棲の地である。永禄十二年(1569)具教は大河内城において北畠氏の総力を挙げて織田信長の大軍を迎え撃ったが、やがて信長の三男織田信雄を養子ととする条件で和議を結んだ。その後具教は宮川筋ににおいて最も要衝であるここ三瀬の地に館を築いて隠居し勢威の回復を図ったが天正四年(1576)信長の指令により信雄のさしむけた刺客によって謀殺された。
 館跡は鎌止山の麓斜面を改修してほぼ三段にしつらえられているが、そのどこに居住されていたかは明らかでない。


寺子屋

2008-06-18 16:13:16 | 旅行
道の脇にこんな建物がありました。
看板の説明文を書きます。

寺子屋跡

明治初期、千代・相鹿瀬の寺子屋として使用され、建物の中には3畳ほどの部屋がいくつかあった。その後、別の場所に千代尋常小学校が建てられ、寺子屋は閉鎖し、一時は自転車屋として繁盛した。