三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

のろしの揚げ方変更

2020-01-30 21:55:48 | 古里の歴史

 松阪山城会では過去三年間2月にのろし実験をしてきたが、この時期白米城の山頂は季節風で思ったような姿でのろしが揚がらないことは既に分かっている。

 今年はちょっと違う方法でやってみることにした。先ずは昨年までの道具たち。

地形の影響を受けてまったく調整が効かない。据え置き式なので発火中は動かすこともできない。

 

いっそのこと、高さを上げる。5.7m高さとなった。

 

 

 

 どちらにせよ風は吹くと仮定した上で、地上の変則的な風の影響を受けない高さまでもっていけば流されたとしても安定したのろしとなる、と想定した。

 

 これで今年はやってみよう。

 

 

 

 

 

 

 


白米城のろし実験

2020-01-29 08:08:27 | 松阪の城

 北畠氏の情報伝達手段の一つにのろしがあったと考えられる。霧山城から、髯山のろし台黒米城を経由して、阿坂城へ、そして最後には大河内城へ。

 その一端として、松阪山城会ではのろし実験が行われている。のろしの実際はどうなのか、有効性は伝承のようにあるのか、ルートはどうだったのかなど明らかにしようとしている。

 松阪の城50選」にもそのことは取り上げられている。直線距離なら20Kmに満たないが如何せん、山間部と平野部でいくつもの山が連なり、想像以上に距離感がある。このことが解き明かされることを期待する。

 

のろし実験の様子

2017.2.16    第1回

 

2018.2.15    第2回

 

2019.2.7    第3回

 

 2020.2.6  第4回

 阿坂城にてのろしを揚げる予定。この時期、見晴らしの良い山頂で、のろしをまっすぐ高く揚げるのは気象条件からかなり確率が低い。

 過去3回分の阿坂城におけるのろし実験の様子から、今回につなげられる注意点は何か探ってみる。

 

 

 

 


天空の城 霧山城

2020-01-28 07:28:10 | 古城巡り

霧山城

住所 津市美杉町多気・八知・奥津

標高 560m 比高 237m

規模 東西150m×南北270m

👆 大洞山雌岳(標高985m)から見下ろす霧山城

 霧山城は北畠氏の本拠地であった。ここから伊勢平野の出城や各山中に点在する山城と

のろしを使って情報のやり取りを行っていたと考えられている。

 信長の伊勢侵攻の際にはこの本城と髯山黒米城阿坂城を通じて大河内城と連携して

いたと推定される(複数のルート説あり)。

 

 


阿坂城の堀切を新たに確認

2020-01-27 09:19:50 | 松阪の城

山城探訪は面白い。いつも訪れているなじみの阿坂城で新たな堀切を確認した。「山城は調べつくされている」と考えない方がよいという例である。

場所の特定(GPS軌跡の北東の旗2カ所が新堀切の場所)(上方、北の旗2カ所は水源地と思われる場所)

枡形山(阿坂城)から北東に延びる尾根筋の2箇所に堀切を確認した。

新堀切1(標高の高い方)

新堀切2(標高の低い方)

共にやや大型である。(尾根がしっかりしている)

遺構はかなりしっかり残っている。

阿坂城がある枡形山から延びる尾根にはまだ未発見の遺構があると想定している。全容はまだまだ明らかでないと思われる。

松阪の城50選入手

  

 

 


SAKURA 阿坂城 さくら 白米城 桜 椎木城

2020-01-26 10:23:12 | 松阪の城

阿坂城(別名;白米城)と椎木城の桜(2019年撮影)

👆 中央、頂上が阿坂城(別名;白米城)と右側に椎木城

👆 阿坂城、主郭の登り口

👆 主郭中央に白米城の顕彰碑

👆 伊勢平野と奥に伊勢湾を一望する。

👆 松阪インター方面、山が笑っているようだ。

👆 観音岳、堀坂山方面。

👆 青山高原方面。

👆 主郭下より厳しい切岸を望む。

👆 同。

👆 同。

👆 同じ場所を東から見る。

👆 中ほどの堀切の残り方が素晴らしい。

👆 切岸の厳しさが際立つ。

👆 隣接する椎木城の細長い曲輪。

👆 椎木城から白米城を望む。

2019年4月9日撮影

 松阪の城50選が発刊(1,000円/税込み)されたが表紙を飾ったのはやはり桜の白米城である。松阪の城マニアにとっては外せないカットということだろうか。

書店では手に入らないので、厄介だ。

チラシによると、

郵便はがきかEメールでの申し込み代金は後払いとのこと。

郵便は、〒515-0063 松阪市大黒田町1850-5 高瀬孝二

Eメールは、mphoto_7@mctv.ne.jp 門山信男

とのこと。

 

 


阿坂城

2020-01-25 15:41:59 | 松阪の城

松阪の城50選

阿坂城 SAKURA

阿坂城

あざかじょう

城    名 阿坂城
住 所
松阪市大阿坂町
築城年 1350年ごろ
築城者 北畠親房
形 式 山城
遺 構 郭(白米城・椎ノ木城)、堀切、竪堀、土塁
規 模 南北300m、東西150m
城 主 北畠親房、北畠満雅、大宮入道含忍斎
標 高 312m
比 高 270m
歴 史 南北朝時代から室町時代を経て戦国時代で終える217年間の歴史がある。
経 緯  
  ① 14世紀 築城時期 北畠親房のとき 文和元年・正平7年(1352)の戦い
 

    南北朝時代;9月5日、細川元氏、伊勢国に入り南朝軍と戦う。10月4日、

           土岐頼康もこれに参陣し、阿坂城中村口に戦い撃破する。

  ② 15世紀 63年後 北畠満雅のとき 応永22年(1415)の戦い
 

    室町時代;5月16日、室町(足利)幕府軍、北畠満雅が籠城する阿坂城を陥

           落させる。和解が成立。白米城伝説のとき。

  ③ 15世紀 10年後 満雅2回目の戦い 1425年-1428年
 

    応永32年;1425年、北畠満雅(みつまさ)が阿坂城で足利軍(室町幕府)

           に反旗をひるがえし、再び挙兵するが岩田川の戦いで満雅討死。正長元(14

           28年12月21日)晒し首となる。

  ④ 16世紀 141年後 北畠具教のとき 永禄12年(1569)の戦い
 

    戦国時代;8月26日、大宮入道含忍斎、羽柴秀吉に討たれる。阿坂城は以

           後廃城となる。しかしこの時秀吉も一生に一度のけがをした。

書 籍 三重の中世城館
環 境 南伊勢の入口と多気への入口の両方を俯瞰できる場所にある。
家 臣 大宮兵部少輔;軍奉行
現 地

 支城に椎の木城を持つ。  逆かもしれない。椎の木城が主郭で白米城が支城か。

 出城に高城と枳城を持つ。山頂へは整備された道が浄願寺から続いている。ハイ

キングコースとして人気があり年中人が訪れている。

考 察

 北郭(椎ノ木城)は虎口や土塁や堀を持つが、南郭(白米城)は虎口も明確に

 分からず郭に土塁もなく、腰郭も完成度が低くく城の個性が違うところに面白さ

 がある。両方合わせても大きな山城ではなくコンパクトである。

感 想

 白米城伝説は有名で吾輩も小さいころから聞いていた。ハイキングでここを訪

 れて白米城や椎ノ木城を見て山城ファンになる人がいるかもしれない。

地 図

 

 


野中城で新遺構確認

2020-01-22 22:09:17 | 日本の城

野中城再訪城

 ☝ 現在、鉄塔が建つピークの西側に竪堀があるのを確認した。北側の尾根にある堀切は以前から認

知されているが、こちらの竪堀はは先輩諸氏の縄張図に記されていない。

 ☟ 同時にその堀切の先に、少し線がずれるが竪堀も認められ、これも先輩諸氏の縄張図にない。

 写真には収められなかったが同ピークの南側のブッシュの中には竪堀と堀切がそれぞれ一つずつある

ことを同行者が確認している。

 野中城の兄弟とも思える二こぶのピークは両方とも砦、或は城として機能していたことが裏付けられ

た。鉄塔工事により山頂は改変されて当時の面影もない。いかにも残念である。はたして、鉄塔が建て

られる前の調査資料はこの世にあるのだろうか?

 一つ疑問が残る。先輩諸氏がこれほど見やすい遺構をなぜ縄張図に記さなかったのだろうか、という

点である。現在、ブッシュに覆われている南側は当時もそうだったかもしれない。しかし、西側の遺構

は木立の中なので以前ブッシュとは考えにくい。

 ピークの周辺を歩けば見つかる遺構である。

 何れにしても収穫のある再訪城であった。

 ☟ 帰りがけには谷に水場と思われる場所を確認した。

 野中城は別名「野中浅間砦」といわれるが、なかなかの遺構である。

 

 

 

 

 


空堀、土塁?

2020-01-21 22:03:38 | 日本の城

林の中に遺構かもしれない構造物発見!

一見空堀のように見える。

 

続いてあるこちらは土塁のように見える。ここは一帯が中世の城館跡のようにも見える。

しかし、決め手に欠ける。

この先どのように調査をしていくべきなのか。

前途多難!!