烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

夷狄を待ちながら

2007-10-01 22:55:26 | 本:文学

 『夷狄を待ちながら』(J.M.クッツェー著、土岐恒二訳、集英社文庫)を読む。
 クッツェーの三作目の小説である。舞台はどこかの帝国の辺境で、主人公の「私」は民政官としてその地に勤務している。夷狄の来襲があるといわれているその地に帝国の首都からジョル大佐という人物が派遣されてくる。彼は野蛮人たる異邦人たちを容赦なく捕らえ拷問する。「私」は拷問で傷ついた少年を介抱する。「私は、囚人たちに食事を与え、医者を呼んでできるだけの手だてを施させ」る。夷狄の不穏な動きがあるというもっぱらの噂であるが、「私自身はなにひとつ目撃していない」。そんな中で、私はある夷狄の女の面倒をみるようになる。それが元で「私」は夷狄に内通しているという嫌疑をかけられ、ジョル大佐に拷問を受け、危うく命を落とすところまでいく。
 夷狄の襲来という言説があるためにさまざまな思惑が交錯し、物語が進んでいくのだが、その夷狄の実体ははっきりしない。それは私が趣味で発掘している遺跡の木簡の文字がその解読のしかたによって「幾通りにも読める」ように、見方によって異なる姿をとる。

 「それじゃこんどは次のがどんな内容か見てみましょう。ご覧のようにこれにはたった一文字しか書かれていません。それは夷狄の言葉で戦争という文字ですが、別の意味もあります。つまりそれは復讐という意味にもなり、もしこうやって上下をひっくり返せば、正義と読むこともできます。そのうちのどの意味が意図されているのかはわかりません。」

 こう発言する「私」も民政官でありながら、ジョル大佐からみると夷狄に通ずると嫌疑を受けた者であり、「唯一の義人として自分の名をあげたがっているように見える」。そんな「私」は、「ただの道化、瘋癲に過ぎない。汚くて、臭くて、一マイル先から臭ってる。老いさらばえた乞食」とされる。
 「私」は夷狄の女をほんとうに理解できているのか。その女の体をいつも愛撫しながらいつも「私」は「斧でばっさり切り落とされたかのように、睡魔に襲われ、昏睡状態に陥って」しまう。夷狄の女の肉体の前に「私」はいつも解読を拒絶され、眠ってしまう私はその不能を曝け出す。
 その夷狄の女を国に帰し、砂漠から戻った「私」は、女と寝なくなった。寝床の中で性欲のために勃起をするが、それは「欲望とはなんの関係もない」。女の姿態を思い出しつつ、「私」は

自分自身に触れようと手を伸ばす。弾むような反応は返ってこない。まるで自分の手首に触れたみたいだ。自分自身の一部ではあるが、硬くて、鈍い、なんら独自の生命を持たない一物。それを忘却から救出しようとしてみるが、なんの感覚もないのでそれは不毛な努力となる。「疲れた」と独り言をもらす。

欲望とは無関係なただの痙攣的な興奮-疼きを内に感じながら「私」は、沙漠へ返した女が馬に跨りまた戻ってくる日を夢想する。
 この物語を強圧的な帝国と虐待される夷狄の渦中にありながら暴力から後者を擁護しようとする人間の物語と読むこともできるだろうが、それよりも物語を刻むことの根源的な不可能性を示す物語であるように思われる。経験が与える興奮を語ることの欲望へと変える力の困難さが語られているように思われる。