烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

明治風物誌

2007-08-15 19:54:10 | 本:歴史

 『明治風物誌』(柴田宵曲著、ちくま学芸文庫)を読む。
 著者は明治30年生まれで逝去されたのが昭和41年。目次を眺めると、明治ならではの項目と、現在でもなんら違和感のない項目とがある。前者としては、「ミラー公判」、「西洋菓子」、「人力車」、「ペストと鼠塚」、「煙管」、「デヤボロ」、「連帯旗」、「西郷星」、「頌徳表」、「凌雲閣」、「上野の戦争」、「単騎旅行」、「天長節」、「超然派」などが並ぶ。後者としては「野球」、「万年筆」、「いちご」、「電車」、「運動会」などなど。中には現在でも通用するが、表記が現在とは異なっていたり、現在では日常では漢字表記はしないものとして、「扇風器」、「瓦斯」、「石鹸」、「蝋燭」、「煉瓦」、「撞球」といったものがある。
 この手の本を読む時は、今ではなくなってしまったものについて知り、こんなものがあったのかという驚きを覚える、今でも日常接するが、明治時代にはこんな感覚で捉えられていたのかという感慨を覚えることが楽しい。いちいちとりあげているときりがないのであるが、例えば

万年筆は普通に皆マンネンヒツと云つてゐるが、古風な人はマンネンフデと云うやうである。現に「思ひ出す事など」のルビもマンネンフデになつてゐる。沼波瓊音(ぬなみけいおん)などといふ人は「泉筆」と称し、「泉筆に水を通すや夏に入る」「泉筆の墨の出悪くなりにけり厭な人来る兆なるらむ」といふ句や歌を作つてゐる。たぶん作者の造語ではあるまいと思ふが、一般にはあまり行はれなかつた。句や歌の場合、最初の五文字に置くには、「万年筆」は調子が悪いから、ここは泉筆とするのが当然であらう。

というのを読むと万年筆を見る目が俄然違ってくるのである。万年筆の書き味というのは好きだが、「まんねんふで」だと思うとまた書き味も違って感じるし、「泉筆」で手紙を書くと思うとなんだか詩人になった気分がする。こうした読み方なり異名は、古臭いという印象よりもむしろ新鮮な印象を呼び起こすように思えるがどうだろう。
 「携帯電話」がいずれ「携帯情報端末」という名称(あるいはもっと斬新な名前)になり、「携帯電話」なんて古臭いというようになってもさらに時を経れば「携帯電話」が新鮮な印象を呼び起こすような時が来るかも知れない。

 この項には、漱石がはじめて万年筆を手にしたのが彼がイギリスに留学する際であったこと、手にしながらも船中で「器械体操の真似をして壊してしまったため」、留学先では万年筆でなくペンを使っていたというエピソードも紹介されている。全集では「機械体操」と書かれているが、果たしてどのような真似をしたのだろうか。この箇所についての註は見当たらない。先日漱石とエキササイザーのことを読んだが、漱石は留学前に機械体操のようなことをしていたのだろうか。


愛と戦いのイギリス文化史

2007-08-11 23:44:16 | 本:歴史
 『愛と戦いの文化史』(武藤浩史編、慶応大学出版会刊)を読む。戦間期(1900-1950年)におけるさまざまなイギリス文化を考察している。1900年代前半というのはどういう時代だったか。
 小説上一度死んだことになっていたホームズが、1901年『バスカヴィル家の犬』で再登場する。1904年『ピーター・パン』が劇として上演される。1899年から第二次ボーア戦争が勃発する。1912年タイタニック号が遭難する。第一次世界大戦後1920年にアガサ・クリスティの『スタイルズ荘殺人事件』が発表される。1922年T.S.エリオットの『荒地』、27年にヴァージニア・ウルフの『灯台へ』、28年にD.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』が発表される。イギリスではないが、1916年にはアインシュタインが一般相対性理論を発表し、同年フロイトが『精神分析入門』を世に問うた。
 さまざまな出来事を目に付くままに並べたが、生活世界のいたるところで機械化が進行し、特に戦争が大きく一般の人々に暗い影を落とすようになった時代であったといえるだろう。大英帝国として拡張し、栄華を極めた時代からさまざまなところで綻びが見え始め人間の「病理」が注目されつつあった時代でもあった。
 人間が蝕まれるということに対して過敏になり、それに抗おうとする動きが出てくる。この時代の少し前、マックス・ノルダウは『退化』を著し、都市住民は「神経過敏な状態」に置かれ、退化しつつあることに警鐘を鳴らしていた。同時にイギリスは出生率の低下が目立っていた。1876年に36.3だったのが、1914年には24.0に低下し、上層階級での低下の危機が叫ばれていた。現代の日本の出生率からするとこれで騒がれていたのが不思議なくらいだが、社会階層の構造を維持することができなくなるという不安を起こし、ここに反ユダヤ主義が忍び込み、優生学が重要視される。
 退化に対抗するため、身体を壮健に保つことが流行する。ユージン・サンドウというボディビルダーが”国民的アイドル”になり、筋肉増強のためのエクササイザーという器具が売れる。本書で初めて知ったのだが、このサンドウは夏目漱石と同い年で、しかもその体操器具が漱石の日記にも出てくるのだ。
 「雨。西村にエキザーサイサーを買つて来て貰ふ。之を縁側の柱へぶら下げる」(明治42年6月27日)。「エキザーサイサーをやる。四五遍。夜からだ痛し」(同年6月28日)
 サンドウが発行していた『フィジカル・カルチャー』という雑誌にはその体操をしている図が描かれている。題して”The Great Expander”。筋肉を伸展させ筋力増強させることで、英国が偉大なる領土拡張者である隠喩も込められている。
 あの胃弱の漱石がイギリスから遠く離れた極東の木造家屋の中で筋力増進に励んでいたというのは滑稽な感じがする。どの程度役に立ったのだろうか。この日記の5年前には日本は”大国露西亜”に打ち勝ち、帝国主義の道をしっかりと歩み始めたのである。

記念日の創造

2007-08-08 21:57:27 | 本:歴史

 『記念日の創造』(小関隆・編、人文書院刊)を読む。
 さまざまな記念日がどのような経緯で設定され、そこにどのような歴史的意味が込められているのかを、ヨーロッパ、アジアの記念日を例にとり考察を加えている論文集である。編者の小関隆氏は最近『プリムローズ・リーグの時代-世紀転換期イギリスの保守主義』という本を岩波書店から出しているが、この時代の政治家ベンジャミン・ディズレイリ(の命日を記念して作られたプリムローズ・デイのことを書いている。これを読むまで、ディズレイリという政治家がどんな人かは全く知らなかった。Wikipediaで検索すると、冒頭にこうある。

初世ビーコンズフィールド伯ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield. 1804年12月21日-1881年4月19日、首相1868年、1874年-1880年)は、イギリスのヴィクトリア朝の政治家である。小説家としても活躍した。また、現在に至るまでイギリス首相となったユダヤ人は、彼だけである。1876年に伯爵を授けられ、ビーコンズフィールド伯を名乗った。

そのエピソードの欄にはこうある。

統計データの信憑性を皮肉った"There are three kinds of lies: lies, damned lies, and statistics"(「世の中には3つの嘘がある。一つは嘘、次に大嘘。そして統計である」)の言葉が有名である。

  • ヴィクトリア女王との信頼関係が、政権長期化に結びついたといわれる。女王はことあるごとに、自ら庭先で摘み取った桜草をディズレーリに贈った。首相は「他の何よりも勝る贈り物」として喜々と受け取るというしだいで、二人の仲は恋仲と誤解されんばかりであったという。
  • 上記のサクラソウのエピソードから彼の命日は「桜草忌(サクラソウの命日)」と呼ばれる。

 このヴィクトリア女王から桜草をプレゼントされたというのが最も大きなエピソードであるようだ。日本であれば皇后から桜にちなんだ贈り物を下賜されたといったところだろうか。彼はヴィクトリア女王の15歳年上である。「国民全体に奉仕したことで、党派や階級、地域をこえて尊敬と愛惜を集め、なかでも女王から特別に高く評価され、私的にも愛された国民的英雄」であり、「その精神が今日的状況においても有効性を発揮する稀有の先見性をもった政治家」であるという位置づけがなされているらしい。蓋し政治家としては誰もが夢見る評価であろう。こうした称賛はそうした評価を受けたいと渇望する者たちが作り出す言説であり、称賛される歴史的人物は、その欲望を映し出す一種のスクリーンである。偶像は作られるときに都合の悪い事実は隠蔽される。ディズレイリの場合にも彼がユダヤ人であることには触れられない。
 彼は大英帝国の拡張主義を唱えた(大英国主義)。逆にヴィクトリア女王のおぼえがめでたくなかったグラッドストンは植民地を放棄することを唱え、内政に力を入れるべきと唱えた(小英国主義)。その後の歴史を見るとグラッドストンの方が「先見性」があったのだろうが、拡張を唱える右肩上がり主義がやはり人気があるのだろうか。


<民主>と<愛国>

2007-08-02 10:42:17 | 本:歴史

 『<民主>と<愛国>』(小熊英二著、新曜社刊)を読む。
 1945年から70年代初頭までの戦後思想を年代順に追いながら、戦後の日本思想を検証していく著書である。索引まで入れると966頁という大著であるだけに読み応えは十分。戦争を全く知らない世代の自分としては初めて知ることが多く勉強になった。
 本書では、対象となる戦後を敗戦から五十五年体制が成立し、翌年「もはや戦後ではない」といわれる時期前を「第一の戦後」とし、それ以後を「第二の戦後」としている。「第一の戦後」においては、日本はまだ貧しく、アジアの後進国であり、社会秩序はまだ不安定であった。その後日本は飛躍的な経済復興を成し遂げ、社会も安定化した。著者は、この時代の変化に注意を喚起し、「民主主義」、「平等」、「愛国」といった言葉が表面的には同じでも、語られる内実が異なっていると指摘する。このことは当時の背景がよくわかるようにさまざまな時代の証言が引用してあり、説得力を感じた。
 また本書を読んでよくわかったのが、戦後知識人が終戦当時どの世代であったのか、どこでどのような戦争体験をもったのかがその思想を理解する上で重要であることだ。戦後思想が、一般的にみてその年長世代への批判を内に秘めていたということだ。敗戦時に二十歳前後以下だった世代にとっては、”戦争が通常の状態”となっており、一部の人にとっては敗戦は解放ではなく価値観の崩壊として受け止められていた。それよりも年長だった人々は戦時中に戦争を批判することができなかったという深い精神的傷を負っていた。丸山眞男は年長の”オールド・リベラリスト”を批判し、吉本隆明などの「戦中派」は、丸山たちの世代を批判し、江藤淳や石原慎太郎は戦争体験に固執する「戦中派」を批判していたという構図である。これは年少の世代になればなるほど戦争に対する加害者意識ではなく被害者意識の方が優勢になっているという傾向と関係しているようだ。この複雑な加害者意識と被害者意識のアマルガムが外に向かうとき、極端な体制批判や反米行動、転向者批判などさまざまな標的に向かっていった。一口に戦争体験としてまとめられるが、世代を初めとして、出身階層や居住地域、軍隊経験や空襲体験の有無によって非常に多彩であることがよくわかる。
 憲法についても制定当時は保守派は絶賛し、左派は改憲を主張していた当時の状況や六十年安保闘争において国民が岸政権と対峙した状況の記述は非常に興味深かった。護憲と改憲についても法理的なことは別にして、こうした戦後の社会・経済情勢の推移も含めてみると、著者が述べているように速やかに改憲する必要もないのかもしれない。本書でも引用されているが鶴見俊輔のいうように「平和憲法という嘘」を「嘘から誠を出したい」として支持していくのも一つの方向であろう。
 戦後のさまざまな思想を辿ってみて感じたことは、一つには不思議なことそして不幸なことに戦争をまったく知らない世代にその思想が移植されていないのではないかということだ。戦争を経験した世代間どうしで論争しながら、その経験からでた思想が知らない世代へ伝達され育まれていないと感じられる。そして第二にこれらの戦後責任の問題が国内に閉じた議論であったように思われる。戦争で被害にあったアジアの人々に対する視点が抜け落ちていたのではないか、そう思わざるを得ない。


祝祭の<帝国>

2007-07-31 21:44:38 | 本:歴史

 『祝祭の<帝国>』(橋爪紳也著、講談社選書メチエ)を読む。
 明治から昭和戦前期にかけて都市に出現した工作物(凱旋門、杉の葉アーチ、花電車)を紹介した一風変わった本である。著者はこれらの造形を「めでたさを表す環境言語」と表現している。
 杉の葉アーチというのは、鉄や木でアーケードや屋根型などの枠を造り、そこに杉の葉を飾りつけた造形物である。こんなものが明治時代に開化のしるしとして作られたことは本書で初めて知った。さまざまな建築の落成記念や橋の開通記念など公的空間の装飾ばかりか正月の松飾りの代わり、結婚式の飾りにも使用された。一世を風靡したそうだが、西洋風のものから和洋折衷の形、純和風の形(鳥居など)と変形したという。その後飽きられたのか次第に廃れ、門松や松飾は昔ながらの伝統的な様式に復した。
 凱旋門は端的に戦勝記念の造形物として西洋のそれを模倣して作られたものだが、掲載されている写真を見ると、アーケード形式の実に巨大なものがあり、驚きである。
 花電車は最初「装飾電車」といわれたらしいが、初期には帝国陸海軍にかかわるパレードに使われた。大正時代になると軍事イベントは少なくなり、天皇家の祝賀行事が多くなるという。
 これらの造形はその新奇さ、壮大さ、華麗さで衆目を圧倒し、祝われる対象をさらに美化する効果をもたらしただろう。杉の葉アーチなどは最初公的で大きいものが、次第に縮小しつつ私的な祝祭行事に転用されたようだから、庶民が祝祭性を共有するということで共同体意識を高めるのにも役立っただろう。こうした造形は韓国や台湾にもあったのだろうか、それとも国内だけのものだったのだろうか。<帝国>の版図を考えると、その辺も紹介してほしかった。
 表題に<帝国>とあるが、帝国の国民の意識にこれらの建造物がどのような影響をもたらしたかという考察はあまりなく、表題にもう少し工夫がほしいところである。


日中戦争

2007-07-30 20:32:55 | 本:歴史
 『日中戦争 殲滅戦争から消耗戦へ』(小林英夫著、講談社現代新書)を読む。日中戦争については講談社からも新書が出ている。本書では戦争遂行という軍事的観点からこの戦争が当初短期的に決着をつける殲滅戦争として開始されながら、中国および諸外国との政治外交で失点を重ね、日本がいまだ経験しなかった消耗戦へと突入し、敗戦への道を進んだと分析する。当時自給戦争的な戦争を構想できた指導者は日本には稀だったようだ。殲滅戦と消耗戦との違いを認識し、長期的戦略をたてる必要があったにもかかわらず、それができなかった日本が、それを気づく機会としては、著者が指摘するところによれば、日露戦争があったという。これを当時の軍首脳は殲滅戦の一類型として位置づけていた(石原莞爾はこれに疑問をいだいていたという)。
 日本が長期的展望にたてなかった理由として、著者は日本の地理的・歴史的特性に求めている。「明治以降の日本の近代とは、たえずその時の超大国と連合し、その庇護の下で世界情勢の変化も利用しながらアジアで国益の伸張を図るという歴史」であったことが原因だとする。当時の認識は殲滅戦としてしか戦争を認識していなかったので、「十五年戦争」という呼称についても著者は皮相的な見方だと断じている。
 本書を通してのメッセージは、長期的視野にたった戦略が必要だということと、インフラとしの技術や装備などのハード面がいかに優れていても、外交的戦略というソフト面が伴わなければ負けることが十分あるということである。これを今日の日本がおかれている状況についても当てはまるのではないかと懸念している。
 長期的視野に立つということは、目的を遂行していく個々の段階で予想される場面をすべて想定し、いかなる事態になってもそれに対する対策を講じておくこと、そしてその場合に他国がどう反応するかを想定しておくことだ。目的を掲げる者は往々にしてその目的の素晴らしさに酔っていることが多いから、予想される不利な事態には目を瞑っている。これを認識させるのがそれを支える周囲の人々の役目である。「死ぬ気でやればなんとか道は拓ける」というのが、もし指導者の言葉だとすれば、それは自分の無能さを露呈しているとしてよい。まあ戦いというものは、負けるとわかっていながら受けて立たねばならないことはあるから、その場合にはどのような負け方をして、どう敗戦処理をするかというのを予め考えておき、そこから戦略を練っておき、敗戦後にも部下の人心が離れないように予防線を張っておかねばならない。
 狡猾な戦い方というものを日本人は、歴史からまだ十分学んでいないのではないだろうか。

日中戦争下の日本

2007-07-29 15:47:43 | 本:歴史

 『日中戦争下の日本』(井上寿一著、講談社選書メチエ)を読む。
 太平洋戦争へと日本が突入していくことになった1930年代の日本の状況はどのようであったのか。著者は、この時代の日本が「社会システムの不調」をきたしていたと診断する。1929年の世界恐慌の影響により日本は国際協調から地域主義へ、自由主義から全体主義へと大きく政策転換していた。この過程での不調和が顕在化したのが、日中戦争であったと位置づける。当時国内システムの改革を進めた勢力は同時に侵略戦争の推進派でもあった。
 盧溝橋事件が起きた時日本は不拡大主義をとり、現地では日中両軍が4日後には停戦協定を結んだが、近衛内閣は停戦協定を確実なものとするために、増派を決定する。抗日姿勢をとりつつあった中国はこれに反応し、戦争は長期化する。この戦争を国内的にどのように位置づけるかで問題があった。国内では帝国主義的戦争ではないかとして質問演説をした民政党の斎藤隆夫議員は懲罰委員会にかけられ、除名処分となった。この演説が問題だったのはこれが「反軍演説」だったからではなく、「いたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑居し」、「東亜新秩序」の樹立といった抽象的な目的のために領土も賠償金もとらない政府の基本方針を批判するものだったからだ。
 「吾々は、現在に於いても、帝国主義戦争には絶対反対である。然し今次の支那事変は、民族発展の戦争であって、資本主義改革を要求する所の国内改革の戦争である」と主張していた社会大衆党は、斎藤演説が日中戦争の目的を矮小化していると批判した。政党間の政策対立は、「営利経済主義」(既成政党)対「公益全体主義」(無産政党)の対立だったのだ。社会大衆党は、高額所得者への増税や戦時利得の国庫還元によって、戦争に伴う犠牲の均衡を求め、「全体主義計画経済」を求めていた。大政翼賛会が成立する前の状況というのは、「自由主義」対「全体主義」の対立だったのだ。さらに対米英依存から脱却し、東アジア圏に自給自足の経済圏を確立しようという動き(地域主義)がからんでくる。
 大政翼賛会は、ファシズム体制というよりはデモクラシー体制だったというのが著者の主張だ。ファシズム一色の戦時体制と今まで思っていたから、こうした分析は非常に新鮮で面白かった。
 日本主義は大政翼賛会の成立前後には興隆をきわめていたが、この時期から日本主義は政治目標が実現したため急速に衰退したという。

 また日米開戦も、目標喪失感をもたらした。日米開戦直後の国家主義団体の状況は、たとえばつぎのようだった。「米英に対する宣戦布告に依り対外運動の主要目標解決せられたる為運動方針の再検討を余儀なくせられ・・・予定の講演会を中止せるものもあり」。
 対米英戦争の決意を東条首相に求めていた国家主義団体は、実際に米英との戦争がはじまると、「『吾が事成れり』と歓喜する」とともに、つぎの目標を掲げにくくなり、行動も拡散していった。
 以後、日本主義は、急速に影響力を失っていく。東条首相も施政方針演説のなかで「徒ニ理想ヲ追ハズ、事態ニ即シテ」政治運営をおこなうと述べている。(中略)
 それどころか東条は、警察権力を直接指揮して、国家主義団体の摘発に乗り出している。行き過ぎた日本主義が政治に及ぼす悪影響を取り除こうとしたからである。
 こうして空虚な「神の国」=日本が成立した。


 開戦への道のりはよくわかったが、それではなぜその空虚な日本で、あのような悲惨な結果になるまで”継続”されたのだろうか。一旦始まったものは止めようがなかったのだろうか。戦争継続の要因についてはまだ分析が必要ではなかろうか。
 あとがきで著者が「この本を書きながら、「昭和戦中期の日本とは、今の日本のことではないか」と錯覚に陥ることがあった。」と述懐していることが妙な説得力をもって迫ってきた。


鉄道ひとつばなし2

2007-07-23 23:59:50 | 本:歴史

 『鉄道ひとつばなし2』(原武史著、講談社現代新書)を読む。『鉄道ひとつばなし』の続編である。前著にあった「駅から見た東京に出づらい都道府県ランキング」が沖縄県を含めて更新版が載せられている。新幹線が整備されて中央、すなわち東京へのアクセスが便利になっているように見える反面実は、地方都市では在来線のダイヤが以前よりも削減され東京に出るまでにさらに時間がかかるところが出てきているという指摘がされている。たった8ページの記事だが、著者の綿密な計算には頭が下がるし、それだけに説得力がある。もちろん自動車による移動は計算にはいってはいないが、鉄道が基本的な国家的インフラであることは現在でも変わらないから、こういうところに地方切捨ての悪影響がでているのかと心配になる。東京や地方の中核都市への集中はどんどん進んでいるが、地方の市町村は寂れているのだ。さらに、一つの鉄道線で二つの県にまたがる路線があるが、その数(K)とその区間で隣接する双方の県の駅に停まる列車が全部で何本あるか(H)を調べ上げ、各県の駅から隣接する県の駅に行くのに1日平均何本の列車があるかを示す「隣接係数」(H/K)を算出している。鉄道による移動からみて、隣の県がどれくらい遠いかを示す指標になるわけだが、これも地方ごとに格差が大きいことを著者は示している。東北地方は新幹線の開通で東京へのアクセスはよくなっているのに、隣接県どうしのアクセスは逆に悪くなっているのだ。地図上は近くても実は遠いという感覚をもつことがあるが、こうしてデータでしめされるとなるほどと改めて実感する次第である。


 別のエッセー「狙われる列車」では、昭和天皇が乗られたお召列車の爆破未遂事件のことを紹介するとともに、訪中を終えた金正日総書記が乗った特別列車が龍川駅を通過した後爆発事故があった事件のことも書いている。そこで金正日のような独裁者はなぜ列車が好きなのかという疑問を出している。



なぜ金正日は列車が好きなのか。それはおそらく、彼が独裁者であることと関係している。飛行機は、いったん離陸するや、独裁者といえども全く無力になる。あとは着陸するまで、パイロットの操縦に従うしかない。ところが列車ならば、ダイヤグラムがあっても、独裁者の命令一つで即座に停めることができる。事実上、運転士になり代わることもできるのである。


輸送機関に乗せられて移動中は誰でも拘束下に置かれている。いわば軟禁状態である。他者の自由をだれよりも拘束している独裁者はそれを誰よりも嫌うということだろうか。独裁者の話とは別になるが、鉄道が文学を生むというのも、移動中に拘束された状態に置かれながらもある程度の自由が確保されているからではないだろうか。飛行機では窮屈すぎる。あれほど人の自由を奪う交通機関はない。また文学が生まれるためには内省が必要だ。人はまったく自由である時よりもある程度の束縛下に置かれた時の方が内省的になれる。自動車によるドライブは自分で運転しなければならないから内省的にはなれない。では運転士がいればどうか。そんな金持ちはおそらく文学とは無縁だろう。


鉄道ひとつばなし

2007-07-21 22:51:25 | 本:歴史

 『鉄道ひとつばなし』(原武史著、講談社現代新書)を読む。講談社のPR誌『本』に連載されていた鉄道に関するショートエッセイをまとめたものであるが、これは面白い。著者は、東海道本線の戸塚駅近くの大学に勤務しているということだが、「授業終了後に東京に出るとき、百年以上も前に明治天皇や伊藤博文や夏目漱石が、やはり同じ区間に乗っていたという事実に思い至り、大いなる感慨を覚えることがある」ほど鉄道に寄せて歴史的想像力を馳せられる方なのである。また小学校に上がる前に日本全国の駅名を覚え、時刻表を自由に使いこなしていた鉄道ファンでもあったという。
 話題は鉄道や駅にまつわるものや鉄道周辺の風景など多岐に渡るが、特に面白いのが鉄道にまつわる人々のエピソードを紹介した第二章である。東急の創業者五島慶三と阪急の創業者小林一三の対照的人物像とそれが二つの鉄道にどのように繁栄しているか(「五島慶三と小林一三」)や下関に向かう途中で突然病に倒れた後藤新平がどのように救急搬送されたか(「後藤新平の客死」)、なぜ永井荷風は浅草に行くのに東武を利用しなかったのか(「荷風と京成」)、ドイツの鉄道網を誇っていたヒトラーがそれをどのように政治的に利用したか(「ヒトラーと鉄道」)、戦後の占領期に高見順が鉄道車内で感じていた屈辱と怒りは誰に向けられていたか(「占領期の鉄道」)など面白さは尽きない。宮脇俊三氏の死について書いたところでは、鉄道文学の将来を憂える。

 内田百、阿川弘之、宮脇俊三と受け継がれてきた鉄道紀行文学の系譜は、阿川さんよりも年少の宮脇さんが亡くなったことで存亡の危機に立たされている。どこの鉄道にどんな車体が走っているという知識ばかりをひけらかしたマニアは山ほどいるに違いない。けれども、宮脇さんほど昭和史に精通し、日本各地の四季折々の変化に鋭敏な感性の持ち主が、果たして鉄道趣味界に現れるだろうか。
 全国が高速道路と新幹線で結ばれようとする二十一世紀に、その可能性は限りなく低いといわざるを得ない。

目的地へと移動する手段にすぎないと言えば言えなくもない鉄道が、自動車や飛行機、船舶と異なりこれほど文学的生産力に富んでいるというのはどうしてだろうか。


戦争の日本近現代史

2007-07-20 15:58:35 | 本:歴史
 『戦争の日本近現代史』(加藤陽子著、講談社現代新書)を読む。為政者や国民がいかなるときに戦争やむを得ずと感じたり、戦争を支持したりするようになるのかを日本が経験した戦争を取り上げ分析するというケーススタディである。通読してみると明治維新により政治体制が変わり、日本が独立を守りながら西欧化を進めていくのに平行して軍備拡張が進められていった経緯がよくわかる。維新期においてはすみやかに攘夷論を抑えつついかに欧米に支配されないようにするかという観点から軍事外交戦略が進められた。この国家的強迫観念に突き動かされながら外には帝国主義的野心を示すという過程で、朝鮮は日本の欠かすことのできない「利益線」だったのだ。その意味で朝鮮の中露に対する独立を確保しておく必要があった。当時の帝国主義下の情勢を考えると、日本の権力者たちは客観的に情勢を分析していたことがわかる。侵略者日本という見方をすれば、たしかにそういえるのであろうが、当時の情勢を眺めると欧米列強に対する外交戦略としてそうせざるを得なかったのであろうと思われる点も多々ある。クラウゼヴィッツが定義したように、この時代は、戦争とは「政治とは他なる手段をもってする政治の継続」であったのだ。戦争は確かに悪であろうが、戦争が政治外交の一手段であった時代に対する想像力も歴史を読む上では必要だ。戦争反対とお題目を唱えるだけだと、いつの間にか「戦争」というものをある明確な時期から突然始まる行為としてしか理解できなくなってしまい、その戦争を準備させた外交や経済の問題に対して盲目になる。だから戦争になぜ負けたのかという分析よりもなぜ始まったか(始まらざるをえなかったのか)という分析のほうが重要であり、より生産的だと思う。
 また日本が悲惨な戦争へと向かっていった過程では大衆の戦争を肯定する感情とそれを増幅したメディアの影響は無視できないと思われる。対外的な政策をいかに大衆に納得させるかということ、これは権力者が自分の政策を合理化する手段でもあるだろうが、その論理があとづけ的でも好戦的な国民感情に押されると立派な開戦理由となるのだ。そのような渦中での反戦論というのがいかに無力になってしまうのかということにも私たちは肝に銘じておかねばならない。いったん振り上げてしまった矛を鞘に収めるためには振り上げたとき以上に大きな力が必要なのだ。
 本書の中で興味深く読んだのは第7講のところでとりあげられている日本の移民問題であった。第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本が北太平洋の旧ドイツ領南洋諸島処分問題と山東省利権継承問題とともにあげた人種差別撤廃問題があった。これは日米間の移民問題が中心なのだが、アメリカはそれを内政干渉だとして拒否した。アメリカが最終的に連盟に加入しなかった経緯にこの問題が大きな比重を占めていたということは興味深い。もちろん日本側も人種問題という普遍的な権利問題として定義したわけではなく、あくまで政治戦略として提出したものであるが、一般論では普遍的問題であるが、個別には内政問題として写り国際協調の蹉跌となるというのは今の環境問題にも通じるところがある。またこの移民問題に負けることが日本の「武威の減少」を意味し、ひいては日本に対する中国の態度にも影響するため参謀本部が由々しき問題だと受け止めていたというのも軽視すべからざる点だと思う。国家の威厳や体面ということが、戦争という愚かな行為にはしばしば関係するからである。国家という他者からどのようなまなざしで自国が見られているのかという不安や疑心暗鬼、また軽蔑されていると思いこんだときの怒りは戦争への格好の入り口となる。