普通ならば引き続き大分の旅と行く所だが、その前にこの事をかかねばならない。
きっかけと成った墓参りの時、叔父はよく咳をしていた。その時は余り気にもしていなかったが、その後母とのでもよく咳をするので母が心配して早く病院に行くように言ったが、叔父は「熱は無いから大丈夫」と言っていた。
しかし、何故か9月の初旬気になった母が叔父に連絡を取ると、気道の癌で3日前から入院していた。母は泣き崩れた。小学校4年で祖母が病気になり母親との縁の薄く母と20歳も違う叔父のことがとても不憫でならないらしい。
本来なら母が行く所、夏ばてでその体力が無い。ノワタリさんに連絡を取ると、「残念ながら私には手が出せない。」と気の毒そうに言われた。「でも、あなたがすればいいから、早く叔父さんの所へ行くように。」と言われたが、ノワタリさんが手を出せないという事はかなり悪いと言うことだろうと思った。すぐに妹に連絡を取り仕事を休み出かけた。幸いにも、左手首の骨折は腕の添え木と三角巾は8月の下旬には取れていた。
国立病院に見舞いに行くと、5月に在った時と大分変り叔父はとても小さくなっており亡くなった祖父に良く似ていたが、影が薄く叔父とは一瞬気付かなかった。
気道に腫瘍が出来て話すと喉の奥からヒューヒューと風が吹いているような音がした。でも、私達が行った事をたいそう喜んでいるみたいだった。
大変珍しい癌で担当医も本で読んだことはあるが初めての事なので母校に問い合わせながらの治療だと言う。同じ呼吸器系の患者の3人部屋は重苦しい雰囲気だった。叔父の家庭もうまくいっていない事もあり、叔父はもう人生を捨てていた感じであったのだろう。
久しぶりに会う妹と世間話をした後、朝日を日拝する事と腹式呼吸をする事を伝えた。
夕方になり叔母がやってきて私達を街までで送ってくれると言う。叔父は名残惜しそうに玄関まで見送ってくれ、私達の姿が見えなくなるまで手を振っていた。
の中で叔母は病気の経過を話した。7月に結婚する予定の長男の相手の家族と顔合わせをする為に上京し、その後、叔母が信心している日蓮さんをお参りするため、身延山まで行ったけど叔父は動けず麓にいたと言う。よくそんな体にになっているのに叔父を厭う事もそんな状態までほっといた事にも腹が立った。
8月には本当に体力が無くなり仕事から帰るとすぐに横になっていたという。「病院へ行ったらと何度も勧めたんだけど、聞かなくて。でも、お友達が病院に予約したからと言って、家まで迎えに来て強引に連れて行ったのよ。其処では手に負えなくて『大きな病院へ言ってください』といわれてね~」と笑いながら叔母の話は続いたが、それはお友達でなくあなたがすべきでしょと言いそうだった。
「それでも行かなくて、その友人が国立病院までで乗せていったのよ。」と言う。何と有り難いお友達、命の恩人だ。
でもその国立病院は家から徒歩でも10分掛からない。聞いているうちに、叔父は生きる事に投げやりになり、病院にも自分からは行かなかったのだろう...叔父の空虚感と寂しさを思うととても辛く、笑いながら無神経に話す叔母に腹が立ち、途中で信号が赤になった所で妹と降りた。
以前から叔母が叔父を軽んじていた事は知っていたが妹と暗く沈んだ気持ちで夕飯をとって別れた。母にどう伝えようかと重い足取りでに乗った。
しかし、危惧に終わり叔父は見舞った後、元気付いたのか明るい声で母にして来た。
半月後、数冊の本を持って見舞いに行くと前回と変り表情も明るく、良く話した。人の好い叔父なので友人達が見舞いや本や差し入れに入れ替わり立ち代りやって来て話して帰った。
毎朝、廊下で別府湾から登ってくる朝日を拝み腹式呼吸をしている事を行った。丁度廊下の先には海が見え松の木が数本海岸にあり、其処を指差した。
放射線治療をしているのだがそれだけでもう用が無いので本を読んでいると言う。叔父の胸には+の印が書いてあり、やけどをしないようにする為、日替わりで焼き鳥の串のように正面、背中、右、左と回りながら当てると言う。
しかし、それでも同じ部屋の人は喉を火傷して、熱い物も冷たい物も飲めないと言う。
隣家の人が同じ頃オートバイの交通事故で入院しているが、一度覗いたら部屋の雰囲気が全く違って明るかったと叔父は言った。病気と違い怪我は日数が経てば良くなるので希望がある。
しかし、前回と違い叔父も明るくなっていたのでほっとした。
その後叔父は火傷にもならず、抗癌剤治療に移った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます